誰でもいい、わけがない

 残酷な夢から覚めた後、おれは針を飲み込んだような胸の痛みを感じた。

 さっきまで璃子がしがみついていたTシャツが涙で濡れているのではないかと思ったが、当然そんなことはなかった。ボロボロと泣きじゃくっていた璃子の顔が、頭から離れない。彼女の泣き顔を見たことなんて一度もないくせに、どうしてこんなにも鮮明な夢を見るのだろう。

 璃子が服を脱ぎ始めた瞬間、おれはなんて最低な夢を見ているんだと絶望した。これはきっと、おれの深層心理にある、璃子とセックスがしたいという欲望の表れなのだろう。だからこそ、こんな中途半端な気持ちで彼女を抱くわけにはいかなかった。

 ベッドの上でゴロゴロしているうちにアラームが鳴って、おれはスマホに手を伸ばした。アラームを止めるついでにLINEアプリを立ち上げる。昨夜、佐々岡さんと交わしたトークの履歴を確認した。


 ――高梨くん、明日外練やんな?

 ――うん、まあまあ早めに終わると思う。

 ――あたしも! よかったら一緒に帰らへん?


 おれは悩んだ結果、いいよと返事をした。ハートを抱えたクマのスタンプが送られてきて、やりとりはそこで終わっている。

 かわいい女子と一緒に帰るなんて、少し前のおれだったら喜び浮かれていただろう。しかしおれの気持ちは沈んでいくばかりで、何故だかちっとも楽しみだと思えない。佐々岡さんのことを考えるたびに、璃子の顔が頭にチラついてしまう。恋人でもなんでもない璃子に罪悪感を覚える必要なんて、これっぽっちもないはずなのに。

 二回目のアラームが鳴り響いて、おれは渋々起き上がった。今日は一時間目に英語の小テストがあるはずだ。そういえば、昨日借りたノートを璃子に返すのをすっかり忘れていた。彼女は予習ができずに困らなかっただろうか、と申し訳なくなる。昨夜のうちにLINEを送っておけばよかった。

 今日朝一番で璃子に話しかけて、ノートを返そう。お詫びに飲み物でも奢ってあげてもいいかもしれない。そう考えると、どん底まで落ちていたおれの気持ちはほんの僅かに浮上した。



 朝練が終わった後、おれは購買で紙パックのオレンジジュースを買って教室に向かった。急いで着替えてきたので、ショートホームルームが始まるまでにはまだ時間がある。

 璃子は教室の後ろの方で、榎本と何やら話し込んでいた。璃子はどことなく暗い表情をしており、榎本が心配そうに璃子の肩に手を置いている。声をかけるのがやや躊躇われたが、おれは意を決して彼女たちのもとに向かった。


「浅倉」


 名前を呼ぶと、璃子が首を回してこちらを向く。璃子はもともと色白だが、なんだか今日は白いを通り越して青ざめているように見える。もしかすると体調が悪いのかもしれない。榎本は「璃子、ほなまた後で」と言ってそそくさと自席へと戻っていった。


「……あ……おはよう、高梨くん」

「おはよ。浅倉、どしたん? しんどいん?」


 おれが尋ねると、璃子は口元に力ない笑みを浮かべて「平気」と答える。あまり平気そうには見えないが、女子の体調にあれこれ口を突っ込むのも良くないだろう。おれはエナメルバッグからノートを出して、璃子に手渡した。


「これ、返すん忘れててほんまにごめん」

「あっ、いつでもよかったのに」

「いや、今日小テストやん。困らんかった?」

「テスト勉強用のノートは別やから大丈夫」

「何冊持ってんの!? もはやノート作るんが目的になってない?」

「そうかも」


 おれの言葉に、璃子はくすくすと笑った。いつもより四割減くらい元気がなかったけれど、それでも璃子の笑顔が見れておれの心はふわふわと浮き立った。やっぱり璃子の笑った顔はかわいい。できることならずっと笑っていてほしい。あんな泣き顔なんて、もう二度と見たくない。


「おはよー、高梨くん」


 そのとき、教室後方の扉から入ってきた瀬戸さんに声をかけられた。おれはちょうど璃子にオレンジジュースを差し出そうとしたところだったので、中途半端な体勢のまま固まってしまう。おれが「お、おはよう」と答えると、瀬戸さんはにんまり笑みを浮かべた。


「高梨くん、今日美桜と一緒に帰るんやろ? 美桜のことよろしくねー」

「え、あ、ああ……」


 思わず舌打ちをしそうになった。本当に昨日から、つくづく璃子の前でタイミングが悪い!

