どうしようもないくらいに好き

 今日は週に一度の茶道部の活動日だった。帰ってしまおうかとも思ったのだけれど、久しく顔を出していなかったこともあり、気分転換も兼ねて参加することにした。部員のみんなとくだらない話をしていると、気が紛れてよかった。

 私が所属している茶道部の部室からは、体育館の周りがよく見える。つい魔が差して、窓に頬杖をついて見下ろしてしまう。男バスが校舎周りをランニングしているのが見えた。こんなときでも高梨くんをすぐに見つけてしまう自分が憎らしい。赤いスポーツタオルを首に巻いた高梨くんは、翔ちゃんらしき男の子と並んで走っている。

 今日、高梨くんは佐々岡さんと一緒に帰るのだという。少し離れたところにあるテニスコートに視線をやる。目を凝らして佐々岡さんの姿を探してみたけれど、遠目からだとよくわからなかった。


「璃子、またダーリンのこと見てるんー?」


 部活の友人たちが、そう言って私のことをひやかした。茶道部の部員は、三年の先輩が四人、私たち二年生が三人、一年生が三人の計十人だ。みんな私の片思いを知っているし、微笑ましく見守っていてくれる。私は溜息をついて「うん、見てるだけ……」と答えた。

 見てるだけ。私はずっと、高梨くんのことを遠くから見ているだけだった。それで満足していたはずなのに。

 私が二年以上かけても縮められなかった距離を、佐々岡さんは一ヶ月も経たないうちに詰めてしまった。悪いのは、何も行動を起こしてこなかった私だ。わかっているのに、どうしようもなく妬ましい。

 高梨くんがランニングを終えたらしく、体育館前で待機していたいつかちゃんからドリンクボトルを受け取った。彼は少し辛そうに、肩で息をしている。なんだか昨日から妙に調子が悪そうだ。大丈夫かな、と心配になってしまう。

 ふいに、高梨くんがこちらを見上げた。ほんの一瞬、視線がかち合う。

 ――好き。

 彼の目を見るだけで、どうしようもなく胸が苦しくなる。どうしてこんなに好きなんだろう。どうして、高梨くんじゃないとダメなんだろう。どんなに抑え込もうとしても溢れ出してくる恋心に、私はなんだか泣きたくなってしまった。

 私は顔を見られないように、慌てて部室に引っ込んだ。無理やりに笑顔を捻り出すと、「私もお菓子食べようかな」と部員たちに声をかけた。



 先輩たちが「そろそろ帰ろか」と言い出した頃には、もう太陽が沈みかかっていた。夕陽のオレンジ色に包まれた部室から、私はそっと体育館前を見下ろす。ちょうど部室から高梨くんが出てきたところで、私は心臓が止まりそうになった。

 うそ、なんで。今日はやけに部活が終わるのが早い。このままだと、高梨くんと佐々岡さんが一緒に帰るところに鉢合わせてしまうかもしれない。それは絶対に嫌だ。


「あの、先輩!」

「ん?」

「私、戸締りするんで先帰っててください! すぐ帰るんで!」

「そう? ほんならお願いするわ」

「璃子ばいばーい」

「うん、ばいばい……」


 私は鍵を預かってみんなを見送った後、もう一度窓の外を確認した。制服姿の高梨くんは、体育館の前でぼうっと突っ立っている。きっと佐々岡さんを待っているのだ。私以外の女の子を待っている高梨くんのことを見たくなくて、私は目線を逸らした。

 気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸をして、私は畳の上に正座する。胃がキリキリと痛んで、なんだか吐き気がしてきた。胸の奥がざわざわと騒いで、心臓が嫌な音を立てている。嫌だ嫌だ嫌だ。もう何も考えたくない。

 ぽたり、と水滴が畳の上に落ちた。一瞬遅れて、それが私の目から溢れたものだと理解する。泣いていると自覚するともう止まらなくなって、私はぐずぐずと鼻を鳴らしてすすり泣いた。これじゃあ昨夜の夢と同じだ。夢と違うのは、ここにはハルくんがいないこと。

