第32話 弥太郎

◇◇◇◇


 約束通り雪宮家は、瀧川家にやってきた。


 手代や侍女、車夫たちは近くで待機している、とのことで、応接室に入ってきたのは、志乃しのの父である弥太郎やたろうと、異母妹の郁代いくよだった。


 上座に案内し、湯茶を整え、家主同士が挨拶をかわし、志乃が千代の隣に座った時、弥太郎が切り出した。


「志乃を戻してもらいたい」

 ずず、と茶をすする音を、瀧川の家の者は、誰もが茫然と聞いた。


「いやあ、今日は良い陽気ですな。おお、立派な軸だ。これは?」


 広げた扇子で、ばたばた扇ぐ弥太郎に尋ねられてなお、慶一郎も千代も、呆気に取られて彼を見ていた。


 志乃だけが。

 唇の色を失って、肩を震わせていた。


「お父様、これは三代将軍様の御代のものですわ」

 弥太郎の隣で、うふふ、と笑い、郁代が滔々と由来を語り始める。


「おお。やっぱり、お前は学がある。やはり、こういう娘が、瀧川家には必要でしょう。慶一郎さん。ということで」

 よいしょ、と弥太郎は足を崩した。


「志乃は今日、うちに連れて帰ります。今後は、郁代が婚約者として……」


「ば、ばかなことを!」


 いきり立ったのは、千代だった。

 膝立ちになったのを、志乃が慌てて手で制する。


「慶一郎の嫁は志乃さんです。そちら様も、そのつもりで、我が家に嫁がせたのでしょう!?」


 千代がしっかりと志乃の手を握り、盲いた目で眼前のふたりを睨み据えた。


刀自とじ殿。だからそれは、間違いだったのです。相済あいすみません」

 悪びれもせず頭を下げると、弥太郎は満面の笑みで慶一郎を見た。


「数か月前に、私と郁代がパーティーに参加したのですよ。ほら、フォーブス商会が主催したものです。そこで、志乃を見たんですが」

 ふ、と弥太郎は息を漏らし、大げさに顔の前で手を振って見せた。


「貧相で、みっともなかった。あの瀧川家の妻には不釣り合いだった、と心底反省したわけです。ほら、その娘は女学校を出ておらんでしょう? だから、ご学友も交流もなくてねぇ」


 千代が握ってくれているのに、志乃の手は次第に熱を失う。


「瀧川家といえば、貿易や流通に携わるというのに……。縁もゆかりもないのでは、ご不便でしょう。その点、この郁代は違いますぞ」

 弥太郎は、ぽんぽん、と優しく隣に座る娘の肩を叩いた。


「女学校では成績優秀。お茶や生け花での人脈もある。必ずお役に立てます」


「まあ、お父様」

 振袖で口元を隠し、郁代は上目遣いに慶一郎を見上げる。


 それから、頬を染めて慎ましく畳に手をついてみせた。


「どうぞ、末永くよろしくお願いします」

 それに対する慶一郎の言葉は、外国語だった。


「……え?」

 ぽかん、と郁代が問い返す。


 弥太郎も目をまたたかせて慶一郎を見るが、彼は無表情のまま、それでも何かを問うていた。


「あ……、っと……」

 親子は顔を会わせ、ためらったまま慶一郎に視線をよこした。


 そこで慶一郎は、初めて表情を動かす。


 あきれたように肩を竦めてみせたのだ。


 そして志乃に顔を向けると、同じように外国語で話しかける。


 志乃は躊躇いながらも、外国語で返した。

 しばらくやり取りをしていたのだが、千代が唐突に噴き出した。


「そりゃあ、慶一郎。女学校では外国語など習いませんよ。洋裁や和裁、料理などです」


「そうですか」

 慶一郎はやっとこちらの国の言葉に戻すと、改めて弥太郎と郁代に向き合った。


「舅殿が、随分とそちらのお嬢さんをお褒めになるので……。志乃よりも語学ができるのかとおもったのです。そうですか、出来ぬのですか」

 言うなり、顎を綺麗な指でつまみ、首を傾げて見せた。


「それでは……、優秀とは言えませんね。志乃は外国語が出来る上に、家事に万能。お祖母様のお気に入りでもありますから」

 ふふ、と三日月形に唇をかたどる。


「生け花も茶道も、存分に極めて、よその殿方に嫁がれてはどうでしょう。ただし、うちではそのような商品は扱っておりませんので、ご相談には応じかねますが」


 言われて、ようやく郁代は顔を真っ赤にして黙り込み、弥太郎は唇をかみしめた。


「わたしは特に志乃について不満はありません。祖母によく尽くしてくれますし、この家を守ってくれています。どうぞ、舅殿、今後ともよろしくお願いいたします」


「ですがね、慶一郎さん」

 弥太郎が声を張った。


「その娘はまだ雪宮の者だ」

 訝し気に目を細める慶一郎に、弥太郎が畳みかけた。


「結納も交わさず、祝言も挙げていない。こんなもの、嫁に出したとは言えない」


「本来、そのような条件をわたしは上げていた。それを呑んでの結婚だったはずだ」


「そんなもの、聞いていない」


 頑固に言い張られ、慶一郎が小さく舌打ちする。


 千代が頭を抱え、「だからあれほど、段取りを踏め、と言ったのに」と小声で慶一郎をなじる。

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