 おれは反射的に璃子の顔を見た。いつのまにか表情を失った彼女の顔は、まるで人形のように何の感情も読み取れない。訊かれてもいないのに言い訳するのもおかしい気がして、おれは黙りこくっていた。ざわざわと騒がしい教室の中で、おれたち二人のあいだだけがまるで別世界のように静かだ。

 予鈴のチャイムが鳴ると同時に、気まずい空気は打ち破られた。「じゃあね」と璃子が言って、ふらふらと覚束ない足取りで自席へと戻っていく。本当に体調が悪いのだろう。大丈夫だろうかと心配になる。

 すごすごと席についたところで、オレンジジュースを渡しそびれたことに気がついた。僅かに汗をかいた紙パックが机を濡らして、おれは溜息をつく。斜め後ろの角度から見つめる璃子の頰は、怖いくらいに真っ白になっていた。



「ハルト、昨日からなんか調子悪ない?」


 校舎周りのランニングをしていると、隣に並んだ翔真が声をかけてきた。おれが「そう?」と誤魔化すと、「シュートの決定率も悪いしパスミスも多い」と的確な指摘をされる。普段は鈍感なくせに、バスケ絡みのことになると妙な観察力を発揮するやつだ。

 雑談をして先輩に睨まれるのが怖いので、おれはややペースを早めた。翔真は涼しい顔でついてくる。余裕の表情が憎たらしい。悔しいことに、見れば見るほどイケメンだ。これだけ顔が良ければ、どんな女子でも選り取りみどりだろうに。首から下げたタオルで汗を拭きながら、おれは尋ねる。


「……翔真はさ、彼女欲しいとか思わんの?」

「全然思わん」


 即答されてしまった。だいたい予想していた答えではあるが、彼女が欲しいかと聞かれてここまできっぱり否定できる男子高校生は、それほど多くないのではないだろうか。相変わらず僧か仙人並に性欲のない男である。


「部活忙しいし、そんな余裕ないわ」

「まあ、そりゃそうなんやけど……」


 翔真と話していると、璃子や佐々岡さんのことでうじうじ悩んでいる自分が、やけに俗っぽく感じられてうんざりしてしまう。翔真のように部活以外は何もいらないと割り切れたらどんなに楽だろうか。そりゃあおれだって部活に対しては本気だしレギュラーにだってなりたいが、それはそれとして彼女は欲しい。ものすごく欲しい。


「おれは彼女欲しい……」

「彼女ができたところで何すんの?」

「そりゃ……やることいっぱいあるやろ」

「ふーん。それって誰でもええの?」


 核心を突かれて、おれはぐっと言葉に詰まった。自分のことを好きになってくれる人なら、誰でもいいと思っていたはずだ。少なくとも、ほんの数カ月前までは。

 一緒に試験勉強をしたり、試合に応援に来てくれたり、二人で帰ったり。休みの日にはデートをしたり、くだらないLINEのやりとりをしたり。そんな妄想をするとき、おれの頭に浮かぶ「彼女」はいつも璃子の姿をしている。夢の中と同じようにおれに笑いかけてくれて、楽しそうに話している。


「誰でもいいんやったら、ハルトなら彼女くらいすぐできるやろ」


 翔真はそう言うと、「お先」と言ってペースを上げておれを追い抜いていった。翔真の背中がぐんぐんと遠くなっていく。ちょっと自分がモテるからって簡単に言うなや、と怒鳴りつけたくなったが、胸が苦しくて呼吸がうまくできない。

 結局おれは翔真より数分遅れてランニングを終えた。マネージャーからドリンクを受け取りながら、ふと視線を感じて校舎に目をやった。音楽室や美術室などが集まる特別棟の三階に、茶道部の部室があるらしい。夢の中で璃子が「ちゃんと畳の部屋がある」と言っていたけれど、授業では使わないので、おれは一度も足を踏み入れたことがない。

