「ハルくん、がんばれ」

「そういえば、明日おれ練習試合やねん」


 いつもの夢の中で、私を脚のあいだに座らせたハルくんがふと思い出したように言った。彼が先ほどから私の髪をせっせと編んでいるので、私は身動きが取れない。私は真正面を向いたまま「そうなん? どこで?」と尋ねた。


「うちの学校。準備あるから、いつもより早起きせな」

「どことやるの?」

久川ひさかわ高校」

「結構強いとこやん。今年のインターハイ予選ベスト4やったよね」


 ハルくんは髪を弄る手を止めると、ちょっと意外そうに「璃子、めっちゃ詳しいやん」と言った。私が高校バスケ界隈に詳しいのはハルくんの影響である。彼に関わるものは何でも知りたいという乙女心だ。とはいえストーカーじみていて気持ち悪いのも事実なので、私は曖昧に笑って誤魔化した。


「いいなー。練習試合、観に行きたいな」


 私は溜息をついた。夏休みに入ってからというもの、現実の高梨くんを一目も見れていない。そろそろ禁断症状が出てきた。夢の中でハルくんに毎晩会っていなければ、発狂していたかもしれない。


「え、ほんなら観に来れば?」

「いいの!?」


 私が勢いよく振り向くと、編んでいた髪が崩れたらしく、ハルくんは「じっとしてて」と言って私の頭を押さえつけた。私はおとなしく前に向き直る。


「でも、いきなり行ったらおかしくない?」

「そう? たまに女子が応援来たりしてるで。……まあ、ほとんど翔真のファンやけど」


 ハルくんは面白くなさそうな声を出した。夢の中のハルくんは、なんだかやけに翔ちゃんのことをライバル視しているように見える。


「璃子が来てくれたら、おれめっちゃがんばれる」

「……ほんまに?」


 単純な私は、それなら行こうかな、という気持ちになってきた。私は彼がバスケをしているところを見るのが好きだし、なんなら体育館の扉の隙間からこっそり盗み見て帰ってもいい。とにかく一目だけでも、本物の彼に会いたかった。


「お、できた」


 手を止めたハルくんがそう言った。自分の髪を確認すると、見事なフィッシュボーンが完成している。どうやらかなり手先が器用らしい彼は、「昨日寝る前にやり方ググってん」と得意げにしている。


「すごい、上手。私こんなの自分でできひんよ」

「やり方覚えたし、いつでもやったるわ」


 それはすごく嬉しいけれど、夢の中でしか披露できないのが残念だ。現実の私の髪型は、毎日ワンパターンのハーフアップスタイルである。

 それにしても、最近ハルくんは私の髪を弄るのにハマっているらしい。どんどんテクニックも向上しているようだけど、美容師にでもなるつもりなのだろうか。


「ハルくん、髪いじるの好きなん?」

「いや、別にそうでもないけど……」

「けど?」

「髪触ってへんと、他のところいろいろ触りたくなるから……」


 ハルくんが言いにくそうにボソボソと呟く。私はこてんとハルくんの胸にもたれかかると、彼のシャツをぎゅっと握りしめながら囁いた。


「……ハルくんなら、どこでも触ってくれていいのに」


 思わず零れた本心からの言葉に、ハルくんは私を後ろからきつく抱きしめる。そして肩に顔を埋めて「試されてる……」と呻いた。




 翌朝、私はやけにすっきりと目を覚ました。クーラーの効いた部屋はひんやりとしていて、少し肌寒いくらいだ。起き上がってカーテンを開けると眩しい日差しが差し込んできて、私は目を細める。抜けるような青空には雲ひとつない。クーラーを消して窓を開けると、むわっとした空気が冷えた二の腕を温めてくれる。少し遠くで、電車が走る音とセミの鳴く声が響いていた。

 ……今日、何しよかな。

 熱心に部活動をしていない私は、かなりのんびりとした夏休みを過ごしている。塾の夏期講習はあるけれど、それほどスケジュールが詰まっているわけでもない。今日は一日予定が入っていなかった。

 私はスマホを充電器から引き抜くと、LINEの通知を確認して、溜息をつく。夏休みが始まって一週間が経ったけれど、待てども待てども高梨くんからの連絡はこない。また連絡する、って言ってくれたのに、嘘つき。

 私から連絡した方がいいんだろうか、とも思ったけれど、「なんか奢る」と言われた手前、催促しているみたいで嫌だ。別に私はハルくんに奢ってほしいわけではなく、ただLINEのやりとりをしたいだけなのに。LINEだけじゃなく、できれば会って話せたらもっと素敵だろうな、と思う。