 夢に彼が出てくるようになってから、私はどんどん欲深くなってしまった。夢の中のように、彼と恋人同士になりたい。私のことだけを好きになってほしい。あんな夢を見なければ、彼に抱きしめられる幸せも知らずに済んだのに。

 ――会いたい、今すぐハルくんに会いたい。夢の中だけでも、いいから……。


「浅倉!」


 名前を呼ばれて、私はびくりと肩を跳ねさせた。声のした方を見ると、高梨くんが息を切らしてこちらを見ている。

 嘘、なんで。私、また夢見てるのかな。

 高梨くんが悲しげに眉を寄せたので、私はようやく自分が泣いていたことを思い出す。慌てて制服の袖でごしごしと涙を拭う。高梨くんが部室に入ってきて、私の顔を覗き込んだ。


「浅倉、どうしたん?」

「た、高梨くん……」


 なんでもないよと言いたいのに、言葉にならない。どうしてここに来てくれたの? 佐々岡さんはどうしたの? 訊きたいことはいろいろあったけど、私は溢れそうになる涙を堪えるので精一杯だった。

 高梨くんはエナメルバッグからタオルを出すと、「ごめん、汗臭いかも」と前置きしてから私に差し出してきた。心なしか湿っていたけれど、高梨くんの汗だったら全然嫌じゃない。


「大丈夫? なんかあった?」


 優しい声でそう言われて、耐えきれずに涙が零れた。私はタオルを顔に押しつけると、子どものように鼻をすすりながら泣いてしまう。困らせたくないのに、涙が止まらない。どうしようもないくらい、高梨くんのことが好き。


「そんなに優しくせんといて……」


 これ以上好きになってしまったら、本当に困る。

 高梨くんは黙ったまま、慰めるように私の背中にそっと手を置いてくれる。優しくしないでって、言ってるのに。聞き分けのない彼に、私の涙は余計に止まらなくなってしまう。お願いだから、他の誰かのものになんてならないで……。


「……高梨、くん。な、なんでいるん? さ、佐々岡さんは?」

「佐々岡さんとは別になんもない!」


 私の問いに、高梨くんはちょっとびっくりするくらい大きな声を出した。顔を上げると、彼は怒ったように唇をへの字に曲げて、眉間に皺を寄せている。


「でも、一緒に帰るって……」

「帰らへんよ。おれ、ここにいるやん」

「そ、そうなん……?」

「そんなことどうでもいい」


 私にとっては、あんまりどうでもよくないんやけど。高梨くんはキョトンとしている私の顔を覗き込むと、心配そうに言った。


「それより、浅倉大丈夫? もしかして体調悪かった? 朝からしんどそうやったもんな」


 ……もしかして高梨くん、私のためにここまで走ってきてくれた?

 じんわりと胸の奥が温かくなって、私はまた泣きそうになってしまう。ありがとうとかごめんねとか、いろいろ言わなきゃいけないことはあるはずなのに、誤魔化すように「うん」と頷くことしかできない。高梨くんの手が私の背中を優しく撫でて、私は今すぐ彼に抱きつきたいのを必死で堪えた。