 特別棟の三階の一番端っこの窓から、璃子がこちらを見ていた。ほんの一瞬視線が合った刹那、璃子の表情が悲しげにぐしゃりと歪む。おれが息を飲んだのも束の間、璃子の姿はあっという間に窓の向こうに消えてしまった。もしかすると、こちらを見ていたのも気のせいだったかもしれない。いつものようにはにかんで手を振ってくれたなら、残りの部活もがんばれただろうに。


「おーい、筋トレやるぞー」


 先輩の声に、おれはトレーニングルームへと向かった。未練がましく振り向いて三階の窓を見上げたけれど、クリーム色のカーテンがひらひらと風に揺れているだけで、璃子はもう顔を出してはくれなかった。



 こんな日に限って、予定よりも早めに部活が終わった。時刻はまだ五時なので、いつもより三十分以上早い。部室でノロノロと制服に着替えていると、あちこちから羨望のまなざしとからかいの声と嫉妬に塗れた暴力が飛んできた。


「ハルトの分際でかわいくて巨乳の彼女なんて羨ましすぎる」

「ボロ雑巾のように捨てられて死ね」


 おれはそんな言葉を右から左に受け流しながら、重い足取りで部室を出る。九月も半ばになると、日が落ちるのが早くなってきた。太陽が傾いていくにつれて、世界が燃えるようなオレンジ色に染まっていく。黒い影が長く伸びていくのを、おれはぼんやりと眺めていた。


「ごめん! おまたせ」


 体育館の前で待っていると、佐々岡さんが小走りに駆け寄ってきた。テニスラケットを斜めに掛けているせいで胸の形が強調されて、白いカッターシャツを押し上げている。おれはそこから視線を逸らして「おつかれ」と言った。


「おつかれさま! あー、おなかすいたあ」


 不思議なもので、部活終わりのはずの佐々岡さんからは汗の匂いはほとんどしない。何やら花のような香りが漂ってくる。璃子の匂いはもうちょっと果物みたいなみずみずしい匂いやな、なんて気持ち悪いことを考えてしまった。


「コンビニ寄らへん? 自転車押して帰ろっか」


 魅力的な申し出のはずなのに、何故だか全然乗り気になれない。おれは「うーん」と生返事をしながら、特別棟に視線をやった。

 三階の端っこにある部室は、未だ窓が開いたままカーテンが風に揺れている。茶道部はそんなに遅くまで活動していないはずだが、まだ誰か残っているのだろうか。こちらを見下ろす璃子の悲しげな表情を思い出すのと同時に、おれにすがって泣いている璃子の顔も頭に浮かんだ。


 ――夢の中でくらい、私のこと好きになってくれたらいいのに……。


 ……もうとっくに、どうしようもないくらい好きになっている。夢の中だけじゃなく、現実でも。どんなにかわいい子に好かれたって、おれが彼女にしたい女の子はたった一人しかいないのだ。


「……佐々岡さん」

「うん?」


 ポニーテールを揺らしながら、佐々岡さんが振り向いた。おれは罪悪感にじりじりと胃を焼かれるのを感じながら、ゆっくりと口を開く。


「ごめん。おれ……今めっちゃ気になる子がおるから、他の女の子とLINEしたりとか、一緒に帰ったりとか……そういうの、無理やわ」


 佐々岡さんは、虚を突かれたように瞬きをした。ショックを受けているというより、心底驚いているようだ。両手で口許を押さえて、「えーっ、そうなん!?」と声をあげる。


「早く言うてよー! それやったらLINE聞かへんかったのに。彼女おらんって言うてたから、つい」

「ごめん……付き合ってるわけちゃうねんけど」

「いいよ、こっちこそごめんな。大丈夫、あたしもそんなにガチちゃうし」


 佐々岡さんは軽い口調で言った。こちらが拍子抜けするくらいにケロッとしている。強がっているようにはまったく見えない。おれの方がどんよりと落ち込んでいるので、客観的にはおれが佐々岡さんに振られたように見えるかもしれない。通りかかった男バスの連中が、「おっ、なになにー?」「修羅場かー!」と楽しげに声をかけていく。


「ほんなら高梨くんの片想いなんやー。がんばってな」

「う、うん……がんばる」

「じゃあ、ばいばーい」


 佐々岡さんはそう言って、大きく手を振って帰っていった。あまりのあっけなさに、おれはちょっとがっくりした。あんなにぐるぐる考え込んでいたのが、馬鹿みたいだ。おれのモテ期、一瞬で終了。

