第27話 反転
その日の晩。
厨房でふう、と息をつく。
(いつもより遅くなったけど……。明日の朝の準備は万端)
指さし確認をし、前垂れで手を拭く。ふと、かさついた指が目に入ったが、悲しい気持ちも、情けない気持ちも起こらなかった。
(指輪かぁ)
まだ何も飾られていない指を見て、自然に頬が緩む。
昼間、
こちらも、仕事関係でつながりがあるらしく、結婚の報告と、それから結婚指輪の購入が目的だったらしい。
おめでとうございます、と言祝がれ、様々な指輪を見せてもらった。
かさついて、ひび割れて、みっともない指だと思うのに。
慶一郎は真剣に指輪を選び、最終的に志乃に「どっちがいい」と言うので、おそるおそる、気に入った方を指さした。
『では、これを』『かしこまりました。出来上がり次第、ご連絡させていただきます』
早ければ、五月には出来上がるらしい。
夕飯時に、慶一郎から千代に指輪の報告や、和織の店が繁盛していたことを報告すると、彼女はにこにこ笑って喜んでくれた。
(……結婚、したんだなぁ)
ここに来て、ようやく実感した。
石油灯を消し、後ろ手に引き戸を締めた。
手早く前垂れを外し、さて、と気を引き締める。
廊下はすでに、薄闇に飲まれていた。
今から風呂に入って、アメリアから教わった外国語を復習しなければならない。
彼女は、慶一郎が連絡したその日のうちにやってきて、志乃が外国語を学ぶことにもろ手を挙げて賛成してくれた。
毎日のようにやってきては、家事をする傍ら、外国語で話しかけてくれる。
おかげで、日常会話はなんとかなる程度になったが、『書く』『読む』となると、さっぱりだ。
きちんとした文法を習っているわけではないので、アメリアから学んだことは、毎日カタカナ表記でノートに書き記している。
最終的には、「翻訳」をしたいと思っているので、焦る気持ちはあるのだが、慶一郎から、あまり無理はするな、と口を酸っぱくして言われている。
『書く』『読む』は、慶一郎が得意だ。
おいおい、余裕が出来たら教えてやろう、と言われて、ほっとしたところでもある。
母が亡くなり、雪宮という家に引き取られ。
この年までつつがなく育ててはもらったが、それは〝飼育〟されていたに等しい。
教育は与えられず、必要最低限の文字と計算、それから裁縫や料理が出来る程度だ。
雪宮を出て、瀧川に来た途端、志乃はいろんな人に出会い、いろんな質問をされた。
あなたは、どう思うのか。
どうしたいのか。
雪宮では決して聞くことのなかったそれに、志乃は今、一生懸命答えを見つけようとしていた。
(毎日が楽しい)
忙しく、そして大変でもあるが、それでも楽しい。
ふわり、と浮かんだ笑みのまま、廊下を玄関に向かって歩いていると。
しゅる、しゅる、しゅる、しゅる。
板を布が滑る音がした。
ふ、と視線を走らせる。
金色の袋帯だ。
いつか見た、あの帯が、また、ぞろり、と伸びて、蛇のように床を這っている。
しゅる、しゅる、しゅる、しゅる。
袋帯は、ぺらり、と先端を翻して廊下を折れ、居室が並ぶ廊下に向かう。
志乃は前垂れを放り出して小走りに駆けた。
玄関に向かい、廊下を右に曲がる。
唐突に。
袋帯はきれいに畳まれ、そこにあった。
「え……?」
なんだか拍子抜けする。
まさに慶一郎の部屋の前に、金色の帯は置かれている。
「……千代様のものかしら」
両手で丁寧に持ち上げ、首を傾げる。
霞に、紅色の七宝、それから花の文様が描かれたものだ。
千代のものだとしたら、嫁入り道具だろうか。若い娘の晴れ着に見える。
「志乃か?」
扉の向こうから訝し気な慶一郎の声が聞こえた。
「はい。あの……」
返事をすると、畳を歩く音がし、すぐに襖が開かれる。
風呂を済ませ、寝間着を着ているが、まだ仕事をしていたらしい。眼鏡姿で、右手には万年筆を持っていた。
「早く部屋に戻れ。もう、夜が来る」
険しい声で言ったものの、ふと、目をまたたかせた。
「ああ、そういえば、今晩はまだ……」
慶一郎の言葉を遮り、志乃は口を開く。
「あの」
この帯は、どなたのものでしょう。
そう尋ねたかったのに。
ぐるん、と視界が反転した。
足が天井に向き、頭が廊下の方向にある。
え、とまばたきをした瞬間。
志乃は、まったく見覚えのない座敷にいた。
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