昼間はただのクラスメイト

 二日連続で同じ夢を見てしまったおれは、いよいよモテなさすぎて頭がおかしくなってしまったのではないか、と思い始めていた。夢の中で繰り返し触れた唇の感触を反芻すると、興奮と罪悪感がないまぜになったような、奇妙な心持ちになる。

 もう一回キスしてほしい、と言って目を閉じた浅倉は、おれの妄想が生み出したものとは思えないくらいかわいかった。唇が触れるたびに腕の中でびくびくと震える彼女の反応がかわいくて、調子に乗ったおれは何度も何度もキスをしてしまった。今回も結局最後まではできなかったけれど、まるで初めての彼女と初めてのキスをしたような、不思議な満足感があった。

 その一方で、さすがにこれはまずいだろう、という気持ちはある。あれが百パーセントおれの妄想が生み出した脳内彼女ならともかく、浅倉璃子は現実に存在しているのだ。クラスメイトの妙な夢に登場させられていることなどつゆ知らず、今日も真面目に授業を受けている。


「じゃあホームルームの前に席替えするから、くじ引きに来てー」


 担任教師の声に、教室の中は異常な盛り上がりを見せた。四月に新しいクラスになってから、初めての席替えなのだから、みんながはしゃぐのも仕方ない。おれは真ん中後方の今の席をわりと気に入ってはいたけれど、それでも席替えはワクワクするものだ。できるだけ後ろの方の席になりますように、と願いながらくじを引く。すると、翼がトントンと肩を叩いて尋ねてきた。


「ハルト、何番やった?」

「んー、三十八」


 黒板にかかれた座席表と番号を照らし合わせてみる。廊下側の後ろから二番目の席だった。できれば窓際がよかったけれど、かなり当たりの部類と言えるだろう。続いてくじを開いた翼が「うーわ、オレ一番前や……死んだ」とがっくり肩を落とす。

 みんな一斉に机と椅子を移動し始めて、教室の中にガタガタとうるさい音が響き渡る。おれの後ろの席は、野球部の坂口拓海さかぐちたくみだった。「いえーい」と軽くハイタッチを交わす。


「あっ、拓海の隣やーん。授業中めっちゃうるさそー」


 と、斜め後ろから明るい声が聞こえてきた。うちのクラスで一番の美人と名高い、塚原つかはら陽奈ひなだ。男女分け隔てなく誰とでも仲が良いが、当然おれは喋ったことがない。塚原さんに話しかけられた拓海は、デレデレと眉を下げる。


「お、陽奈よろしくー。明日ウノ持ってくるしみんなでやろうや」

「なんでウノ? ほんま、真面目に勉強する気ないやろー。あ、高梨くんも近くなんや。これからよろしくー」


 にっこりと微笑みかけられて、おれは挙動不審になりながらも「おー」と答える。こういうときに気の利いたことが言えないところが、おれがモテない所以である。塚原さんの隣とか、拓海の奴羨ましいな……と思っていると、おれの隣にも机と椅子が運ばれてきた。


「あっ、璃子ちゃんやー! 席近くてめっちゃうれしー!」


 その横顔を見た瞬間、おれの心臓はどきりと高鳴った。昨日夢で何度も重ね合わせた桃色の唇が、すぐそこにある。浅倉は塚原と手を合わせると、きゃあきゃあとはしゃいだ声を出した。


「私も嬉しい! よろしくねー」


 まさかこのタイミングで、浅倉の隣の席になってしまうとは。昨日夢の中であんなことをした手前、勝手に居た堪れない気持ちになってしまう。おれは彼女の方をまともに見ることができず、素知らぬふりであさっての方向を見ている。


「なあなあ、浅倉さんもやる? ウノ」

「私、ウノのルールあんまり知らんねんな……面白い?」

「今俺らの中でめっちゃ流行ってるねん。教えたげるから大丈夫やって。な、ハルトも一緒にやろうや」

「え!?」


 突然話を振られて、反射的に浅倉の方を見てしまった。ぱちりと視線がかち合う。くりっとした丸い瞳に、小さな鼻と口。おれの夢に出てきた浅倉璃子は、どうやらかなり現実に忠実なつくりだったらしい。要するに、本物の浅倉も、よく見るとかなりかわいい。目が合っていたのは数秒のことで、浅倉はすぐにふいと視線を逸らしてしまった。あまりのそっけなさに、おれはちょっと傷つく。


「はーい、静かにしてー! 移動終わったらさっさと座る! じゃあホームルーム始めるで!」


 動物園のごとく騒がしくなったクラス内を、担任教師が一喝する。おれはチラリと横目で浅倉を盗み見た。彼女はまっすぐ前を向いており、こちらを向く気配はない。白い頬も長い睫毛も、夢とまったく同じだ。

 ――もう一回キスして欲しい、です。

 上目遣いにこちらを見つめる潤んだ瞳を思い出して、おれの体温はにわかに上昇した。おれのスウェットをぎゅっと握りしめていた小さな手は、今はシャーペンを握っている。いやいや、だからあれは夢やってば。

 先生は来月に控えた球技大会の説明をしていたけれど、おれは隣の浅倉の存在ばかりを意識してしまって、まったく話が入ってこなかった。




 隣で眠る人間の気配を感じながら、また同じ夢だ、とおれはすぐに理解した。がばっと起き上がると、予想通り白い布団の中に浅倉の姿がある。まさか三日連続とは。席替えで隣の席になって、彼女のことばかり考えていたせいだろうか。しばらくして目を開けた彼女は、おれの顔を見てふにゃりと眉を下げた。