 彼女の後ろ姿が見えなくなってから、おれはもう一度茶道部の部室を見上げる。窓はまだ開いている。おれは一縷の望みを籠めて、特別棟に向かって走り出した。階段を二段飛ばしで駆け上がって、三階までダッシュする。

 階段を上ってすぐのところに、茶道部の部室がある。扉に手を掛けてみると、鍵が開いていたためするりと開いた。おそるおそる中を覗き込むと、畳の上に正座をしている璃子の姿が見えた。いつのまにか日が落ちて、部屋の中は薄闇に包まれていた。浅倉、と声をかけようとしたところで、はっとする。

 膝の上でぎゅっと拳を握り締めながら、璃子はポロポロと泣いていた。誰もいない薄暗い部室でたった一人、下を向いて畳の上に涙を落としている。ぐすぐすと鼻をすすって、華奢な肩を震わせて。

 その瞬間、おれの胸になんともいえない感情が押し寄せてきた。ぐらぐらと心臓が揺り動かされて、すとん、と腹の底へと落ちていく。


「……浅倉!」


 突き上げてくる衝動のままに名前を呼ぶと、璃子はびくりと身体を揺らした。おれの姿を見ると、ぽかんと口を開けて、目を真ん丸にしている。それから我に返ったように、カッターシャツの袖でごしごしと涙を拭いた。おれはズカズカと部室に乗り込んで、浅倉の元に駆け寄る。


「浅倉、どうしたん?」

「た、高梨くん……」


 璃子は潤んだ瞳でこちらを見上げた。おれはエナメルバッグからタオルを出して、「ごめん、汗臭いかも」と言って璃子に手渡す。璃子はおずおずとそれを受け取った。


「大丈夫? なんかあった?」


 璃子の顔を覗き込むと、璃子はふるふると首を横に振る。おれのタオルに顔を押しつけると、ぐすんと鼻をすすって泣き始めた。くぐもった声で、絞り出すように呟く。


「そんなに優しくせんといて……」


 そんなの無理だ。めちゃめちゃに甘やかして、優しくしたいに決まっている。

 おれは少し躊躇ったけれど、璃子の背中にそっと手を伸ばした。本当は力いっぱい抱きしめたかったけれど、そんなことができるはずもない。


「……高梨、くん。な、なんでいるん? さ、佐々岡さんは?」


 タオルで顔を覆ったまま、璃子が言う。おれは心持ち大きな声で、「佐々岡さんとは別になんもない!」と答える。璃子はようやくタオルから顔を離すと、不思議そうに首を傾げた。


「でも、一緒に帰るって……」

「帰らへんよ。おれ、ここにいるやん」

「そ、そうなん……?」

「そんなことどうでもいい。それより、浅倉大丈夫? もしかして体調悪かった? 朝からしんどそうやったもんな」


 璃子は真っ赤な目のまま「うん」と頷いた。璃子が嫌がらなかったので、おれはできるだけ優しく背中を撫でてやる。


「あの、高梨くん……」

「どしたん?」

「あんな、言いにくいんやけど……ここ、土足禁止」

「げっ」


 そう言われて、おれはスニーカーのまま畳の上に乗り込んできたことに気がついた。おれが慌てふためきながらスニーカーを脱ぐと、璃子がほんの少し頬を緩めて微笑む。うん、やっぱり璃子の笑顔は世界で一番かわいい。おれもつられて笑みを零すと、璃子の隣に胡座をかいて座った。畳は後で拭いておくことにしよう。


「……落ち着いた?」

「うん、大丈夫……心配かけてごめん」

「全然いいよ。もうちょっとマシになったら、一緒に帰ろ。送ってくわ」

「……いいの?」


 いいのも何も、おれが今一緒に帰りたい女の子は璃子だけだ。おれのことが好きじゃなかったとしても、巨乳じゃなくても、璃子がいい。璃子のことだけが好きだ。

 おれは「ちょっとごめん」と囁いて、彼女の頬に残る涙の跡に手を伸ばした。昨夜はついぞ拭えなかった涙を代わりに拭うように、そっと指を滑らせる。ほの暗い部屋の中で、真っ白だった璃子の頬が僅かに色づくのが見えた。

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