あるじまうけ

第1話 欲求

 要求が呑まれず駄々をこねる子供に、「埋め合わせ」という大人の概念が通用しなかった体験がないだろうか。子供のやりたがったことを承諾しないかわりに大好物のケーキを買い与えても、意地を張って食べようとしない。そんな体験である。


 大庭みな子の『虹の橋づめ』という随筆に以下のような部分がある。


《娘が幼いころ、わたしたちはアメリカに住んでいて、ラガディアンとラガディアンディーという人形を欲しがったことがあった。粗末な木綿の遊び着を着た、毛糸の赤毛がもじゃもじゃの、女の子と男の子の対のいたずらチビっ子をかたどった、いかにもアメリカらしい人形である。

 昔、おばあさんが孫のために、あり合わせの残りぎれを縫い合わせ、綿や藁を詰めて作ってやったのが始まりだと言われている。

 だが、わたしはそんなことも知らなかったので、そのへんな人形をちらと見て無視してしまった。代わりにきれいな服を着た人形を買ってやったかもしれないが、わたしは多分、小さな娘の想像力を殺してしまったのだ。ボロきれで子供にわたしのラガディアンを作ってやることも思いつかない貧しい想像力しか持たない、怠け者の母親だったのだ。》



 ここには自分の乏しい想像力で価値を判断し、子供の想像力を殺してしまったかもしれないという反省があらわされている。

 あるいは、子供の欲求や言動に深く意味を求めすぎている親もまたいるかもしれない。言葉の意味だとか行動の意図といったことだけでなく、真似をする、泣く、といった子供の特性のように考えられることにも、である。


 子供の欲求というものが必ずしも、大人の認めるところの具体的な必要性や生産性をもつわけではないことは自明である。

 私が一つのケースとして考えたのは、欲する対象そのものが重要なのではなく、欲を満たすという過程に何かを学ぶのではないかということだ。


 大人と共通する明確な価値基準を持たない幼子にとっては、本人の興味が最も強力にその行動を決定するのだろうと考えるとどうだろう。

 たとえば、子供がおもちゃを欲しがるとする。親がこの欲求を満たしてやらねば子供は泣き出す。代わりにもっと価値のある(と大人の信ずる)ものを与えても機嫌はなおらない。また後日になって子供の欲っしたものを与えてやっても喜ばないことすらある。

 子供が何を思ってするのかは分からないが、衝動ということを考えれば、この時子供には「欲求が満たされなかった」ことが強く記憶されることは確かである。たとえ年に似合わず分別のある子供だったとしても、自分の欲求や態度のくだらなさに気づいていながら、結局フラストレーションとそれとは別の話である。


 あれがしたいと言った次の日にはこれがしたいと心変わりしているかもしれない。これが欲しいと言った1時間後にはもう飽きているかもしれない。

 それぞれの行動の分析(子供の体感時間についてなど)は専門の学者に任せるにしても、必ず気をつけなければいけないのは、子供が未だ言語の発達段階にいるということを忘れぬことである。


 子供の主張、欲求、行動、そういったものに矛盾や不合理を感じる時、必死に伝えようとする子供にさらに言葉を強要することに意味はない。また安易に慰めようとすることも注意が必要である。


 子供の欲求をできるだけ叶えよということではない。それではかえって将来のためにならないこともある。大切なのは子供のフラストレーションというものを意識することであろう。特に反抗期にいたらない人格形成期においてはこのフラストレーションがトラウマや人生全体に影響するものにつながる可能性が無視できない。

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あるじまうけ @unsustain

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