「がんばるから見てて」

 体育館の扉の前に女子が群がっているのが見えて、おれは思わず璃子の姿を探してしまった。そこにいるのはいわゆる派手めの女子ばかりで、当然のことながら彼女の姿はない。当たり前なのだが、おれは結構がっかりした。


「こらハルト! さっさと着替えろや」


 おれの視線の先に目敏く気付いたらしい先輩が、すかさず怒号を飛ばしてきた。おれは素直に「すみません」と答えて部室に入る。先輩は忌々しそうに舌打ちをした。


「ほんま、女の方ばっかり気にしやがって」

「別にそんなんじゃないっすよ。それに、あれ全部翔真目当てじゃないすか」

「クソッ翔真アイツほんまいつかシメる。あーあ、オレもかわいい彼女が応援に来てくれへんかな……」


 深々と溜息をついた先輩の言葉に、おれはこっそり同意した。おれだってかわいい彼女に応援に来て欲しい。がんばってねって言われてハチミツレモンとか差し入れされたい。「かわいい彼女」のビジュアルをうっかり璃子で想像してしまって、おれはちょっとテンションが上がった。

 ……璃子が来てくれたら、絶対めっちゃがんばれるのに。

 普通に考えると来るはずがない。璃子は今日ここで練習試合があることすら知らないだろう。だからもっと早く連絡しておけばよかったのに、とおれは歯噛みする。

 夏休みが始まって一週間経つが、おれは未だ璃子に連絡をできずにいた。ろくに女子とLINEをしたことがないので、いざとなると何をどう送っていいのかわからない。あまり深く考えずに「奢る」と言ったが、おれは夏休みにわざわざ彼女を呼び出すつもりなのか? もしかして二人でどっかに行くってこととなのか? それってもはやデートやんけ! 絶対無理!

 そんなことをグルグル考えながら、おれはトーク画面に文章を打ち込んでは消し、打ち込んでは消しを繰り返している。日にちが経てば経つほど送りにくくなって、これはさすがにまずいぞと思い始めてきた。何も考えずにくだらないLINEを送りつけてくる翼に、おまえはいいよなと無意味に腹を立てたりしてしまう。

 おれはロッカーから濃紺のユニフォームを取り出す。背番号は十二番。去年まで同学年でユニフォームを貰っているのは翔真だけだったけれど、今年はおれもついにユニフォームを貰えた。次の公式戦までにはレギュラーに定着したいところだ。

 Tシャツを脱ごうとしたところで、コンコンと部室の扉がノックされた。律儀にノックをしてくるのは大抵マネージャーである。誰かが「はーい」と答えるのを待ってから、扉が開く。


「キャー、マネージャーのエッチ!」


 上半身裸の後輩がわざとらしくそう叫ぶのを、マネージャーは「ちゃんとノックしたやんか」と呆れたように答える。いまさら半裸くらいでガタガタぬかすような女ではないのだ。

 男バスのマネージャーである鮎川いつかは、おれがマトモに会話できる数少ない女子である。とびきり美人というわけではないが、愛嬌があって親しみやすい。中学時代はバスケ部だったらしく知識も深いし、真面目な働き者でよく気もつく。おれたちはみんなマネージャーのことを大事に思っているけれど、「付き合うとかはないな」というのがおおよそ共通の見解だった。どちらかというと、マネージャーの結婚式でみんなで余興して号泣したい、みたいな感じ。


「浅倉さん、汚いとこやけど入って。ここ、体育館に直接繋がってるから」


 マネージャーに続いて部室に入ってきた人影を見て、おれはぎょっと目を剥いた。小柄な彼女はほとんどマネージャーの後ろにほとんど隠れるようにして立っている。きょろきょろと部室を見回して、なんだか呆気にとられているように見えた。


「あ、浅倉ぁ!? 何でこんなとこいんの!?」


 おれが思わず声をあげると、こちらに気付いたらしい璃子がぺこりと頭を下げた。久しぶりに会えたのは嬉しいが、おれは内心動揺していた。

 この部室には、あまり璃子に見られたくないような、いかがわしいものも転がっている。おれは足元に落ちているアレソレをこっそり蹴り飛ばすと、半裸の後輩の頭を叩いて回った。くそ、璃子に変なものを見せるな。


「浅倉さんたまたま学校来てたみたいで、よかったら試合見に来てーって誘ってみてん」


 マネージャーがそう言って、親しげに璃子の肩を叩いた。相変わらずマネージャーはいい仕事をする。おれは有能なマネージャーの両手を取って小躍りしたいような気持ちになったが、璃子が見ているのでやめた。


