はじめてのキス(※ただし、夢の中)

 目が覚めた瞬間、なんだやっぱり夢か、と私は落胆した。


 自分のベッドの中でさっきまでの夢を反芻しながら、最高の夢見ちゃった、とにやける。私の片想い歴はもうそろそろ三年目に突入しようとしているけれど、彼の夢を見たのは初めてだった。

 それにしても、随分とリアルな夢だった。同じベッドの中に高梨くんが寝ているだけでも鼻血が出そうだったのに、なんと抱きしめられてしまった! がっしりとした逞しい腕にすっぽりと包み込まれて、もう死んでもいい、と思った。そのままベッドに押し倒されて、それから――


「……あー、もったいないことしたあ!」


 私は枕に顔を押し付けて身悶えする。もうちょっとで、もうちょっとで高梨くんとキスできたのに、私のアホ! 突然の出来事に頭が追いつかなくて、思わず彼を突き飛ばして、そのまま夢から覚めてしまった。せっかく良い夢を見ていたのに、自分で台無しにしてしまうなんて。

 私はベッドからのそのそと這い出す。枕元のスマートフォンを見ると、アラームが鳴る五分前だった。二度寝するような時間でもないし、今日はもうこのまま起きてしまおう。

 部屋を出てリビングに向かうと、お母さんとお父さんは向かい合って朝ごはんを食べていた。「おはよう」と声をかけると、揃って「おはよう」と返してくれる。お姉ちゃんはまだ寝ている。昨日も大学の飲み会で帰りが遅かったようだし、授業をサボるつもりなのかもしれない。

 朝食を終えると、パジャマを脱いで制服に着替える。紺のブレザーに淡いグレーのスカート。赤いストライプ柄のリボン。ちなみに男子はネクタイだ。彼氏がいる子の中では、リボンの代わりに彼氏のネクタイをつけるのが流行っているらしい。私もいつか高梨くんのネクタイをつけてみたい、と思っているのは内緒だ。

 洗面所に移動すると、セミロングの髪をとかしてハーフアップにした。うちの高校は校則がゆるいし、茶髪にしている生徒もたくさんいるけれど、私には髪を染める勇気がなかった。お化粧だってろくにしていない。クラスのオシャレな女の子たちに比べて、私のなんと冴えないことだろうか。


「いってきまーす!」


 リュックを背負い、白いスニーカーを履いて玄関を出た。私の家はマンションなので、エレベーターで一階まで降りて駐輪場に向かう。高校までは自転車で十五分ほどかかる。少し早めに学校に行って、朝練をしている高梨くんを覗き見るのが私の日課だ。親友の香苗には「ほぼストーカーやん」と呆れられているけれど、どうにもやめられない。バスケをしている高梨くんを見ることは、私の日々の癒しなのだ。

 外はとってもいい天気で、緑の街路樹が太陽の光を跳ね返してキラキラと光っている。青いキャンバスに白い絵の具をこぼしたように、空に雲が散らばっていた。最高の夢も見たし、今日はいい一日になりそう。私は青い自転車に跨ると、鼻歌を歌いながらペダルを漕ぎ始めた。



 私が高梨遥人くんを好きになったのは、中学三年の夏のことだった。

 当時の私は、バスケ部の男子に片想いしていた友達に付き添って、試合の応援に行った。その子の片想い相手が私の幼馴染だったので、「璃子が一緒やと声かけやすいから!」とほぼ無理矢理連れて行かれたのだ。運動音痴の私はスポーツがあまり好きではなかったし、バスケのルールさえほとんど知らなかった。最初のうちは目まぐるしく飛び交うボールを必死で目で追っていたけれど、いつのまにか私の視線は一人の選手に釘付けになっていた。

 彼は他の選手に比べて、頭ひとつぶんくらい背が低かった。それでも誰よりも大きな声を出して、コートの中を縦横無尽に走り回っている。バスケットボールって背の高い人がするスポーツだと思ってたけど、そうでもないんだな。そんな風に思ったのを、よく覚えている。つり目でちょっと目つきが悪かったけれど、チームメイトに向けるくしゃっとした笑顔は愛嬌があってかわいかった。

 結局試合には僅差で敗れてしまって、三年生にとっては引退試合となってしまった。俯いて涙を流す人もいる中、彼はコートの上で最後まで顔を上げて、ぐっと唇を引き結んでいた。


