第17話

「うあああああああっ!」

「どわっ!」


 怒涛の斬撃に、俺は突き飛ばされた。背中から大木の幹に打ちつけられる。

 峰打ち気味に当たったのは、まさに僥倖だった。あの速度で刃の部分を叩きつけられていたら、間違いなく俺は真っ二つにされていただろう。


 俺がどうにか顔を上げた次の瞬間、


「やべっ!」


 地面に這いつくばり、頭部を両腕で覆った。キリアが、お得意の回転斬りを繰り出そうとしているのが見えたからだ。

 最も、それは俺がキリアの回転斬りを見慣れているから察せられたこと。


 もし、キリアの僅かな隙に気づかなかったら。そして、ぼんやりへたれ込んでいたら。今度は俺の首が刎ね飛ばされていたに違いない。

 証拠に、俺が背にしていた大木には、鋭利な斬り傷が真一文字に走っている。


 流石にこれには驚いたのか、『シャドウ』の成す黒い波は、ぞわり、と引き下がった。千切り飛ばされた腕が地面に落ち、液状化して木々の隙間へと引っ込んでいく。


「リンエル! 聞こえているだろう、僕を助けてくれ! 物理攻撃だけじゃ、この『シャドウ』は倒せない!」


 叫びながら、危なっかしい足取りで斬り込んでいくキリア。だが、戦闘中だというのに、キリアの長剣に赤紫色の光が宿ることはなかった。

 そう。リンエルは今、自らが被ったダメージにより、キリアに助力するだけの魔力を有していないのだ。


「ふっ! はっ! でやあああっ!」


 がむしゃらに長剣を振るうキリア。まさか彼……ではない、彼女がこんな取り乱した戦いをするとは、俺には想像もつかなかった。


(キリア、落ち着きなさい。一旦わたくしの下へ。力を合わせなければ、この『シャドウ』の襲撃をしのぎ切ることはできません)


 俺の脳みそにも、ラーヌスの思念は伝わってくる。だが、キリアはお構いなしだ。というより、怒りで我を忘れている。


 いや、これは『怒り』なのか? 俺はキリアの顔を見つめた。そして、はっとした。

 泣いている。キリアは、滂沱の涙を流しながら長剣を振るっている。その歪んだ、皺の寄った顔つきは、恐怖に泣き喚く赤ん坊のそれを連想させた。


(キリア、『恐ろしさ』に対して、心を開いてはいけません。あなたの剣筋が鈍るばかりです)

「う、うあ、うわあああああああ!」

「おいキリア! 先生の声を聞け! 一旦退くんだ!」


 俺もまた、そう叫ぶことでキリアを落ち着かせようとした。だが、効果はなし。

 それどころか、キリアは単身森の中へと入っていく。その時だった。


「うあ⁉」

「ッ! キリア!」


 キリアの片足が、『シャドウ』に捕らわれた。黒い沼状に展開した『シャドウ』から生えてきた腕が、キリアの足首を掴んだのだ。

 マズい。これではキリアは転倒する。そうしたら、ますます多くの腕に捕まってしまう。きっと、窒息させられてしまうだろう。


 俺が思わず目を逸らそうとした時、それは起こった。

 エメラルド色の光が走り、キリアの足を解放したのだ。

 はっと振り返ると、そこにはキリアの方に腕を翳したラーヌスの姿がある。ラーヌス自身が、魔術を使ったのだ。


 その表情に変化はない。だが、どこか張り詰めた雰囲気がある。

 ラーヌスほどの魔女にとっても、天界から下りてくる未練を防ぎ続けるのは困難だと、さっき本人が言っていた。今この瞬間もそうだろう。

 にも関わらず、彼女はキリアを救うための魔術を行使した。

 ということは、今のラーヌスは完全に無防備ではないのか。


「キリア、いい加減にしろ! ラーヌスの指示に従って――」


 そう言いながら、俺はキリアに近づく。今なら『シャドウ』は怯んでいるから、キリアを正気に戻すことができるかもしれない。

 だが、俺がその肩に触れるより早くキリアは振り返った。全身で絶望を表現しながら。


「先生、後ろ!」


 素早く視線を飛ばす。すると、ずしゃり、と生々しい音がした。真っ黒で直線的な、そして鋭利な『何か』が、ラーヌスを背後から貫通している。

 その『何か』――『シャドウ』と同じ雰囲気を纏った『何か』――は、湖面に立つラーヌスを引っ張り上げ、思いっきり左右に揺さぶって放り捨てた。


 どざっ、といって、短い草原の地面に打ちつけられるラーヌス。

 すぐに処置しなければ。だが、手持ちの医療キットでどうにかできる負傷ではあるまい。人体を回復させる治癒魔術を使える魔術師の存在が必要だが、俺にそんな心得はない。キリアだってそうだろう。