 会いたい。現実の高梨くんに会いたい。夢の中の彼の顔を、声を、匂いを、温度を思い出すと、余計に彼が恋しくなってしまう。

 私はぱちんと両手で頰を叩くと、リビングに向かった。朝ごはんを食べたら、制服に着替えて学校に行こう。ストーカーと呼ばれても構わない、とにかく今すぐに高梨くんの顔が見たかった。



 自転車を駐輪場に停めると、私はリュックからタオルハンカチを出して、額に滲んだ汗を拭った。この暑さでは、自転車を漕いだだけでも汗をかいてしまう。

 私はまっすぐに体育館へと向かった。さんさんと太陽が降り注ぐなか、野球部はグラウンドで大声を出してタイヤを引いている。その中に、クラスメイトの坂口くんの姿も見つけた。運動部に入っている人はすごいなあ、と私は思う。

 体育館の近くまで来たところで、私はぴたりと足を止めた。私の定位置、体育館の扉の前にちょっとした人だかりができている。派手めな女の子の集団が、全開になった扉の向こうを見ながら、きゃあきゃあとはしゃいでいる。

 見ると、体育館の周りで見慣れないジャージを履いた男の子たちがストレッチをしていた。全員やけに体格が良い。紫色のジャージにはローマ字でHISAKAWAと書いてあるから、おそらく久川高校の生徒だろう。私はふと、夢の中のハルくんの言葉を思い出す。練習試合、ほんまにあるんや。もしかして私は予知夢を見てしまったのだろうか。

 女子の集団を遠目に眺めながら、私は躊躇う。せっかくここまで来たけれど、あの中に飛び込む勇気はない。でも、ここからだと高梨くんを見ることはできない。せめて一目だけでも顔が見れたら。高梨くん、水とか飲みに外に出て来てくれへんかな……。


「あれ、浅倉さん?」

「ひあ!」


 背後から突然声をかけられて、私は奇声をあげてしまった。おそるおそる振り向いてみると、ショートボブの女の子が立っていた。紺色のジャージを着て、重そうなウォーターサーバーを持っている。男バスのマネージャーの、鮎川あゆかわいつかさんだ。


「あ、鮎川さん!」

「こんなところでどしたん? あ、もしかして応援に来てくれた感じ?」


 鮎川さんとは同級生だけどクラスも違うし、ほとんど話したことはないけれど、一年の頃に音楽の授業が一緒だった。さっぱりとしていて、いつもニコニコしている感じの良い子だ。私がモジモジしていると、鮎川さんはちょっと悪戯っぽくくすりと笑う。


「浅倉さん、いっつも朝練とか見に来てるやんなあ。扉から覗いてる子いるなって、前からちょっと気になっててん」


 うわ、バレてた。私としては忍者のごとく完全に気配を消していたつもりなので、かなり恥ずかしい。私が「ごめんなさい……」と萎縮すると、鮎川さんはぶんぶんと両手を振った。


「いや、ちゃうねん! 別に責めてるわけじゃなくて、毎日毎日健気でかわいいなあって。わたしと羽柴くん以外は気付いてへんと思うから、大丈夫」


 そういえば、翔ちゃんには一度目撃されていたのだった。真っ赤になって俯いている私に、鮎川さんはそっと耳元で囁いてくる。


「……で、誰目当て?」

「……高梨くん」


 観念した私は、小さな声で答えた。私の片想いを知っている人はそれほど多くないけれど、鮎川さんはベラベラ言いふらすような人ではなさそうだし、大丈夫だろう。鮎川さんは嬉しそうに「そうなんや。内緒にしとくね」と言ってくれた。


「あそこ、ちょっと入りづらいよなあ。あれ、全員羽柴くんのファンやで」


 鮎川さんはチラリと女子の軍団を一瞥してから言った。よく見ると、見覚えのある子が何人もいる。たぶん、翔ちゃんと同じクラスの女子だろう。翔ちゃんはやっぱりモテるのだ。


「あ、いたいた鮎川。テーピングどこ?」


 噂をすれば。私たちの背後からひょっこりと現れたのは、翔ちゃんだった。「水貸して」と言って、鮎川さんの手からウォーターサーバーを奪い取る。


「ありがと。テーピング、さっき菊池きくちくんに渡したで」

「わかった。あとで巻くん手伝って」

「あ、もしかしてまだ足痛い? 練習試合やし、無理せん方がいいんちゃう?」

「大丈夫。そんなに痛ないけど、念の為」

「わかった。一応アイシングしとこっか」

「助かる」


 そこで翔ちゃんはようやく私の存在に気が付いたのか、怪訝そうに「あれ、璃子?」と言った。


「何でおるん?」

「えーと、練習試合……見に」

「ふーん。おまえほんまにバスケ好きなんやなあ」


 翔ちゃんは興味なさげにそう言うと、「鮎川、ほな後で頼むわ」と言って去って行った。女子の集団が翔ちゃんに気付いたのか、「羽柴くーん」と黄色い声をあげて手を振っている。翔ちゃんはそれを見事に無視した。すごいメンタルだ。


