おきゃん


 ――嗚呼、なんて美味しそう。


 彼女の指を想うと、アタシはそう思わずにはいられませんでした。真っ白で、細くて、けれどか弱い印象はなく、むしろ猫の尾ようなしなやかさをもち、艶かしく動くその指を、一度、一本で良いから食べてみたいと願うのでした。


 彼女と出会ったのは、十六歳になる年の四月。男女共学の薄墨高校に通うために、アタシはまだ入学式の気分が抜けないままで校門の近くを通りました。まだ桜も満開で、新しい道を歩き始めたアタシたちを祝ってくれているような、そんなふうに見えました。その、桜の一番大きな木の近くに、アタシと同じくらいの女のコが佇んでいて、アタシはその子が今にも桜に攫われてしまいそうだと焦って彼女に声をかけたのです。それが運命の出会いでありました。

 「桜に魅入られては攫われてしまうわ! お気をつけなさって、美しいひと

 アタシの声に振り向いた彼女は、まるで天女でした。濡羽色の艶のある長髪に、雪のような白い肌をほんのり色づかせて、宝石よりずっと目を惹かれる隻眼を少しばかり細め、制服から覗く細い四肢はしなやかで、薄桃色の潤いのある柔らかそうな唇から言葉を溢し――。

 「まあ。ふふ、そうね。貴女もわたくしの方をずっと見ていらしたけど……攫われないようにね」

 微笑んで彼女はその場を去りました。然し、再会の瞬間は存外に早く、なんと彼女もまたアタシと同じ新入生で、これまた偶然にも同じクラスで隣の席だったのです。こうして、アタシは十五年生きた中で初めて運命というものを強く強く感じたのでありました。


 「貴女、今朝の……ふふ、すごい偶然ね、驚いてしまったわ。わたくしは黒井百合子。花を愛でる事と水彩画スケッチをする事が趣味よ。貴女は?」

「アタシは珠希、水之江珠希というの! アタシも絵を描くのは好きよ、美術部に入ろうと思っているの。本当に……運命だわ、きっと。あの桜の木の下にいらしたアナタ、本当に天から舞い降りてきたんじゃないかと思うくらい美しかった!」

 アタシたちは忽ち意気投合して、出逢ったばかりなのに、もう何年も前から知っている親友のようになっていました。


 次の日からアタシたちはずっと一緒に行動するようになりました。授業の移動のときも、体育のペアも、お昼ごはんを食べるときも、部活に行くときもずっとです。アタシも百合子も美術部に入部して、お互いを描いたり、スケッチブックを見せ合ったりなどして、くすくすと笑うのでした。


 そんな日々を過ごしているうちに、百合子の指を食べてしまいたいと、そういう欲望がアタシの心のなかで頭を擡げています。今この瞬間も。だって、人間のカラダの中で、一番神経が集まっていて、繊細に動いて、まるで魂がそこに入っているみたいに艶かしく動いて、美味しそうで、赤い糸も指に繋がってるなんて云われているものだから……。アタシは増々彼女の指を食べたくって、仕方がないのです。けれどもそんなことを口にしてしまったら百合子がアタシを怖れて離れていってしまうかしらと思えば、アタシの中の欲望について話すことなどできようはずもありませんでした。

「ねぇ、百合子。アナタの絵を描きたいと思うのよ。次の作品展に出す絵のモデルになってほしくて……」

「ええ、もちろん良いわ。光栄よ。わたくしも珠希の絵を描きたいと思っていたの。ふふ、わたくしたち、本当に似た者同士ね」

 出逢った四月から早くも二ヶ月が経ち、その頃のアタシたちは、とても仲睦まじいコイビトのようになっていました。放課後は美術室にちょっと寄って、そのあと空き教室に忍び込んで手を握り合って日が暮れるまでふたりっきりで過ごします。接吻キス性行為セックスもしませんが、コイビトに向けるような愛おしさとか熱っぽさを孕んだ視線を交わしては痛くなるほど高鳴る心臓の音に浸っていました。初めは遊びのようなものだったのかもしれませんが、それとて何遍も繰り返していれば本物と変わらないような感情になるのだとアタシはそう感じていました。百合子がいれば男の人など要らなくて、百合子もアタシがいれば他の人を求めたりはしないと云ってくれました。この、プラトニックなアタシたちの関係は誰にも邪魔をさせませんでしたし、アタシも、ずっとこのまま清純を貫けるのだと夢の泡沫のような淡い想いを未来に見ていたのでした。


 然し、その未来はいとも容易く、身勝手で薄汚い一部の男性によって破壊されてしまったのです。七月の末のことでした。梅雨が過ぎ去った清々しい晴れの日に、アタシは頭を鈍器で強く殴られたほどの衝撃を受け、思わず地に膝をついてしまいました。何か云おうとすると言葉が喉に張り付いて掠れた"あ"とか"う"とか、呻き声のようなものになって吐き出されるのでした。

「……珠希……わたくし……いいえ、それでも清純は奪われておりません。無理矢理にカラダを重ねられかけましたけれども、そこへは丁度お巡りさんがいらして、助けてくださったのよ。だから、大丈夫。……珠希、わたくしの愛しい珠希、わたくしの事をお嫌いになられまして……? 穢されかけたわたくしは受け入れ難いかしら……?」

「そんなこと! ……そんなこと、ないわ……。百合子、アナタのココロに傷などどうか残さないでね……アナタに跡を残すのはアタシだけでいいもの……お願いよ、全て、全て忘れてしまって頂戴ね……アタシ、そうでないと気がおかしくなってしまうわ……だって、だってこんなにも愛しているのに……」

