後悔と覚悟

 ざわざわと騒がしい教室に入る前に、おれは小さく息を吸い込んだ。夢であんなことをしてしまった手前、ものすごく璃子に顔を合わせづらいが、そんなことは彼女の知ったことではない。いつもと同じように、普通に挨拶をしなければならない。

 教室に入ると、おれはまっすぐに自席へと向かった。璃子は既に席についており、俯いて教科書に目を通している。おれは机の上にエナメルバッグを置くと、平静を装いながら「おはよう」と言った。


「あ、おはよう……」


 璃子はほんの一瞬だけこちらに笑みを向けて、再び教科書に視線を落とす。相変わらずのそっけなさだったが、自然に挨拶が交わせたことにおれはほっとした。


「高梨くん、おはよー」


 璃子の後ろにいる塚原さんがひらひらと手を振ってくる。この暑さのだというのに汗ひとつかいていない。大きな瞳を縁取る睫毛はくるりとカールしており、アイドルさながらに華やかな容姿である。もし夢に出てきたのが璃子ではなく塚原さんだったら、おれは今頃間違いなく塚原さんのことを意識していただろうな、と思う。

 思い返してみれば昔から、おれは結構「チョロい」性格だった。

 初恋は小学二年生の頃で、「はるとくんって足速くてかっこいいな」と言ってくれた女の子を好きになった。結局彼女はクラスで一番背の高い男子のことが好きだとわかって、おれの気持ちはすぐに冷めてしまった。

 それからも、おれは女子に優しくされたり褒められたりするたびに、すぐにその子のことを好きになった。とはいえ、好きになったところでおれは行動を起こせず、モタモタしているうちに他の奴に掻っ攫われてしまう。そうして何もできないまま終わっていった恋が、一体いくつあっただろうか。おれが硬派を気取って積極的に女子にアプローチを仕掛けずにいるのは、傷つくことが怖いからだ。

 教壇の上では、数学教師が期末テストの範囲を説明している。みんな必死でノートに書き留めていたが、おれはチラリと横目で璃子を見る。ふっくらとした頰は赤く、どこかぼんやりとした目つきをしている。昨夜おれに組み敷かれ、蕩けた表情をしていた彼女を思い出して、おれはぶんぶんと頭を振る。アホか、授業中に何考えてんねん。


 ――私のこと、好き?


 不安げにこちらを見上げる璃子の潤んだ瞳を思い出して、おれの胸は罪悪感に痛む。おれは果たして彼女のことが好きなのだろうか。改めて問いかけられると、わからなくなってしまった。

 正直おれは夢の中の璃子のことを、もうかなり好きになっていると思う。女子と話すのは苦手な方だけれど、彼女と二人で居るのはまったく苦にならない。素直で明るくて意外とお喋りで、恥ずかしがり屋で甘えたがりで。抱きしめると柔らかくていい匂いがして、どこに触れてもかわいい声で反応を返してくれる。そんな彼女は、おれが頭の中で作り上げた存在なのだ。現実にいる浅倉璃子とは別物である。

 実際のところ、おれは現実の璃子のこともかわいいと思っているし、ちょっといいな、と考えないわけではない。挨拶をするだけで心が浮き上がるし、笑った顔が見れるともっと嬉しい。

 それでも、おれはわからなくなる。この気持ちは、本当に現実の璃子に抱いているものなのだろうか? おれはどうしようもなくチョロい男なのだ。夢に出てきたクラスメイトに勝手な理想を押しつけて、現実の彼女もそうなのだと勘違いしてしまってもおかしくはない。事実おれは、夢に出てくるまで璃子のことなどまったく気にかけていなかった。

 ……結局おれ、夢に出てきたから璃子のこと気になってるだけなんかな。

 好意の片鱗を見せられると簡単に好きになってしまう、おれの悪い癖である。しかもおれに好意を向けているのは夢の中の璃子であり、現実の璃子はそんなことは知るよしもない。彼女にしてみればいい迷惑だろう。