「あっ、今日も高梨くんがいる……やったあ」


 そう言って起き上がると、強請るように両手を広げてくる。それに誘われるがまま、おれは柔らかな身体を抱きしめた。幸せそうに頰を寄せてくる彼女は、露骨に視線を逸らしたクラスメイトと同一人物とは思えない。

 ベッドの上で抱き合っていると、当然それ以上のこともしたくなってしまう。おれはこつんと額を合わせると、「キスしてもいい?」と訊いた。浅倉は「うん」と頷いて目を閉じる。これはおれの夢なのに、いちいちお伺いを立てるなんておかしな話だ。そう思いながらも、遠慮がちに唇を押しつけた。ふにゃりと柔らかくて温かい。そのまま舌も入れたくなったけれど、また突き飛ばされるかもしれない、と思うとできなかった。もう少しだけ、この幸せな夢を味わっていたい。


「そういえば、高梨くん」

「なに?」

「隣の席になれてめっちゃ嬉しい。これからよろしくね」


 浅倉はおれの腕の中でニコニコ笑う。おれは昼間の浅倉の様子を思い出しながら、唇を軽く尖らせる。


「……えー? 全然嬉しそうに見えへんかったけど。なんかめっちゃ目逸らされたし……」


 おれの言葉に、浅倉は慌てふためく。


「ご、ごめん! でも恥ずかしかってん! 私、高梨くんと喋ったことないし、どうしたらいいかわからんくて! ほんまに、ほんまに嬉しかったんやってば!」


 必死になっている浅倉がかわいくて、おれはにやける顔を隠すように「わかったわかった」と抱きしめる。おれの胸に顔を埋めた浅倉は「ほんまは、私ももっと普通に話しかけたいんやけど……」と呟いた。


「別に、話しかけてくれたらいーのに」

「えーっ、でも高梨くん声かけづらいし」

「……誰の顔が怖いって? おれの目つきの悪さは生まれつきなんやけど」


 冗談めかして言うと、浅倉はおかしそうにくすくすと笑みを零した。


「たしかに目つき悪いけど、そんなに怖ないよ。ただ、ちょっと近寄りがたい感じする。いっつも男子と一緒にいるし」

「女子と喋れんからな、おれ。硬派ぶってるだけやけど」

「そうなん?」

「うん。ほんまは女の子大好きやからな」

「……それはそれで、ちょっと複雑」


 浅倉は拗ねたように唇を尖らせる。おれは「うそうそ」と言って、宥めるように彼女にキスをした。我ながらかなり調子に乗っているな、と客観的に見て思うのだが、仕方のないことではないか。なにせ、夢の中とはいえ生まれてはじめてかわいい彼女ができたのだ。


「……じゃあ、明日頑張って挨拶してみよかな」

「うん。そうして」

「ぜ、絶対無視したりせんといてな!」

「するわけないやろ、そんなん」


 おれはそう答えながらも、現実の浅倉がおれに話しかけてくることはないのだろうな、と考える。隣の席になれて嬉しい、なんてことを言ってくれる彼女は、そもそもおれの脳内にしか存在しないのだから。


「高梨くん、もっとぎゅっとして……」


 それでも、甘えた声でそう言って縋りついてくる彼女のことを、ただの妄想だと割り切れるはずもない。彼女の体温も、匂いも、柔らかさも、全てがこんなにもリアルに感じられるのに。強請られるがまま、おれは背中に回した腕に力を込める。艶やかな黒髪を軽く梳いてみると、さらさらと指の間から零れ落ちた。




 朝練を終えたおれは、ショートホームルームが始まるギリギリに教室に飛び込んだ。五月も半ばになると気温もかなり高く、朝から汗だくになってしまう。この暑さではネクタイを締めるどころではない。カッターシャツの襟元をばたつかせながら、おれは机の上に黒のエナメルバッグを置く。


「ハルトおっすー」

「おはよー、高梨くん」


 拓海と塚本さんが揃って声をかけてきた。朝から美女に挨拶されるとは、今日は良い一日になりそうだ。おれは短く「おはよ」と答えて、席についた。置きっぱなしにしている教科書を出すべく、机の中をごそごそを漁りだす。


「……お、おはよ、う」


 そのとき、小さな小さな、蚊の鳴くような声が隣から聞こえてきた。空耳かな、と思うほどの微かな声。おれがぎょっとして隣を見ると、浅倉が両手を机の上で組み合わせたままじっと俯いている。今のもしかして、朝倉の声か?

 ――明日、頑張って挨拶してみよかな。絶対無視せんといてな!

 頭の中に響いたのは、昨夜夢の中で聞いた彼女の声だ。今隣に座っている彼女の発言ではない。そんなことくらい、おれだってわかっている。変に意識するな、と自分に言い聞かせながら、小さく息を吸い込んで口を開いた。


「お、おはよ」


 そう言ったおれの声も、浅倉に負けないくらい小さく掠れてしまった。それでも浅倉の耳には届いたらしく、僅かに首を曲げてこちらを向いた彼女の唇が、緩く弧を描く。少しぎこちなかったけれど、夢と同じくかわいらしい笑みだった。

 このままだとまずい、と頭の中でアラートが鳴り響いている。今おれの隣にいる浅倉璃子はただのクラスメイトであり、ゆうべ何度もキスをした彼女とは違うのだ。それなのにおれは、今すぐ彼女のことを抱きしめたくなっている!

 おれがその場で固まっているうちに、担任教師が教室に入ってくる。無理やり浅倉から視線を剥がしたおれは、黒板をじっと睨みつける。ショートホームルームが終わるまでのあいだずっと、どうにかして今日も夢の続きが見れないだろうか、と考えていた。

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