「あの、高梨くん……」

「どしたん?」

「あんな、言いにくいんやけど……ここ、土足禁止」


 実のところ、さっきからちょっと気になっていた。高梨くんは「げっ」と言って慌ててスニーカーを脱ぐ。そんな様子がおかしくてかわいくて、私の口元は緩んでしまう。


「……落ち着いた?」

「うん、大丈夫……心配かけてごめん」

「全然いいよ。もうちょっとマシになったら、一緒に帰ろ。送ってくわ」

「……いいの?」


 佐々岡さんと帰る約束はどうなったんだろうか。少なからず気になったけれど、今はそれより高梨くんと一緒にいる喜びに浸っていたい。


「ちょっとごめん」


 ふいに私の頰に手を伸ばした高梨くんが、涙の跡を優しく拭う。ごつごつと節ばった指の感触に、触れられたところから熱がともって、全身が燃えるように熱くなった。




「……ハルくん」


 ふかふかのベッドの上で目を覚ました私は、隣で眠る彼の名前を呼んだ。ゆるゆると瞼を上げたハルくんは、私の顔を見るなり、息が止まるほど強い力で抱きしめてくる。


「は、ハルくん……苦しい」

「璃子。……璃子」


 確かめるように耳元で何度も名前を呼んでくる彼に、私は微笑んで「なあに?」と答える。ハルくんはそのまま私を抱き起こすと、改まったようにベッドの上に正座した。


「璃子、おれ」


 やけに真剣な瞳で、射抜くようにまっすぐにこちらを見据えている。目つきの良くない彼は、真面目な顔をするとちょっと怖い。私は固唾を飲んで、彼の言葉の続きを待つ。


「……おれ、璃子のこと好き」

「え」


 ぽかんとしている私に、ハルくんは確認するように、好き、と繰り返した。私は両手で頬を押さえる。どうしよう、嬉しい。

 ハルくんが、私のことをちゃんと好きだと言ってくれたのははじめてだ。今日、こんなに幸せなことばっかり起こってもいいのかな。思わずぎゅうっと頬をつねってみた。不思議なことに痛かったけれど、私はこれが夢だとちゃんとわかっている。


「私も、私もめっちゃ好き! 大好き!」

「いやいや、おれの方が好きやから!」

「わ、私の方が好きやもん!」


 そう言ってハルくんに抱きつくと、彼はしっかりと私を抱きしめ返してくれた。白いTシャツ越しに、彼の鼓動と体温を感じる。どくどく、と聞こえる心臓の音はいつもよりちょっと早い。

 ハルくんが私の後頭部を引き寄せると、唇を奪った。やや強引なキスに必死になって応えていると、ぽすん、とベッドの上に押し倒されていた。真っ白な天井を背にしたハルくんが、私のことを見下ろしている。


「……璃子、好き」


 そう囁いた彼の目には、見たことがないくらいギラギラとした欲深い光が宿っていた。並んで自転車を押して一緒に帰って、ばいばい、と手を振って別れた彼とはまるで別人のようだ。

 目を離せずにいると、ハルくんは再び私の唇を塞いで、口内を舌で蹂躙しながら、パジャマの上から胸に触れてくる。


「んんっ」


 敏感なところを軽く指で擦られて、私はくぐもった声をあげた。唇を離すと、銀色の糸がつうっと二人の間を伝う。ハルくんは私の耳元に唇を寄せて、そっと囁いてきた。


「……してもいい?」

「え」


 唐突な申し出に、私は固まった。これまでの彼は、頑なに最後まではしなかったのに。

 ハルくんの瞳はまだ欲に濡れていたけれど、ほんの少し不安げな色が見えた。してもいいか、と訊かれると、私の答えは決まっている。覚悟なんて、もうとっくの昔にできているのだ。私は彼の首にゆっくりと腕を回した。


「……は、ハルくんが……嫌じゃないなら……」

「嫌じゃない。ほんまはずっとしたかった。めちゃめちゃ我慢してた」

「……ん。じゃあ、しよ」


 そう言って目を閉じると、ハルくんがそっと唇を重ねてきた。私を安心させるような、優しいキスだった。……ちょっと怖いけど、きっとハルくんなら大丈夫。


「もっかい、好きって言って……」


 キスの合間にそう強請ってみると、ハルくんは愛おしそうに目を細めて「どうしようもないくらいに好き」と囁かれる。

 その夜、彼はこれ以上ないくらいに優しく私のことを抱いてくれた。目眩がするほど、幸せな夢だった。

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