白皓

霞花怜(Ray Kasuga)

白皓

 ひらり 花弁が舞い落ちる。

 盛りをすぎた桜の木から、風に乗って、ふわふわと。

 優しい春の夜風が、薄く開かれた障子戸の隙間から、それを彼女のところまで運んできた。


 行燈と一本の蝋燭の灯りを頼りに書物に目を通していた時子は、落ちてきた花弁でふと外に視線を向ける。

 群雲のかかった朧月が柔らかくも妖しい光を漂わせ、薄紅色の桜を白く照らし出していた。

 時子は着物の裾を払ってゆっくり立ち上がり、その障子戸に立つ。

 花冷えの頃を過ぎたとはいえ、夜風はほんのり冷たさを帯びていた。


 庭に一本だけ咲く桜の木。

 また、この季節が巡ってきたのだ。

 桜が散るとき、時子は思い出す。

 自分を置き去りにして逝ってしまった、彼の君のことを。

 夫婦になると誓い合い契りを結んだ、あの夜のことを。


 散々泣きちらしたせいか、涙がこぼれる事はなくなった。

 ただ心の奥に残るのは、小さく重いしこりの様な想いだけ。

 彼の逝ってしまったその訳を知った。

 この罪だけが彼女を、そこに縛り付けていた。


(正之助様)

 もう、名を口にする事もない。

 ただただ、心の中で呼び続ける儚い想い。

 呼び続ければ、桜の陰から彼がふと現れそうで。

 名を呼ばなくなったのは、何時頃からだろうか。


 それ以来、時子は縁談すらする事無く、女手一つでこの大店を守ってきたのだ。

 今までも、これからも。

 想う人は、一人だけ。


 そう思っていても、お店目当てに寄って来る虫が多すぎて追い払うのも楽ではない。

 唯一人、正之助の幼馴染の是清は、とても親身になって世話を焼いてくれていた。

 特別に恋心があった訳ではない。

 しかし心のどこかで頼りにしていたのは確かであった。


 心優しくおっとりとした正之助とは裏腹に、是清ははっきりとしたしっかり者でお店を預けるには充分な素質を備えていた。

 両親も始めは是清との縁談を進めたかったようだが、日本橋に大店を構える正之助の実家の支度金に目が眩んだのだろう。

 養子を貰うなら正之助と勝手に決めていたようだ。

 しかしそれは、互いに想いを通じていた時子と正之助にとっては、どうでも良いことだった。

 夫婦になれるなら、どんな条件が積まれようと構いはしなかった。


 縁談も決まりかけた矢先、正之助は急病にて床に伏した。

 突然のことに訳が分からなかったが、倒れた次の夜、そのまま息を引き取った。

 心の臓の病といわれたが、そうではないことを時子は知っていた。


 毒をもられた。


 時子は、そう確信していた。

 正之助が倒れたのは、十人組の寄り合いの席だ。

 その酒宴で何者かに毒殺されたのだと思っていた。


 何者か……。そう、是清に。


 是清もまた、時子に想いを寄せていることを、正之助は知っていた。

 それが解かっていて、申し訳ない思いを抱いていることに、時子は気付いていた。

 是清のねっとりとした執着心とじっとりした愛情を、気持ちの悪いほど感じていたのだ。


 やがて時は流れ、年老いた両親が先を按じて是清との縁談を決めてきたときは心の底から恐怖と憤怒の念が湧いた。

 総ては、あの男の計画通りに進められたのだ。

 この大店を何時までも女だけで切り盛りするのが困難なことも、両親の気持ちもわかっていた。

 それでも、この心のしこりは、どうにも取り除きようが無かった。


 時子はふと 部屋の隅に目を向けた。

 朧げな光に染まり、ぞっとするほどに美しい白無垢が飾られている。

 もう自分の意思では、どうしようもない。

 明日には祝言が控えている。


 時子は硬く目を瞑り、やがてまた目の前の桜に向き直った。

 生温さと少しの冷たさを帯びた風が、花弁をふわりと躍らせる。

 朧月夜が作り出す不思議な景色。


 今宵は、ここが私の舞台。


 時子は部屋の隅の白無垢の下から大事なそれを取り出した。

 静かに庭に下り、桜の木肌に手を当てる。

 呼応するように風が花弁を連れてきて、時子の頬を撫でていった。


「時子殿」

 庭の奥から響いた声は、花弁と共に時子に近付いてきた。

「是清様」

 人形の様な笑顔を見せて、時子は是清を迎え入れた。

「どうしたのです。このような夜更けにそのような白い着物で」

 是清の黒い優しい声が流れる。

「白が好きなのです」

 微笑んで、答えた。

「春とは言え、まだ夜は冷えます、母屋へ」

 誘う手をとり、時子は是清の胸に顔を埋めた。

「時子殿」

 是清は迷うことなく時子の身体を抱きしめた。

「明日は貴女が私のものになるのですね。どれだけこの日を待ちわびたことか」

 耳元で是清が囁く吐息は生温かい。

「是清様は、本当に私を愛してくれているのですね」

 色のない虚ろな目のまま、時子は是清の胸に顔を当てている。

「勿論です。貴女以外の人など、考えられない」

 是清は更に強く時子の身体を抱き寄せた。

「そう……。良かった」

 虚ろな瞳が微笑んで刀の鞘が地面に転がった。

 瞬間、是清の背中に熱い痛みが走る。

「時子殿、何を」

 背中に回した時子の手には、小太刀が握られていた。

「貴方様が欲しかった私を、永遠に差し上げるのですよ」

 にっこり微笑む。

 時子は抱きしめられたまま、ゆっくりと桜の木に向かって歩を進めた。

 小太刀の柄が木にかかり、時子が是清に身体を預ける。

 小太刀はさっくりと、二人の身体を貫いた。

 真っ白い着物が真紅の血に染まる。


「これで貴方は、私を手に入れました」

 時子は是清の頬に手を当てた。

「時子殿、何故」

 苦渋の色に満ちた是清は、血走った目で時子を見ている。

「ようやく胸の痞えがとれました。正之助様の無念を晴らせたのですもの」

 にっこりと笑って見せた。

「貴方とともに参るところは地獄でも、心は永遠に正之助様の元にある。それで幸せなのです」

 時子の声が遠くに響く。

 是清は薄らいでゆく意識の中で白い鬼を見ていた。

「時子殿、申し訳なかった」

 時子は是清の胸に顔を添え、口元に笑みを湛えた。

「そんな言葉は要りません。私は貴方の命が欲しかったのですから」

 是清の体に、更に身を押し付けた。

 深く小太刀の鍔まで刺さった是清の身体から流れる血が、地面を紅く染める。

 程なくして力なく解かれた手が、だらりと落ちた。

 時子は満足げに微笑む。

「正之助様。今、お傍に参ります」

 ゆっくりと瞼を閉じた。


 二人の上から ひらり 花弁が舞い落ちて 薄紅色が真紅に染まる。

 夜風に乗って真紅の花弁が、ふわふわと。

 やがて部屋の白無垢を同じように赤く染めてゆく。


 朧月夜は何時までも 二人の姿を闇に映し出していた。


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白皓 霞花怜(Ray Kasuga) @nagashima

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