第34話 誰でもない私


 △


 狭く汚い部屋の中に人影が一人。

 みすぼらしい格好に伸び放題でボサボサの黒髪の、男にも女にも見える痩せぎすの人物は、耳を押さえて縮こまっている。まるで何かを恐れるみたいに、息を潜めて微かに震えて。


 少し経つと部屋の外から何かをぶちまけるような衝撃音が聞こえて、一人の女性が扉を勢いよく開けた。その顔は怒りに染まっており、震える人影に気が付くと髪を掴んで無理やり立たせる。


「どうして片付けてないのっ!?」


 髪をつかんで引きずるように部屋から引っ張り出すと、彼女の部屋であろう場所を指差している。反対の手では未だ髪を掴んだままで、掴まれている本人は涙を流しながら痛みに耐えている。


「私の部屋、掃除しておけって言ったよねっ!?どうせ金も稼げない頭も悪い無能のくせに、簡単な言いつけ一つ満足に出来ないわけっ!?」


「だ、だって、お母さんこの前は部屋に入るなって…」


「私が悪いって言いたいの!?誰のお陰でここにいられるか理解して言葉を選びなさいよっ!」


 母と呼ばれた女が手を振るうと、甲高い破裂音が家中に響き渡る。それでも髪を掴まれたままであるためその人物は倒れる事もできず、赤く腫れだす頬を涙で濡らしながらじっと耐えている。

 我慢している様子が気に食わないのか、母親はもう一度頬を叩いて床に投げ出した。


「何でこんな生ゴミが私の息子なんだか…。もういい、出掛けるからちゃんと片付けておいて」


 床に倒れこむ人物は、少年だったようだ。

 母親は返事も待たずに家を出て行く。玄関の閉まる音が聞こえて少し経ち、少年は力なく立ち上がって掃除を始める。まともにやり方を知らないのか手際が悪く、お世辞にも綺麗にはならなかった。


 結局、彼は帰宅した母親にまた怒鳴られて、下着姿のまま夜のベランダに放り出される。

 少年は泣きながら謝り続けるが、母親は応じない。夜が過ぎて気が晴れれば中へと戻されるが、また数時間も経てば怒りやストレスを少年にぶつける。


 朝も夜も関係なく続く悪夢のような日々。彼にとっては学校だけが逃げ場だったが、純粋な悪意は唯一の居場所でも彼を追い詰める。

 服が汚らしいと誰かに嫌われ、それが伝染するように周囲も同調してく。気が付けば彼は虐めの標的になっており、誰にも手を差し伸べられないまま時間だけが進んでいく。


 心も身体も傷だらけの彼に、運命は更なる苦痛をもたらした。




 少年のランドセルが少し小さく見えた頃、彼の地獄に変化が起きる。

 いつもの様に一人で夜に冷凍食品を食べていた彼は、いつもより早い母親の帰りに気付く。彼の母親は出掛けると男の家に泊まっているようで、早朝に帰宅する事が殆どだ。

 それ故に少年は身体を震わせた。母親が早くに帰るのは問題があった時であり、男と破局したとかで不機嫌な状態で帰ってくるのだ。不機嫌な母親は少年への折檻も一際激しくなる。


 今日はどんな罰を受けるのだろうと震える少年だが、帰宅した母親は上機嫌だった。


 隣に男を連れて。


「ほら、挨拶しなさい。この人が新しいお父さんになるんだから」


 突然現れた若い男を、父親だと言われて困惑する少年。人に傷つけられ嫌われる少年は言葉が上手く出てこない。彼にとって他人とは悪意でしかないのだから当然だ。

 震えるばかりで黙りこくる息子の姿に、母親は苛立ちを隠さず声を荒げて髪を掴む。


「何黙ってんのっ!?」


「ッ……痛!」


「あんたは毎回毎回私の神経を逆撫でして…!親の事をなんだと…」


「まぁまぁ、その位にしときなよ」


 エスカレートする母の怒りを隣の男が止める。優しそうな笑顔を浮かべて掴んだ髪を離させて、母親の肩を撫でながら諌めている。

 まるで庇うかの様な男の行動に、少年の顔には驚愕が浮かんでいる。彼が見てきた他人の感情と言うのは殆どが悪意で残りは無関心だった。こんな風に笑顔を向けられた事なんて初めての経験なのだから仕方ない。


「あなたがそう言うなら…」


「ありがとう。親子は仲良くするのが一番だし、君は笑顔の方が可愛いからね」


「調子のいい事言わないでよ、もう」


 男は母親にキスをすると、未だ驚いたままの少年に目線を合わせてニッコリと笑う。少年は嬉しそうに目を大きく開いているが、他人が見れば男の目が淀んでいるのに気が付くだろう。