 俺が振り返ると、また液状化した『シャドウ』が、真っ黒に照り光りながらじわじわ迫ってくるところだった。


「クソッ! こいつらふざけやがって!」


 俺も遅ればせながらリボルバーを抜く。


「キリア、距離を取れ! ショットガンで対処するんだ!」

「……」

「おいキリア、何していやがる!」

「……」

「畜生! ちっとは状況ってもんを見て――」


 と言いかけて、俺は固まった。キリアが、膝を着いてぴくりとも動かなかったからだ。

 ラーヌスが無惨に倒されたのを見て、戦意を喪失してしまったのか。


 それを見て、俺が思ったことはただ一つ。

 俺はどうなっても構わない。だが、せめてキリアだけは、生かしておかなければ。

 そう考えると、『シャドウ』を前に何ができるかは不明だが、きっとここが俺の死地なのだろう。


 黒い沼状のどろどろからは、何本、否、何十本もの手が伸びてきている。

 せめて二本や三本、道連れにしてやる。俺が引き金に指を掛けた、その時だった。


 バシュッ、と音がした。頭上、側面上方からだ。

 木の枝の上に誰かがいる。暗くて相貌は明らかでなかったが、俺はその動きから、弓矢を使っているのだと見当をつけた。


 俺が視線を下ろすと、短い矢が『シャドウ』の手を貫通していた。

 驚いたのは、その矢を受けてからの『シャドウ』に見られた変調だった。

 動きが鈍る。灰褐色になる。それがじわじわと広がっていく。そして、一定の範囲に変調が広がったところで、一気にぼろぼろと崩れ去った。


 俺がそれを観察している間にも、弓矢による攻撃は続いた。その数、ざっと二十本ほど。

 それが狙いを違わず、手の甲、中指の付け根を貫いていく。


 流石にこれはマズいと判断したのだろう。腕の母体となっている液状の『シャドウ』は、じりじりと後退を開始した。

 それを見つめる俺の横に、すたっ、と誰かが降り立った。


「うお!」

「驚くなよ、おっさん。あたいだ、デッドだ」

「あ、ああ……」


 そこに立っていたのは、先日別れたばかりのデッドだった。


「お、お前、どうしてここに……?」

「決まってんだろ、先生を助けるためだよ。ついでにキリアとあんたのことも。だが――」


 デッドは周囲を見渡した。


「手遅れだったみてえだな」


 デッドの視線は、俺と、肩で息をしているキリアを捉え、それからラーヌスの方へと向かった。


「先生」


 そう呟いて、デッドは重い足取りでラーヌスの方へと近づいていく。うつ伏せになった彼女からは、何の威光も感じられない。まさに絶命しかけているのか、あるいは既に――。


 幸い、ラーヌスには、まだ意識があった。デッドは彼女を仰向けに寝かせ、そっと傷口に手を当てる。しかしすぐにがっくりと肩を落とし、かぶりを振った。

 今度こそ連れて行かねばなるまい。そう思いながら、呆然と立ち尽くすキリアを振り向かせ、ラーヌスの下へと引っ張っていく。

 その先では、デッドがラーヌスをそっと横たえるところだった。


「先生、どうか気を確かに。あたいの目を見てください」

「……デッド、さん……」

「そうです、デッドです。『シャドウ』は去りました」

「分かり……ました……」


 そう言って、ラーヌスは微かな笑みを浮かべた。いや、口角が僅かに上がった、と言った方が正しいか。

 その傷口からは、出血は見られない。しかしそこを中心に、ラーヌスの姿は半透明になり、ゆっくりと消え去りつつあった。


「デッドくん……魔術特性のないあなたが、よく『シャドウ』を撃退できましたね」

「そりゃあ、あたいの視力と観察力はずば抜けてますからね。あ、これ自画自賛じゃないっすよ? 先生の言葉ですからね。さっきの『シャドウ』の弱点はすぐに分かりました」

「そう……。キリアくんは?」

「今連れてきました」


 そう答えたのは俺だ。半ば引き摺るようにして、キリアに肩を貸しながらラーヌスのそばへ。


「お三方、よく聞いてください。わたくしがこうして倒された以上、天界に巣食う『シャドウ』たちは攻勢を強めるでしょう。しかし、そのためには天界と現界を繋ぐ扉が必要です。それを破壊し、封鎖してください」

「先生、その場所は?」


 デッドが問うと同時、俺の、いや、俺たち三人の脳内に、一つの光景が浮かび上がった。

 一見、どれが扉なのかよく分からない。しかし、同時に地図が頭に滑り込んできて、俺は納得した。ラーヌスにも、その場所は分っていない。だが、『精霊の里』に寄れば、ヒントを得られる。到着すれば、何かが起こるのだろう。


「わ、分かったぞ先生! 俺がキリアとデッドを案内できる! あんたはしばらく休んで――」


 と言いかけた時、既にラーヌスの姿はそこにはなかった。そうか、完全に天に召されてしまったのか。

 

 俺とデッドは顔を見合わせた。


「今日はあたいが見張りに立つ」


 そう言ったデッドに謝意を示し、しかしキリアには全く声をかけられず、俺はすごすごと湖のそばの下草に横になった。

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