「マネージャー、浅倉と仲良かったん?」


 今までマネージャーが璃子と会話をしているところを見たことがない。マネージャーは「今日仲良くなってん」と言って、璃子がこくこくと頷く。それから、二人で目を合わせてにっこり笑い合った。二人ともどこかタイプが似通っているし、相性は悪くなさそうだ。


「それに、かわいい女子に応援された方がモチベーション上がるやろ?」


 それはもちろん、当然である。しかしおれが答える前に、先輩がおれと璃子のあいだにずいっと割り込んできた。


「上がる上がる! 見に来んの、翔真目当ての女子ばっかりなんやもん!」


 そう言って無遠慮に璃子の手を握る先輩に、おれは内心ムッとする。璃子は少し困ったように眉を下げた。あまり気安く触らないで欲しいが、先輩なので強く言えない。控えめに「先輩、セクハラですよ」と言うのが精一杯だった。


「ほらほら、先輩たちもそろそろアップしてくださいねー。浅倉さん、行こ」


 マネージャーに促され、璃子がぺこぺこと頭を下げながら部室を通過していく。扉から出る前に、ぴたりと足を止めた璃子がくるりと振り向いた。ぱちりと目が合うと、ちょっと恥ずかしそうに拳を突き出して、頰を染めて言った。


「……が、がんばって!」


 ……大袈裟ではなく、心臓を撃ち抜かれた。ここが部室でなければ、胸を押さえて崩れ落ちていたところだ。かわいい女子の「がんばって」に、ここまでの破壊力があるとは思わなかった。しかも今の「がんばって」は、間違いなくおれだけに向けられたものである。

 おれは盛大ににやけながら、やっとのことで「うん」と答えた。あかん今のおれ、完全に調子こいてる。璃子はちょっと微笑んで、マネージャーについて部室を出て行った。


「ハルトてめー死ね!」

「なーにニヤニヤしとんねん!」

「スカしてんなやボケェ!」


 璃子の姿が見えなくなった瞬間、部室に派手なブーイングが響く。こういうときのモテない男の結託は醜くも強い。しかし、今のおれにとっては痛くも痒くもない。璃子の「がんばって」を反芻しながら鼻歌を歌っていると、後頭部に誰かがブン投げたスリッパが飛んできた。



 ユニフォームに着替えて部室を出ると、ウォーミングアップとシューティングを行う。しばらくすると顧問の高田先生からの集合がかかったので、おれたちは走ってベンチへと戻る。

 久川高校はかなりの強豪だし、はっきり言って格上である。今年のインターハイ予選は、うちの高校はベスト16止まりだった。それでも実力に大きな差があるわけではない、負けて当然とは思うな、と高田先生は言った。

 おれは二年生の中で唯一スタメンに選ばれた。翔真はやや不服そうな顔をしていたが、先日痛めた足がまだ完治していないのだろう。申し訳ないが、今回は翔真にばかり良い格好をさせるわけにはいかない。

 ぐっと腕の筋を伸ばしながらコートに出ると、おれはチラリと璃子の方を見た。彼女は二階にある通路に立っていた。手すりから身を乗り出して、真剣なまなざしでこちらを見下ろしている。夢の中の璃子はバスケが好きだと言っていたけれど、現実の璃子もそうなのだろうか。

 ――璃子、がんばるから見てて。

 声に出さずに、ぱくぱくと口だけを動かして言った。きっと彼女には伝わらなかっただろう、そうでなければ困る。こちらを見つめる彼女の唇も僅かに動いた気がするけれど、気のせいかもしれない。試合開始の笛が鳴り響き、おれはふわりと宙に浮いたバスケットボールを睨みつけた。



「ハルト、おまえ今日めっちゃキてたな!」

「スリー決まりすぎて怖いくらいやったわ! え、なんかヤバいクスリでもやってんの?」


 先輩や同級生からもみくちゃにされながら、おれは笑って「いや、これが実力すよ」と答える。「生意気!」と言われて余計にシバき回された。ついでに後輩にまでケツに蹴りを入れられた。あの野郎、ちゃんと見てたからな。後でシメる。

 璃子に応援されたおれは、がんばりすぎるくらいにがんばってしまい、そのうえ自分でも恐ろしいほどに調子が良く、大活躍の末に得点王になってしまった。結果、一試合目は格上相手に辛勝するという快挙を成し遂げた。まあ、その後の二試合は負けてしまったのだが。本日のMVPは紛れもなくおれである。

 チームメイトからの乱暴な称賛からやっと逃れたおれは、璃子の姿を探す。彼女はまだ二階にある通路からこちらを見下ろしていた。おれは彼女の下に駆け寄ると、思い切りピースサインを向ける。璃子はパチパチと拍手をした後、笑ってピースサインを返してくれた。


