第37話 この慶一郎を甘く見てもらっては困る

 帰りの馬車の中で、志乃しのは自分の薬指にはめられた指輪を眺める。


「雪宮の者どもは、夕方には帰ったんだが……。その指輪を店に引き取りに行っていて、遅くなった」

 隣で慶一郎が詫びる。


「とんでもありません。ありがとうございます」


 志乃しのはぺこりと頭を下げた。

 結局、着物には着替えず、〝開拓民の女児スタイル〟のままだ。


「私はまた、皆さんのところに戻れて、本当に幸せで……」


 そこまで言って、ふ、と脳裏をよぎるのは、数日前に自分の布団で眠った綾子のことだ。


『ご両親に会えずに、さみしいのだな』


 彼女はそう言っていた。


 きっと。

 志乃の気持ちを慮った時、彼女の中の何かと重なったのだろう。


「どうした」

 促され、志乃は座り直して、慶一郎を見上げた。


「旦那様。もし、綾子あやこさまがいらっしゃらなくなったら、瀧川の家は危のうございますか?」


 問われて、きょとん、と慶一郎は目を見開いたが。


 すぐに、不敵に笑う。


「バカを言うな。この慶一郎を甘く見てもらっては困る。二階の主がいてもいなくても、この地位と財産は不動だ」

 くすり、と志乃は笑った。


「そうですね。きっと、そうです。それに」

 首を傾け、ふふ、と微笑む。


「もし、旦那様が仕事を失っても、志乃が通訳や翻訳業をして、養ってごらんにいれます」


「これは、大きく出たな」

 慶一郎は快活に笑い、それから志乃の頬に手を添えた。


 するり、と顔が近づいてきて。

 志乃は緩く目を閉じるのだけど。


「………なんか、子どもとするみたいで、いやだ」


 しゅる、と音がして目を開く。

 ボンネットがあっさりと外され、結われていない髪が、ふわりと肩に広がった。


 慶一郎が、その髪をすくいとり、指に絡めて顔を近づけてくる。


「こっちがいい」

 言うなり、やさしく口づけられた。

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