第15話 金色の袋帯

(本当は、まだ何もないのだけど……)


 火照った顔で俯く。

 ただ、朝晩の口づけを慶一郎けいいちろうが欠かすことはない。


 朝はたいがい、仕事に行く前なのだが、夜がもう、不意打ち状態だ。


 厨房で食器の片づけをしているときや、廊下ですれ違うとき。

 なんだか、目が合った。

 そんなときに、腰をかがめて唇を重ねられる。


 腕をとられて引き寄せられる時もあれば、逃げ場を塞がれて壁に押しやられたこともある。そんなときは、こっちの反応を見て楽しんでいるんではないか、と疑ってしまう。


(……でも、一応、妻だからしてくれてるのよね)

 熱い頬を両手で包み、そんなことを考えると、幸せすぎて地団太を踏みたくなる。

 妻だから。

 家族だから、慶一郎はそのような行動に及ぶのだろう。


(いけない、いけない。表情を引き締めて……)

 ついでに気も引き締めないと、と顔を起こした。


 その視界に、金砂が舞う。


 いや、違う。 


 しゅる、しゅる、と。

 布が床をこするような音に、志乃は足を止める。


 それは、廊下を左に折れた。


(……帯……?)


 金色の袋帯。

 それが、ぞろり、と床を這っているように見えた。


(え……?)


 まだ業者がいたのだろうか。


 だが、変だ。


 商品をあのように引きずって歩くだろうか。


 志乃は、足を速めて廊下を折れた。


 右手には玄関。


 きらり、と。

 金色の帯の端が左の視界に入る。


 そちらにあるのは。


 階段だ。


「……え?」


 二階に、誰か上がったのか。


 驚いて手すりを掴む。


 段に足をかけた。


 みしり。


 もう一段。


 みしり。


(おかしい……)


 志乃は気づいた。

 階段を上がったとしたら、きっと、このように足音がしたはずだ。


 志乃は顎を上げ、階上を見る。


 慶一郎からは、「二階は掃除をするな。近づくな」と言われていた。

 だから、こうやって間近に見るのは初めてだ。


 足元にもう一度目をやる。

 飴色の板目。


 手すりとは反対側に目をやる。


 襖だ。

 この向こうは確か仏間になっている。


 手すりに目をやる。


 こちらは土壁。

 壁と襖にさえぎられ、上へと細く伸びる階段。


 細く長い闇が、志乃の前に広がる。


 しゅる。

 音とともに、金が闇に散る。


 袋帯の先が、蛇の舌のように、階上で揺らめいて消える。


(やっぱり、誰かいる)


 足を上げる。


 みしり。


 四段、上った。


 みしり。


 五段目。


 ようやく階上が、おぼろに姿を見せる。


「え……?」

 思わず声が漏れた。


 板戸だ。

 しかも、四隅を漆喰しっくいで開かぬように塗り固められている。


 しゅる、しゅる、しゅる。


 だが。

 音はする。


 帯を引いて歩くような。


 音。


「みゃあああおうっ!」


「わああああっ」

 不意に階下から猫の泣き声が聞こえ、志乃は大声を上げて手すりに縋りついた。


「ふなあああああ、おう。みぃやああああおう」


 視線だけ下に降ろすと、廊下には水雪がいた。

 まるで咎めるように志乃を見て鳴いている。


「ああ、……。ごめんなさい」

 慌てて、詫びた。それほど、水雪の目は厳しい。


「そうね。上に行ってはいけなかったわね」


 志乃は言いながら、ゆっくりと後ろ向きに降りる。


「ごめんなさい、はいはい」

 意味もなく、水雪に話しかけながら、廊下へと降りていく。


 どうしても。

 くるりと板戸に背を向けられなかった。


 そうすれば。


 背後から何かが襲い掛かってくる気がして。

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