第43話 ふたりと、長い夜2
右腕に頭が来るように、左腕でしっかりと赤ん坊の身体を支えて抱き留めると、異変に気付いたのか、一瞬泣き止んだ。
「家中の女を困らせるとは……。大した男だな、お前は」
おもわず本音が漏れると、慶尚がまた泣き出す。
苦笑いで軽くゆすり、赤ん坊の腰のあたりを、定期的にぽんぽん、と叩く。
ついでに、鼻歌を歌いながら、ゆっくりと歩いた。
途端に、つま先に何かが当たり、からん、と音を立てる。
「あ、すみません」
慌てたように志乃がしゃがみこむ。
なんだろう、と視線を向けると、ガラガラだ。
志乃は拾い上げ、それからせわしなく部屋を片付け始める。
広げたままの布団。床に投げ出されたままのおくるみ。音が鳴るようなおもちゃに、手拭いがいくつか。藤籠は横転したまま壁をむいている。
几帳面で掃除好きだった志乃からは考えられない部屋の中。
無言で、ぽんぽん、と慶尚の背中を軽く叩きながら、ゆっくりと歩き続けていると、次第に泣き声は小さくなる。
代わりに、志乃が切れ切れの言葉を慶一郎に告げた。
「片付かなくって……」「あの、旦那様。すぐにきれいに」「あ……。これも……」
志乃の声を聞きながら、慶一郎は、足を止める。
慶一郎の視線は、円卓の上から外せない。
そこには、辞書と絵本と紙束が置いてある。
だけど。
長い間、手を付けられていないことは、一目でわかった。
(あれだけ、毎日辞書を開いていたのに……)
翻訳をしたいのだ、という志乃。
この家に来て、初めて自分の夢を見つけた志乃。
暇さえあれば、辞書を開いていた志乃。
(本当に、時間がなかったんだな)
ちらりと見やると、志乃はおもちゃを片付け、手拭いをひとまとめにして藤籠に放り込み、おくるみを猫足の椅子の背にかけていた。
「旦那様、ご飯は?」
慌てたように、志乃は目を見開く。
「今、準備を……」
急いで部屋を出て行こうとするので、右手で慶尚を抱えたまま、左手で志乃の袂を掴む。
手首を取ろうとしたのだが、巻かれた包帯が痛々しい。
「あ、あの……」
戸惑う志乃の袂を引いたまま、慶一郎は長椅子に座る。
釣り込まれるように志乃も慶一郎の左に腰かけた。
途端に、頼りない泣き声を腕の中の慶尚が上げるが、慶一郎が座りなおすと、また寝息を立て始める。
「この後、布団に寝かせると起きるのか?」
慶一郎が隣の志乃に顔を向ける。
こっくりと頷く志乃の頬は随分と薄い。睡眠不足だけではなく、痩せてもいる。
「もう、背中に感知器がついているんじゃないか、というぐらい」
その表現に思わず吹き出したが、志乃の眉が下がりっぱなしなのを見て、慌てて表情を引き締めた。
「じゃあ、いつもどうやって寝かせているんだ」
「下すと泣くので……。慶尚をお腹の上に乗せて、そのままお布団の上に寝転がるか……。この長椅子で、今、旦那様がなさっている姿勢のまま眠るか……」
なるほど、それでは腱鞘炎にもなるというものだ。
「日中も、まだ頻繁に泣きますし、おむつ交換とか、授乳とか……」
ぽつぽつと志乃は話し続ける。
「日々追われていたら、家事はできないし、千代様もお松さんもすごく心配してくださるんですが、全然うまくやれなくて……」
じわり、と志乃の瞳に涙が浮かび、ランプの光を宿したまま、頬を流れ落ちる。
「こんなにいろいろ手伝っていただいているのに……。全然、その……」
ぐずぐずと泣き始める志乃の頭を片手で引き寄せ、自分にもたれさせた。
「どうしたらいいのか、まったくわからなくて……」
ひいっく、としゃくりあげる志乃の頭を、撫でる。
反対の腕で抱いている慶尚は、すやすやと眠り始めたが、今度は志乃が本格的に泣き始めた。
「もう少ししたら首が座って楽になると、皆、言ってくれますが、それはいったいいつなのか」、「私だけがうまくやれていないんです」、「とにかく寝てくれなくて……」、「夜に抱っこしたまま、部屋を歩き回っていたら、寂しくて心細くて」、「おっぱいをよく飲んだと思ったら、吐くし……。そしたら、また飲ませた方がいいのか、それとも放っておいた方がいいのか」、「もう、今日が何日で、明日に何があるのかもわからなくて」
とりとめもなく志乃は言い続け、その間、慶一郎は黙って彼女の頭を撫で続ける。
ぼそぼそと話すその声は、次第に小さくなり、不意に潰えた。
そ、っと目だけ動かして左隣を見ると。
睫毛に涙を宿したまま、目を閉じている。
少しだけ開いた口からは、すうすう、と寝息が聞こえてきて、慶一郎は、ほ、と安堵の息を漏らす。
くたり、と自分に寄り掛かって眠っている志乃を布団に寝かせてやりたいが、この状態ではどうにもならない。
(……もう少し、熟睡してから……)
慶一郎は柱時計を眺めて五分が経過したことを確認し、右手で慶尚を抱えたまま、左手で志乃を支え、そっと腰を浮かす。
四苦八苦しながら、志乃を長椅子に寝かせ、それから慶尚を抱えたまま部屋を出た。
「さて、慶尚」
薄暗い廊下を自室に向かって歩きながら、慶一郎は腕の中で眠る息子に声をかけた。
「しばらくは、父と一緒に寝よう」
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