「あの背の小さい人、二年生かな?」


 私が尋ねると、友人は答えた。


「高梨くんのこと? 同い年やで。六組の高梨遥人くん」


 同じクラスになったことがなかったので、私は彼の存在を知らなかった。試合が終わり、友人を幼馴染に引き合わせた後、私はこっそり彼の姿を探してみた。府立体育館の中をウロウロと探し回ってみると、誰もいないロッカールームの前に彼――高梨くんは立っていた。

 彼の姿を見た途端、私は息を飲んだ。壁に額を預けながら、たった一人で、彼は泣いていた。コートの上ではまっすぐに前を向いて、他のチームメイトの背中を叩いていた彼が。たった一人で、誰もいないところで、ボロボロ涙を零している。

 今すぐ駆け寄って彼のことを抱きしめたい、と思った後、そんなことを考えた自分に驚いた。私は突然の衝動を必死で抑え込んで、踵を返してその場から立ち去った。それからというもの、私の頭の中から高梨くんの存在が消えなくなってしまった。数日考えて、私は彼に恋をしたのだと、そう結論づけた。

 もちろん告白なんてできるはずもなく、私はコソコソと高梨くんのことを調べたり、こっそり姿を盗み見ることで満足していた。一度だけ、我慢できずに机に手紙を入れたこともある。名前を書くことはできなかったけれど。

 彼と同じ高校に進学できたのはラッキーだったし、二年生になって同じクラスになれたのはもっとラッキーだ。今までに見ることのできなかった、授業中の高梨くんのことを存分に観察できる! 相変わらず彼とは目すらまともに合わせられなかったけれど、それでも私は充分幸せだった。



「璃子、なんかいいことあった?」


 高梨くんの朝練を見た後、教室に入るなり、隣の席の香苗が声をかけてきた。私は「やっぱわかる?」と緩む頬を押さえる。まだ高梨くんは朝練中だろうけど、彼が教室に来るまでにポーカーフェイスを取り繕わなければ。


「あんなー、今日……高梨くんの夢の見てん」


 小さな声で香苗に報告する。すると、香苗は呆れたように肩を竦めて言った。


「いい加減にしーや、璃子」

「え?」

「なに夢見たくらいで満足してんの。ストーカーみたいに覗き見するくらいやったら、もうちょっと仲良くなったらええのに」


 痛いところを突かれてしまった。わたしが「う、うーん……まあ、そのうち……」と口ごもると、香苗は余計に声を荒げる。


「そんなこと言うて、クラス替えして一ヶ月以上経つやんか!」


 そう言って香苗は、私の額を指で軽く弾いた。香苗の言うことはもっともだ。毎日一緒に授業を受けているのに、私は未だに高梨くんに挨拶すらできずにいる。


「そんなこと言われても、席遠いし」

「明日席替えするらしいから、近くなったら絶対喋りや」

「うーん、それはどうやろなあ……」

「璃子! あんた、やる気あんの!?」

「香苗、声大きい!」


 ショートホームルーム前の教室はざわついていて、誰も私たちの会話なんて聞いていないだろうけど、それでも用心に越したことはない。それに、そろそろ高梨くんが朝練から戻ってくる頃だろう。香苗は声のボリュームを一段階落として続けた。


「とにかく、うちが高梨くんの近くの席になったら、璃子と替わってあげるから」

「ほんまに? めっちゃ嬉しい。ありがとう!」


 そんなことを話しているうちに、高梨くんが教室に入ってきた。朝練の後だからか、額が軽く汗ばんでいる。紺色のブレザーは手に持っていて、赤いネクタイも締めていなかった。私は香苗と会話を続けながらも、全神経を彼に集中させる。私の近くを通過するときに、なんだかまた背が伸びた気がするな、と思った。高校に入ってからみるみる背が伸びた彼の身長は、四月の身体測定の時点で百七十三センチだったらしい。

 高梨くんは席につくと、テニス部の綿貫くんに話しかけられていた。彼の席は後ろの方なので、最前列に座っている私からはほとんど見えないし、会話もまったく聞こえない。明日の席替えで近くになれたらいいのに。話しかける勇気は、まだないけれど。

 それにしても夢の中の私は、よく彼に告白できたものだと思う。おそらく、明らかに夢だとわかっていたから言えたのだ。夢じゃなければ、「付き合おう」だなんて言ってもらえるはずがない。

 高梨くんはどちらかと言えば明るくてよく喋る方だけど、女子と会話をしているところを見たことがない。仲の良い女の子がいないのは私にとって喜ばしいことだけれど、休み時間も男子とばかり一緒にいるので、どうにも話しかけづらいのだ。そもそも部活で忙しそうだし、あんまり女の子に興味がないのかもしれない。同じバスケ部である私の幼馴染もしょっちゅう告白されているみたいだけれど、「今は部活に集中したいから」と全て断っている。

