第38話 カラクリ

◇◇◇◇


 志乃しのが、左の薬指に指輪をはめて帰った次の日。


 朝ご飯の御膳を片付け、慶一郎けいいちろうが出勤する準備をしていたときのことだ。


 ころり、と手鞠が廊下を転がった。


 見覚えのある手毬。


綾子あやこ様」


 志乃は名を呼び、手鞠を両手で持ち上げる。

 上がり框でネクタイを締め直していた慶一郎も手を止め、廊下を振り返った。


「あそぼ」

 両目を黒い布でしばられた彼女は、振り袖姿で志乃に言う。


「ええ。遊びましょう。いくらでも、存分に。ですが、まずはお礼を言わせて下さいませ」

 志乃は綾子に近づき、深々と頭を下げた。


「私をこの家の者と認めて下さって、ありがとうございます」


「綾子、昨日の女はきらいだ」

 抑揚の無い声で言い、続けた。


「志乃、好き」

 言われて、志乃は微笑んだ。


「ありがとうございます。私も、綾子様のことが大好きです。だから、ちゃんと綾子様にお礼をしたいのです」


「お礼?」

「そうです。綾子様が一番望んでいることをかなえてあげたいんです」


 手鞠を両胸に抱き、志乃は尋ねる。


 会話が聞こえたのだろう。いつの間にか、千代も居間から出てきて、水雪とともに廊下で様子を伺っていた。


「綾子の、望んでいること?」


「ええ。そうです。綾子様は、本当はどうしたいのですか? ずっとここにいて、志乃と遊びますか?」

 重ねて問うと、綾子は形の良い唇を引き結んだ。


 一瞬。

 何か機嫌を損ねたのか。


 ひやり、とそう思うほど、綾子の表情が強ばる。


 だが。

 次第に、白皙の頬に流れるのは、水晶のような涙だ。


「綾子様……」

 思わず志乃が名を呼ぶと、綾子はぐい、と握った右拳で涙を拭う。


「お父様とお母様に会いたい」

 ぽつりと漏らしたのは、その一言だ。


 そこから、堰を切ったように言い続ける。


「お父様、お母様。会いたい、会いたい、会いたい」


 その声を、胸が張り裂ける思いで志乃は聞く。


 まだ、年がふた桁になったぐらいの子なのだ。

 それなのに両親を殺され、知らぬ男に引き渡され、蹂躙され、あまつさえ、目を塞がれて閉じ込められた。


 両親に、会いたい気持ちは痛いほどわかる。


「わかったにゃ。わっしが、御姫おひいさまを、ご両親様のところへお連れするにゃ」


 名乗りを上げたのは、青い半纏を着た水雪だ。

 ヒトガタを取り、それから、そっと綾子の側に控えた。


「猫又の水雪と申しますにゃ。あの世まで、御姫さまをお連れさせて頂きますにゃ」


 そう言って、そっと綾子の右手を握る。

 綾子は、無言で二度、頷いた。


「瀧川家の皆様。あの世に行き、ふたたび戻ってこれるかどうかは分からないにゃ。ここで、お別れと言うことも、十分あるにゃ」

 水雪は千代や慶一郎、志乃を順繰りに見て、ぺこりと頭を下げる。


「長い間、お世話になったにゃ」


「何を言う。こちらこそ、今まで世話になった」

 慶一郎が言い、志乃が障子の桟に捕まったまま、頷く。


「よく仕えてくれました。あちらで、のんびりしておくれ」


「千代様。七代様と同じぐらい、大好きだったにゃ。半纏、ありがとうにゃ。どうぞ、ご健康にお過ごしを」

 一層深く腰を折る。


「いいのか?」

 不意に綾子が言い、水雪が顔を起こす。


 その場にいた誰もが、綾子の顔を見た。


「綾子がいなくなると……。この家の繁栄に貢献する者はなにもなくなるぞ。良いのか」


 志乃は慶一郎の顔を反射的に見る。

 慶一郎は、くつくつと笑っていた。


「この慶一郎を見くびってもらっては困ります。この家を維持することぐらいなんでもないですよ。……まあ」

 それから、少し柔和に志乃に笑いかける。


「食うに困れば、志乃にも助けてもらうかもしれん。それでもいいか?」

「はい」

 志乃は笑顔で応じる。


「それよりも、綾子さんについては、わたしから謝らなくては……」

 千代は、左手で桟を掴んだまま、深々と頭を下げる。


「先祖が酷いことを……。どうか、お許しくださいね」


「綾子こそ……」

 ぎゅ、と綾子は水雪の手を握り、下唇を噛んだ。


「そなたの婿を……。親を……。済まぬ」


「いいえ。すべては、先祖の行いのせい。綾子さんは、何も悪くない」

 首を横に振ると、綾子は、ぐ、と顎を引いた。


「……慶一郎」

 数秒の沈黙の後、綾子は当代の名を呼んだ。


「はい」


「綾子が、瀧川の家に幸運を招いていた、カラクリを教えてやろう」

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