第44話 ふたりと、長い夜3

 翌朝。

 腹の辺りがやけに生暖かいなと思った次の瞬間。


 大音量の泣き声に目を覚ます。


「……おはよう、慶尚よしなお

 腹の上で景気よく泣いてくれる息子に声をかけ、抱きかかえて上半身を起こす。


 志乃の言うとおりだった。

 とにかく、布団に下すと泣く。


 まさに高性能感知器が背中にあるとしか思えない。


 結局下ろせず、腹の上に乗せて寝た。


 慶一郎けいいちろうは欠伸をひとつすると、赤ん坊の腰のあたりを支えて抱きなおす。その掌が濡れる。


「ああ。なるほど。おむつ、おむつ」

 スーツにワイシャツ姿のまま、立ち上がり、廊下に出た。


「まあ、旦那様とご一緒だったんですか」「あらあら、シャツが……。あなた、着替えなかったの?」

 居間から飛び出してきた千代と松を、慶一郎は一瞥する。


「お祖母さま。おむつはどこです」

 はいはい、と千代が居間に引っ込み、慶一郎は松に慶尚を抱きかかえさせた。


「着替えてくる。おむつを替えてくれ」

 はいはい、とこちらも返事をして、千代の後を追って消える。


 その間に慶一郎は再び自室に戻り、洋装に着替えた。ついでに顔を洗い、髭も剃る。その間も、泣き声は居間から断続的に聞こえてきていたが、昨晩のような大泣きではない。


「ほら、すっきりしたでしょう」「はい、泣かない、泣かない」


 居間に戻ると、座布団の上に仰向けに転がされた慶尚に、千代と松が鳴り物のおもちゃを使ってあやしている。


 不機嫌な顔をしてはいるが、もう泣いてはいなかった。


(……夜泣きだけ、ひどいのか)

 その様子を眺め、そんなことを思う。


「あら、慶一郎。あなた、今日も仕事なの?」

 慶一郎の姿を見て、千代が不思議そうに尋ねる。


「しばらく家にいることにしました。なので、今日だけは事務所に行って、社員にとにかく指示を出してきます」

 ネクタイを締めた。


「お祖母様、この家には揺りかごとか乳母車はないのですか」


「そう、ねぇ……。使った覚えはないわ」

 きょとんと千代が答える。その隣で、でんでん太鼓を鳴らしていた松が顔をしかめた。


「そんなもの、必要ありませんよ。どうせすぐに大きくなるんですから」


「黙れ。その、〝大きくなるまで〟が困るんだ」

 じろりと睨みつけるが、今度は千代が、「いいえ、慶一郎」と声を上げた。


「お松の言う通りよ。そんなものに入れるより、交代で誰か抱っこしていればいいじゃない」


「その〝交代で抱っこ〟が、結果的に出来ていないから志乃の手が腱鞘炎なんでしょう」

 冷たく言い放つと、さすがにふたりとも黙り込む。


「わたしが子育てを甘く見ていました。志乃に何かある前に、対処します。お祖母様といえど、全権をわたしに委任してもらいますので、そのつもりで」


 千代と松が互いに顔を見合わせ、「はい」と返事をし、慶一郎は「よし」と頷く。


「アメリアのところに使いを出します。明日にでも料理人をこちらに寄こしてもらうので、料理はその者にお願いします」


「えー……。西洋風になるのですか」

「お祖母様」

「はい。わかりました」


「松は、応接室と仏間の襖を取り外せ」

「続き間になさるのですか」


「そうだ。そこに、わたしと志乃の布団を運んでおけ。しばらく、そこで生活する。揺りかごや、必要なものも今日、買ってくるからなるべく広くしておけ」

「わかりました」


「志乃には、慶尚に乳をやる以外、極力なにもさせるな。とにかく、寝かせろ。そして、余計なことは言うな。お前の訳の分からぬ俗信も吹き込むな。わかったな」

 きつい声で松に命じ、それから千代に視線を転じる。


「明日からはしばらく、わたしがおります。年だの肩が凝っただのとおっしゃらず、今日一日は乗り越えてください」

 千代は威勢よく頷いたが、すぐに眉を下げる。


「でも、早く帰ってきてね」

「もちろんです」

 慶一郎は頷く。


「では、万事よろしくおねがいいたします」

 いうなり、慶一郎は上着を持って家を飛び出す。

 頭の中で、仕事のやりくりと買い物一覧を考えながら。




 のちに近代史に名を残し、列強を退け、国を導いた名宰相と称えられる瀧川慶尚は、同時に「歯に衣着せぬ男」でも有名だった。


 お上にさえ堂々と進言し、大国の政治家にもひるまず、五か国語を駆使して弁を戦わせた彼だが。


 唯一、「会うと毎回緊張する」とこぼす人物は、父である慶一郎だったという。


 その行いや考えに少しでも傲慢なところが見えると、慶一郎は不敵に笑って慶尚に言ったという。


「随分偉くなったではないか、しょんべん小僧。何かあれば、ビービー泣いておったくせに。あの時は父と母が迷惑をこうむった程度で済んだが……。今のお前の大声は、いったい誰を困らせているのか、よく考えてみるがいい」


 いくつになっても、父には、頭が上がらない。

 苦笑いしながら、慶尚は周囲にいつもそう漏らしていたという。

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