「高梨、話聞いてんのか?」


 突然教師に名指しされて、おれの肩はびくりと跳ねる。無意識でノックしていたらしいシャーペンの芯が伸びきっていて、ぽきりと折れてしまった。



「高梨、このままやとほんまにやばいからな。しっかり期末に向けて勉強しーや」


 授業が終わった後、銀縁の眼鏡を光らせた数学教師は、わざわざおれを呼び止めて言った。先日の小テストの結果が散々だったこともあり、おれも少々危機感を抱いていたところだ。 


中村なかむら先生、おれそんなにやばい?」

「やばい。期末赤点やったら、夏休み毎日補習やからな」

「え、それは無理! おれ部活あるんやけど!」

「せやったらもっと頑張れよ。ちゃんと真面目に勉強したら、赤点なんか取らへんねんから」


 正論でねじ伏せられて、おれは「はい」と答えるしかなくなってしまう。「ついでにそのノート、職員室に持ってきて」と言い残して、先生は教室を出て行った。無意味かもしれないが、ここは少しでも媚を売っておこう。


「た、高梨くん。私、職員室行く用事あるから持ってくよ」


 教卓に置かれたクラス全員分のノートを持ち上げたところで、璃子が駆け寄ってきた。こういったちょこちょことした雑務は、一応日直の仕事ということになっているはずだ。結局、璃子のような一部の真面目な人間が請け負っていることが多いようだが。


「ノート貸して」


 差し出された手が白くて小さくて、なんだかやけに「女の子」を感じてどきりとする。申し訳ないがおれは今、彼女をまともに直視することができない。ふいと視線を逸らすと、「いや、おれやる」と答えた。


「おれ期末やばいから、先生なかむーにちょっとでも媚売っとくわ」

「中村先生、そんなんで採点甘くするようなタイプちゃうと思うよ……真面目に勉強した方がいいんちゃうかなあ」


 璃子が呆れたように言った。なかなか引き下がる様子がないので、「じゃあ半分」と言って三分の一ほどのノートを手渡した。残りのノートを持って廊下に出ると、璃子が小走りで追いかけてくる。流れで、一緒に職員室に行く羽目になってしまった。決して嫌ではないのだが、なんとなく気恥ずかしい。


「試験、そんなにやばいん?」

「めっちゃやばい。マジで赤点とるかも」

「高梨くん、数学苦手やもんな」

「なかむーの声、全ッ然頭に入ってこーへんねん。やっぱ喋り方が問題やと思うわ。ほとんどお経やで、あれ」

「あはは、ちょっとわかる」


 璃子が声をたてて笑ってくれたので、おれは嬉しくなった。

 小柄な彼女の頭は、おれの肩のあたりにある。この角度だと顔はあまり見えないが、そのおかげで気負わずに会話をすることができた。


「私も数学はあんまり得意ちゃうけど。文系やし」

「そういや浅倉、英語得意やったよな」


 そう言った後で、英語が得意だと言っていたのは夢の中の璃子だったかもしれない、と思い至った。しかし璃子は不自然に思った様子もなく、「うん、英語が一番好き」と頷いている。

 考えてみれば、おれは現実の璃子のことを何ひとつ知らない。夢の中ではいろんな話をしたけれど、それも全部おれの妄想だ。彼女が本当に好きなものや嫌いなものが何なのか。どういうときに笑って、どういうときに泣くのか。全部、知りたいと思った。


「……浅倉」

「なに?」

「……もしよかったら、おれに勉強教えてくれへん?」


 璃子がぴたりと足を止めた。弾かれたようにこちらを見上げた瞳は、いつも以上に真ん丸になっている。固まったままうんともすんとも反応がないので、余計なこと言ったかも、とおれは早くも後悔し始めていた。


「あ、いやおれ、再来週から試験前で部活休みになるから、放課後とか。浅倉も忙しいやろし、もし無理やったら全然」

「い、いいよ! 私でよければ! 高梨くんには球技大会でもお世話になったし!」


 おれの言葉を遮って、璃子は勢いよく頷いた。あんまり大きな声だったので、すれ違った男子生徒に怪訝そうな顔をされてしまった。おれはほっと胸を撫で下ろしながら「よかった」と呟く。