 気づけばアタシは涙を流していました。天から注ぐ雫よりも大粒の、痛くて痛くて堪らない感情の欠片を嗚咽とともに溢しました。

 百合子もアタシの涙が感染うつったようで、ふたりで抱き合いながら、いつもの空き教室でわんわん泣きました。泣いて泣いて、泣き腫らした愛おしい顔を清純な瞳に映してそして笑いました。その日は一寸ちょっと寄り道をして、お月さまが出るまで遊び、遅くに帰りました。もちろん家族には叱られましたけれども、これ以上ないほどの充足感にアタシは満足していました。


 八月。夏期休暇に入り、蝉が鼓膜を壊しそうな勢いで必死に鳴いていた頃、アタシたちはまた空き教室におりました。お盆のときには全て鍵がかかりますが、それ以外のときならば学校へは自由に出入りできました。

「ねぇ、珠希。少し前から感じていたのだけれど、いいかしら?」

「え、ええ……どうしたの?」

「……珠希、わたくしの指をどうにかしたいのではなくって? よく見ているからどうしたのかしらと思って。……そんな顔をしないで、珠希。可愛い可愛いわたくしの珠希。貴女が望むのだったら叶えて差し上げたいのよ。……わたくしと貴女の仲なのだから、何でも云って頂戴な」

「……………でも」

「わたくしには云えない……? ……それじゃあ、わたくしのカクシゴトも、云うことにしましょう。……カクシゴトを話すのって、勇気がとても必要だけれど、わたくしは珠希になら云えるわ」

 しばらくの沈黙の後、アタシはずっとずっと秘めていた心の奥底の欲望を小さな声で話しました。

「………百合子、あのね、アタシは……アナタの指を食べてしまいたいと思っているの……とても……美味しそうで……」

「……わたくしの手は珠希にとって美味しそうに見えているのね」

 目を合わせられないアタシに、百合子はやわらかく微笑んで見せました。それから自分の手を窓に向けて翳して、アタシに問いかけました。

「どの指をお食べになりたいの?」

「えっ……そ、そうね……左手の……小指か薬指」

 小指には赤い糸が繋がっていると云われているから、アタシ以外の誰かと結ばれないように。指切りげんまんも、小指。アタシ以外の誰かと秘事などしないように。

 薬指には婚約指輪をはめるのだもの、はめる指が失くなれば誰とも結ばれないだろうと。アタシはそう考えているのよ、と百合子に告げました。

「そう。ではね、珠希、小指を食べて、薬指は貴女が持っていてくれたらいいのだわ。私の指に婚約指輪をはめられるのは貴女だけ。……わたくしのカクシゴトはね」


 ――貴女の血で絵を描きたいの。


 微笑みを妖艶な笑みに変えて、百合子はアタシに視線を向けました。上から下までゆっくり見て、また口を開きます。

「貴女のカラダを巡っている血って、貴女の魂に近いと思うのよ。貴女の血で貴女の絵を描くの。……魂を閉じ込める、そんな感じかしら。昔の人は写真を撮ると魂を抜かれるなんて云っていたようだけれど、絵でもきっと同じ。貴女の肖像を……描かせてほしいの。出逢ったときからずっと思っていたわ」

 百合子がそっとアタシに触れて、そこから熱がじんわり広がるのだけれど、アタシのカラダは小さく震えました。恐怖からではなく、安堵にも近い、歓喜からの震えでした。百合子の美しいカラダに宿る狂気にも似たその欲望を……アタシは嬉しく思いました。

「……アタシの血でよければ、いくらでも使って。百合子にアタシの魂を預けるわ」

 アタシたちは初めてプラトニックを破り、深い接吻をしました。溶けるように暑かったこの日は、アタシたちの脳に焼き付いていました。


 その次の週、アタシたちは空き教室でお互いの欲望を果たすことにしました。アタシは治療道具と、指を切り落とすための大振りの刃物、それから薬指を保管するためのいくつかのものを持っていき、百合子は血を抜くための注射器と水彩のインク、キャンバスを持ってきていました。

「それじゃあ、やるわね。……きっととても痛いわ。でも麻酔なんてしてあげない。百合子、その痛みはアタシからアナタへの贈りものよ」

「わかってるわ、珠希。大丈夫、心配しないで……貴女から貰えるのなら痛みも蕩けるほど甘美な愛になるのだから」

 百合子は悲鳴ひとつあげませんでした。本当に本当に静かでした。切ったあと止血をして包帯を巻きます。小指は透明な袋に入れてトンカチで肉ごと骨を砕いてそれを腹に納めました。皮膚はなかなか噛み切れませんでしたがなんとかそれも飲み込んで、薬指は密封して、保冷剤を詰めた保冷バッグにいれました。

「……わたくしは、美味しかったかしら」

「ええ、とても。これが百合子の味なのね……忘れないわ」

「ふふ、ありがとう。……次はわたくしの番ね」

 アタシの腕から血を抜いて、百合子はそれをインクと混ぜました。下描きはすでに描いてきたらしく、赤をベースにそれからすっかり日が暮れてしまうまで時間をかけて、たった1枚、これまで見た中で一番素晴らしい絵を完成させました。大きなキャンバスのなかでアタシが笑っています。

「お互いの魂を分け合ったのね……これでアタシたちは本当の本当にコイビトよ。唯一無二の、愛おしい人……」

「ええ、わたくしは一生貴女だけを愛します。他の人になんて目もくれないでしょう」

 夕暮れがアタシたちを照らして、それを祝福のように感じました。アタシの口から自然にこぼれたのは愛を誓う言葉でした。秘密を話す幼子のように、悪戯っ子のように。

「アタシたちずうっと一緒だよ」


 珠希アタシ百合子コイビトにそう囁いた。

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おきゃん @okyan_hel666

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