「あ、そうや。浅倉さん、ちょっとこっち来て」


 鮎川さんに手招きされたので、私はコソコソと彼女の後ろについていく。体育館の裏側に回った鮎川さんは、そこにある扉をコンコンと叩いた。この先は確か、男バスの部室だ。「はーい」と野太い声が響いたので、鮎川さんは「入りまーす」と言って部室の扉を開ける。


「キャー! マネージャーのエッチ!」


 私の目に飛び込んできたのは、上半身裸の男の子の姿だった。私がアワアワしているのを尻目に、鮎川さんは「ちゃんとノックしたやんか」と軽くあしらっている。


「浅倉さん、汚いとこやけど入って。ここ、体育館に直接繋がってるから」


 鮎川さんに促されるまま、私は部室に足を踏み入れた。謙遜でもなんでもなく、本当に汚い。漫画雑誌やバッシュ、その他にもよくわからないものが床に散らばっている。なんだか酸っぱいような、変な匂いもする。私が唖然としていると、部室の奥から素っ頓狂な叫び声が聞こえてきた。


「あ、浅倉ぁ!? 何でこんなとこいんの!?」


 高梨くんだ。ちょっぴり残念なことに、高梨くんはちゃんと服を着ていた。「アホ、おまえらちゃんと服着ろ!」と上半身裸の男子の頭をはたいている。私が無言で頭を下げると、鮎川さんが私の両肩にポンと手を置いた。


「浅倉さんたまたま学校来てたみたいで、よかったら試合見に来てーって誘ってみてん」


 私に気を遣って、嘘までついてくれた。鮎川さんは本当にいい人だ。私は心の中で彼女を拝み倒した。


「マネージャー、浅倉と仲良かったん?」

「今日仲良くなってん」


 ね、と鮎川さんが私に目配せをしてくる。私はこの短い時間のあいだに彼女のことが大好きになっていたので、こくこくと何度も頷いた。


「それに、かわいい女子に応援された方がモチベーション上がるやろ?」

「上がる上がる! 見に来んの、翔真目当ての女子ばっかりなんやもん!」


 そう言ったのは、私の知らない男の子だった。背の高いスポーツ刈りの彼は、私の両手を掴んでぶんぶんと振り回した。高梨くんは彼を軽く睨みつけると、言いにくそうに「先輩、セクハラですよ」と口を出す。


「ほらほら、先輩たちもそろそろアップしてくださいねー。浅倉さん、行こ」


 鮎川さんに手を引かれ、私はぺこぺこと頭を下げながら部室を通過する。体育館に続く扉から出る前に振り向くと、こちらを見ている高梨くんに向かって、控えめに拳を突き出した。


「……が、がんばって!」


 高梨くんはやや面食らったように瞬きをしたのち、くしゃっと笑って「うん」と答えてくれた。扉が閉まる寸前、部室から「ハルトてめー死ね!」という怒号が響いてきた。



 鮎川さんが案内してくれたのは、体育館の二階部分にある細い通路だった。壁面にある梯子を使って上がるらしい。


「下におったらボールとか飛んできて危ないし。それに、ここやったらあの子らからも見えへんと思う」


 鮎川さんが翔ちゃんのファンの方を気にしながら言った。本当に至れり尽くせりだ。私は鮎川さんに向かって何度も頭を下げる。

 壁の高い位置にある梯子を掴むのはかなり大変で、私は鮎川さんに手伝ってもらいながらなんとか上ることができた。


「あ、スカート気をつけてな」


 そう言われて、私は慌ててスカートの裾を押さえる。手すりを掴んで見下ろしてみるとコート全体が満遍なく見渡せて、なるほどこれは特等席だ。下から見上げるよりも高く感じる。これ一人で降りられるかな、と心配になってしまった。

 試合開始五分前の笛が鋭く鳴る。ウォーミングアップを終えた部員に取り囲まれた顧問の先生は、大きな身振りで何事かを伝えているようだ。どうやら高梨くんはスターティングメンバーらしく、濃紺のユニフォームを身につけてコートに出てきた。ああ、ユニフォーム姿もかっこいい。

 ふと、高梨くんがこちらを見上げて、ぱちりと視線がかち合った。唇が動いて何かを言ったように見えたけれど、ここからじゃよくわからない。私はぐっと手すりを握りしめると、彼に向かって小さな声で「ハルくん、がんばれ」と呟いた。

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