「浅倉、降りひんの? そろそろ片付けするけど」


 午後からはバレー部が体育館を使うはずだ。璃子はもじもじと両手を胸の前で組み合わせて、「降りたいんやけど……」と目を伏せる。壁面にある梯子を見たおれは、まさかと思い尋ねてみる。


「まさか、降りれんくなった?」


 璃子は真っ赤になって黙りこくると、観念したように頷いた。なんやそれ、かわいいな。おれが思わず吹き出すと、璃子はますます申し訳なさそうに縮こまる。おれは慌ててフォローを入れた。


「ご、ごめん。バカにしてるわけちゃうねん」

「わ、わかってる……」

「とりあえず梯子で途中まで降りれる? 下で支えたるわ」

「えっ」


 おれの言葉に、璃子がかちんと固まった。彼女の反応を見て、おれはしまったと思う。軽い気持ちで口に出したが、支えるということは身体に触れるということだ。おれに触られるのは嫌かもしれない。今、汗だくやし。


「あ……それか、翔真とか呼んでこよか?」


 ものすごく癪だったが、多少は抵抗が薄いのではないかと思い、彼女の幼馴染の名前を出した。翔真はおれより背が高いし、軽々璃子を支えることができるだろう。しかし璃子は、ぶんぶんと首を横に振った。


「う、ううん……高梨くんがいい」


 ――なあ、それってどういう意味!?

 喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んで、おれは「わかった」と頷いた。おれは今まで散々思わせぶりな女子の言動に振り回されてきたのだ。勘違いをしてなるものか、と必死で自分に言い聞かせる。

 璃子が梯子を掴んで、おっかなびっくり降りてきた。ひらりと揺れたスカートの中が見えそうで期待してしまったが、結局何も見えなかった。梯子の一番下まで来たところで、璃子がぴたりと動きを止める。どうやら、ここから床に降りれないらしい。おれならぴょんと飛び降りるところだが、そこそこ高さがあるし怖いのだろう。


「浅倉、ちょっとごめん」


 おれは両手を伸ばして、彼女の腋の下あたりに手を入れる。ふにゃりとした柔らかな感触に、夢と同じや、なんて馬鹿げたことを考える。ぐいと力を入れて持ち上げると、想像していたよりも軽かった。すとんと璃子を床に下ろすと、璃子は相変わらず茹で蛸のような顔をして俯いていた。


「……あ、ありがとう……」


 そこまで照れられると、なんだかこっちまで恥ずかしくなる。璃子はちょっと赤面症の気があるのかもしれない。うっかり勘違いしそうになるのでやめてほしい。妙な空気に居た堪れなくなって、おれは慌てて話題を変える。


「み、見てた? 試合。面白かった?」

「お、面白かった! 高梨くんすごかった! いっぱいスリーポイント決めてて、めっちゃすごいパス出して」

「なんか今日やたら調子良くて……あ、浅倉がおったからかも。よ、よかったらまた見に来て」


 自然に言ってやろうと思ったのに、どもってしまった。くそ、かっこ悪い。しかし璃子は気にした様子もなく、「うん!」と笑って頷いてくれる。それに気を良くしたおれは、調子に乗って続ける。


「あの、そういや、LINE送りそびれてたんやけど……」

「う、うん」

「あ、浅倉昼メシ食った!? なんか食いにいかん!? 奢るわ!」


 言った、言ってやった! おれは心の中でガッツポーズをした。達成感に浸っているおれをよそに、璃子は一瞬、なんだか泣き出しそうな表情を浮かべる。その顔を見た瞬間、おれの背中はすうっと冷たくなっていく。

 ……やべ、おれ調子乗ったかも。よくよく考えると璃子は今日おれを応援しに来たわけではなく、たまたま学校に来ただけなのだ。せめてアイス奢るくらいにしとけばよかった……と後悔に打ちひしがれていた、そのとき。


「ハルトー、着替えへんの?」


 まるで神からの救いのように、翔真ののんびりとした声が聞こえた。こちらに歩いてきた翔真の腕を、おれはここぞとばかりにがしりと掴む。


「しょ、翔真! 今からメシ食いに行こ! 浅倉も一緒に!」

「え」


 呆然とこちらを向いた璃子の顔は、なんだかショックを受けたように青ざめている。赤くなったり青くなったり、忙しい奴だ。翔真が「ええよ」と言った途端にがっくり項垂れた璃子を見て、おれはもしかしたら重大な選択を誤ったのかもしれない、と思った。

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