【KACPRO20218】エンゲージリング【第8回お題:尊い】

なみかわ

エンゲージリング

 狭い階段を一気に、景色は巻き戻った。

 にぶい痛み。頭だけが、がんがんして、慶とときのようなとがった痛みでもなく。

 見たことのない人たちの顔がとりどりにめぐる。この悪夢はいつまで続くのだろう?



 朝になった。ああやはり、三軒目のバーで飲み過ぎたのだ。階段で足を踏み外したのだ。私は慶の身体をみた。……サイドテーブルから。……不自然な場所。

 スタンドミラーを見た。家具屋でいいねと選んだそれに写るのは、起き上がってきた慶だけ、だった……。



 目が回る。わたしは――慶のIDカードのストラップにしっかりくくりつけられている、この前交わした婚約指輪エンゲージリングに、私は、乗り移っていたのだ。それを知っているのは、私だけのようだった。慶がフレックスの出勤前に総合病院の集中治療室に寄って、石のような顔の私に面会するときの、悔しすぎて破れそうな顔なんて、いままで見たことがなかった。



「田中! これ間違ってるぞ!」

「すみません」

「おい田中! クライアントの資料出てるか?」

「ごめんなさい、これからです! 15時には」

 仕事中の慶のことも、話でしか知らなかったから、こんなときとはいえ、観察をすることもできた。けれども、あきらかに、この前私の家に挨拶にきた時や、これわたし――プラチナの婚約指輪を選んだ日のようなは、色あせて失われていた。


 慶の部屋のテーブル、新居のための家具のカタログの山のわきに――私の診断書のコピーがあった。こんな現実ものをみせられて、普通に仕事をしていられるほど、人間は図太くないと思う。




 数ヶ月が経とうとしていた。結婚式の予約に行く予定も延びて、慶の部屋はゴミだらけになっていた。文言の変わらない診断書のコピーだけが上積みされ、ビールの空き缶が転がっていた。わたし(の意識)は3日に1回くらい病院と指輪を行き来していたけど、それを知っているのも私だけだった。


 目に見えて業績が落ちる同僚を、横目にこれがチャンスと前に出る中途採用の男や、やさしく見守りつつも次の異動計画から慶の名前を外す様子の上司、さまざまな人がこの商社にはいた。


 南さんは味方の女性社員で、何かと慶をフォローしてくれていた。私も何回か南さんの名前を聞いたことがあった。南さんは弱っていく慶を、たぶんはじめは人として見守ってくれていた。でも、このまま私が目覚めなければ――玄関に置いてある写真の相手は、彼女になってしまうのだろうか。

 ある日の朝、埃だらけの革靴を履き部屋を出る慶を、迎えに来ていた南さんは、そっとハンカチでそれをふいた。ぱたり、と写真立てが倒れたけど、ドアの鍵は閉められた。冷たい鉄の音で、私の意識はまた病院に引き戻される。



 次に指輪に戻ったとき、慶は南さんと、居酒屋で食事をしていた。かなりのグラスが空いている。二人とも何かのプロジェクトを終えた疲れからか、いつまでも飲み続けていたけど、深夜2時、南さんは慶を連れて夜の街に出る。


 総合病院は9時には消灯するから、非常灯と急患入り口の明かりがわずかに見えるだけだ。週末をのみ明かす人たちがうごめく、猥雑わいざつなターミナル駅前をぬけて、なら選ばない、ごてごてな入り口のホテルの黒い自動ドアを通る……!


 南さんはふらつきながらも、慣れた感じでフロントから鍵をもらい、……目的の部屋に入ったとたん、慶に寄りかかった。慶のにおいと、南さんの豊満な肉体にはさまれた私は、最高の吐き気を覚えた。慶は少なくとも女性を転ばせてはならないからか、南さんをとりあえず奥のベッドしかない所へ連れて行った。


 左右に揺れる私の視界に、南さんが大きくなる。南さんも、慶も相当に酔っていて、ぐたぐたになりながら、じゃれているのか、服がひとつひとつはがれていった。



「つらかったでしょう? 泣いていいのよ?」

 慶はついに、頭を震わせて、はだけた南さんの胸に顔をうずめた。




 嫌だ、嫌だ――!



 数分経ったろうか。恋人同士なら愛撫がはじまる頃、慶はそっと身体を離した。




「こういうときって」

 慶は南さんのブラウスをそっと肩にかけた。

「人間だし、男だから、それに南さんみたいなひと、抱きたくもなる。なるんですよね。でも」

 慶は倒れこむ言い訳か、離れる言い訳か、理屈を並べようとしていた。嫌だ、嫌だ――私は動けなかった。けれども、乱雑に脱いだ服の隙間から、

 コツリ、と。

 IDカードと、私が。

 床を打った。




「冷めたわ」


 南さんはわざとらしく突き放す。

「あたしが酔っぱらったのを、田中が介抱してくれた、今日はそういうことよ」

「……ありがとう、ありがとうございます!」

 慌ててスラックスのベルトをかけなおす。




「……ごめんねこんなことして」

 慶がホテルのドアを閉めてから南さんがつぶやいた反省は、には聞こえなかった。







 数ヶ月後。


 私はほんとうに、夢からさめた。

 あのできごとから数日は、とても強い眠気に襲われ、病院にも戻れず、もしかしたら今度こそ死ぬのかもしれない、と覚悟していたが……夢からさめた。


 医者も、親も、慶も……みんなが喜んでいた。






「手を」


 私は慶のほんとうに自然なふるまいに、そっと手をのせた。もう、転んだりしない。間違えない。

 そして願う。


 もう二度と――あんな日々に戻るものか、と。



 青空に響く鐘の音は、二人の指を包み照らした。




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