 ……あかん。今現実に告白したところで、うまくいくビジョンが全然見えへん。

 私は机に顔を伏せると、「やっぱりもったいないことしたあ」と呟く。もし今度同じ夢が見られたなら、絶対に絶対に拒んだりしないのに。しかしこんなに素晴らしい夢なんて、もう滅多に見ることができないだろう。高梨くんの写真でも枕の下に入れておこうかな、と思ったけれど、さすがにストーカーじみている気がするのでやめておこう。




 目を開けた瞬間、自分のベッドではない場所で寝ている、とすぐに気がついた。私の部屋のベッドよりもフカフカで、二人の大人がゆうに寝転べるくらいに大きい。上半身を起こすと、高梨くんが隣で眠っているのが見えた。これってもしかして、昨日と同じ夢!?

 周囲を確認してみると、やはり昨日の夢と同じ部屋にいた。私の格好は、先程ベッドに潜り込んだときと変わらずボーダーのパジャマだ。せっかく夢の中なんだからもうちょっとかわいい格好をさせてくれてもいいのに、気が利かない。高梨くんも昨日と同じグレーのスウェットを着ている。

 時折休み時間に居眠りをしているところは見るけれど、高梨くんの寝顔をこんなに間近で見るのは初めてだ。つり目がちの瞳が閉じられているせいか、いつもより幼く見える。私がまじまじと観察していると、高梨くんがぱちりと目を開けた。私の顔を見て、ぎょっとしたような表情を浮かべる。


「お、おはよう……?」


 まだ夢の中なんだから、「おはよう」はおかしいかな。そう思いながらわたしが言うと、高梨くんも身体を起こして目を擦った。首を傾げながら、「これって、昨日と同じ夢?」と呟く。


「たぶん、そうやと思う……」


 夢の中の高梨くんも、ゆうべの出来事を覚えている。きっとこれは、昨日の夢の続きなのだろう。ここは恥を忍んで、もう一度キスしてくださいって頼んでみよう。これは私の夢なのだから、恥ずかしがっていても仕方がない。

 しかし私が口を開く前に、高梨くんがベッドの上で深々と頭を下げた。


「えーと、ごめん! 浅倉」

「えっ、え!? なにが!?」

「その、昨日おれ、朝倉の気持ちも考えずに……いやまあ、夢の中とはいえ……思わず、その場の勢いっていうか……」


 高梨くんが頭を下げたまま、しどろもどろに弁明する。どうしよう、謝られるようなことじゃないのに。私はオロオロと高梨くんの両肩を掴む。


「あの……私の方こそごめん。でも、全然嫌ちゃうかったから大丈夫」

「……ほんまに?」


 高梨くんがやっと顔を上げてくれた。その表情は不安げに曇っている。私はこくこくと何度も頷いて、高梨くんに抱きついた。グレーのスウェットから、私の家のものとは違う洗剤の香りがする。今度こそ、このチャンスを逃してなるものか。私は必死になりながら、彼のスウェットの胸あたりをぎゅっと握りしめた。


「ほんまに、ほんまに全然嫌とちゃうよ。その、今度は逃げたりせーへんから、もう一回キスしてほしい……です」


 よくこんなに恥ずかしい台詞を口に出せたものだと、自分でも思う。夢の中じゃない限り、こんなの絶対無理だ。

 高梨くんの腕がおずおずと私の背中に回って、ぎゅっと力が込められる。顔を押しつけた胸からは、心臓の音がバクバクとうるさく響いていた。本当に、夢とは思えないくらいにリアルだ。


「浅倉」


 高梨くんが私の名前を呼んで、頬に手を添える。私の心臓はもう、破裂しそうに高鳴っていた。心なしか、私に触れる彼の手も震えているように思える。ゆっくりと顔が近づいてきたので、覚悟を決めた私は目を閉じた。ほどなくして、柔らかな感触が唇にぶつかる。生まれてこのかたキスなんて誰ともしたことないくせに、やけにリアルな感覚だった。

 ゆっくりと目を開けると、真っ赤な顔をした高梨くんの顔が目の前にあった。こつん、とぶつかる額が熱い。ああ、幸せだな。現実のファーストキスも、こんなに素敵だったらいいのに。「もう一回……」と囁かれて、再び重ねられた唇の温度に酔いしれる。ああ、なんて私の願望丸出しの夢なんだろう。このまま目が覚めなければいいのに、と私は真剣に思ってしまった。

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