「あ、あんまり上手に教えられへんかもしれへんけど、がんばるね」


 そう言ってはにかむように笑った璃子の顔はかわいくて、やっぱりおれの好みだな、と改めて思う。なんだかまっすぐに顔が見られなくて、おれは再び足早に歩き出した。




 おれはその夜、もしかするともうあの夢を見ないのではないか、と思いながら眠りについた。しかし、気がつくとおれは、不思議な白い部屋の中にいた。隣にはやはり、穏やかな表情で眠っている璃子がいる。ふっくらとした頰を撫でると、璃子はくすぐったそうに身動ぎをして、目を開けた。


「……ハル、くん」

「おはよ、璃子」

「おはよう……」


 璃子が甘えるように、おれの手に頬擦りをしてくる。すべすべとした肌の感触が気持ち良い。そのまま抱きしめてキスをしたい衝動をぐっと堪えて、おれは口を開いた。


「……昨日、ごめん」

「えっ、ううん、全然……謝られるようなこと、何もされてないし」


 璃子は言ったが、本当にそうだろうか。冷静に考えてみると昨夜のおれときたら、「セックスしようと迫っておいて、結局萎えてやめる」という、かなり情けない事態である。これが夢で良かった、とおれはつくづく思った。

 おれは起き上がると、璃子に倣ってベッドの上に正座をしてみた。璃子は「どうしたん」と言って、おれに向き合って正座をする。


「おれ、自分の気持ちが整理できるまで、璃子に手ー出さへんから」

「え?」

「昨日の続きは、ちゃんと自分の気持ちがわかってからにする」


 璃子はきょとんとしていたが、しばらく考え込む様子を見せた後、「わかっ……た」と頷いた。

 この妙な夢がいつまで続くのかわからないが、夢の中で彼女を抱くのは、現実の璃子のことをもっと知ってからにしよう。自分の気持ちと向き合って、それで現実の彼女のことを本当に好きだと思えたら。そのときは今度こそ、夢の中で本懐を遂げようではないか。


「……ハルくん」

「うん」

「手ー出さへんって、どこまで?」

「え」


 予想外の質問に、おれは固まる。半袖のパジャマ姿の璃子は、ベッドの上で四つん這いになってこちらににじり寄ってくる。相変わらず正座をしたままのおれの膝の上に座って、こてんと胸に頭を預けてきた。


「……ぎゅーは?」

「……うーん、そのくらいはセーフかな……」


 おれは恐る恐る璃子の身体に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。やはり下着をつけていないせいで、ダイレクトに柔らかさを感じる。みるみるうちに下半身が反応して、これはやばいぞ、と脳が警笛を鳴らした。


「じゃあ、ちゅーも?」

「うん、まあ……それもいっか……」


 おれは答えながら、桃色の唇に自らのそれを重ね合わせる。最初は短かったキスがだんだんと長く深くなってきて、互いの舌がぎこちなく触れ合う。璃子の腕がおれの首に絡まって、おれはついつい彼女をベッドの上に押し倒してしまった。

 はぁ、と悩ましげな息を吐いた璃子を見下ろして、おれはようやく我に返る。おれは彼女を振り払い、その場から飛び退いた。


「いや、手ー出さへんって今言うたから! 璃子、あんまり誘うのやめて!」

「さ、誘ってへんもん! お、押し倒してきたんハルくんやん!」


 璃子が真っ赤な顔で抗議をしてきた。そうは言っても、この状況で押し倒すなという方が無理な話だ。

 やはりベッドしかないこの空間は、おれの理性をゴリゴリと削り取ってしまう。せめてニンテンドースイッチでも用意しておいてくれれば、少しは気も紛れるのだが。


「ハルくん、起こして」


 そう言って両手を伸ばした璃子に、おれはやれやれと肩を竦める。誘うなと言ったそばからこれである。もしかすると夢の中の璃子は、おれの本能の権化なのだろうか。これに抗って勝てというのは、なかなかの苦行になりそうだ。……まあ、自分で決めたことなのだからやるしかない。

 柔らかな身体を抱き起こしながら、おれは彼女の頭を撫でる。頰を染めて「いつか最後までしてね」と囁いてくる本能に、おれは頭を抱えたくなった。

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