「今日から、よろしくね」


 男が差し出した手をおずおずと握りながら、少年は浮かれたように呆然としている。

 ここから更に苦しい地獄になるとも知らずに。


 人としても子供としても踏みにじられてきた少年には、男の薄っぺらい笑顔ですら眩しく見えてしまったのだから。




 最初は、少年にとって幸せな日々だった。

 叩かなくなった母と少しだけ優しい義父と過ごす毎日。長らく忘れていた暖かい食事は、レトルトとコンビニの料理だとしても涙が出るほどに美味しいものだった。

 骨と皮しか無いような彼は徐々に健康的な身体に近付いて、その中性的な見た目を際立たせていった。


 それが男の狙いだとも気付かずに。


 ある日の夜、少年は義父と家に二人きりだった。

 特に趣味も持たない彼は早くに布団に潜っていたが、そこに義父が顔を出した。少年にとって義父は唯一と言っていい慕う人物だ。何の疑いも無く義父を見詰める彼に向かって、男は影に隠れて見えない表情で口を開いた。


「上着を脱いで、上半身を見せなさい」


 言葉の意味がよくわからない少年は言われたとおりに服を脱いで、その二次性徴を迎える前の矮躯を露にする。

 男はそれに満足すると少年を自分の側に手招きする。





 ……この先は、言わなくても良いだろう。

 吐き気を催すほどの男の情念は、少年の心を大きく抉った。男は初めからこうするつもりだったのだ。初めて少年を見たときから、少年の純粋な心を騙して欲を満たすつもりだった。

 信じる人に裏切られた少年のショックは計り知れないほど大きく、涙を忘れるほどに心を磨耗させてしまった。


 視界だけの私の存在はその光景から逃げられなくて、彼の音の無い慟哭を感じながら意識を逸らすしか出来なかった。少年は事後も涙を流さず丸まっていた。この世界に逃げ場等無いかのように、諦めた光を目の奥に宿しながら。


 そして地獄の日々が始まった。

 義父が少年に手を出す毎に母の機嫌が悪くなり、罵倒は日を追う毎に酷くなる。その間も義父に求められて、拒否すれば暴力を振るわれるようになった。取り繕った家族の時間も気が付けば無くなっていて、少しの切欠で殴られ罵られる事が日常になる。


 少年は傷ついていく。

 心も、身体も、性別さえも踏みにじられてボロボロになって行き、何時しか彼も大きく成長していた。

 そして中学を卒業したその日に、少しのお金を握り締めて地獄の檻から逃げ出した。この苦しみと絶望が詰まった世界の外に行けば、きっと希望があると壊れた心のどこかで信じて。


 孤独な一人の世界で何時までも夢を見続け、一つだけの救いを見つけて。精一杯生きようという努力も空しく、彼は数年後に呆気無く命を落とした。

 顔も知らない人間の、誰でも良いから刺したいなんて勝手な動機で、冷たい夜の暗闇の中で孤独に死んでいったのだ。


 その命が尽きる瞬間まで、寒さに震えながら。


 ▽






 その少年…いや青年は良く知る人物だ。

 何を隠そう私の前世その人であるのだから。だから先程見た光景は良く知っているし、どれ程苦しかったのかも知っている。


 だが、私にとっては経験の無い出来事だ。この暗い空間に来てから何かがおかしい。今まで心に抱えてきた慢性的な不安や恐怖が薄れていて、先程の光景を見ている時も恐怖よりも強い怒りを感じていた。まるで少年の記憶が、他人の出来事みたいに見えていたのだ。


 一体何が原因なのか…。

 その答えを知っている存在がこの暗闇の先にいる気がして、私はどんどんと影の中を進んでいく。きっとここから出る鍵も、その人物が握っている気がするから。




 数分か、数時間か、数日か。どれくらい進んだかわからない頃に、視界の奥に小さな人影が見えてきて、世界を包む闇も薄れていく。


 闇の晴れた先は前世の私が最後を孤独に過ごした路地裏で、血溜りがあったであろう場所に誰かが腰掛けていた。


「貴方が、私をここに呼んだんですか?」


 長い髪の青年らしき人物は、感覚の無い雨の中で膝に顔を埋めて小さく三角座りしている。

 ピクリと少しの反応があり、ゆっくりと顔を上げていくと彼の顔が徐々に露になっていく。髪と同じように瞳も真っ黒な青年は、やはり先の光景に出てきた人物だ。不幸な生い立ちを体現するように空虚で陰気な表情をしており、未発達にも見えるその体躯は私と比べても男性には見えない。


 あまりにも心身ともに歪な青年だ。彼は私を待ちわびていたかのように薄く下手糞な笑いを浮かべると、高く中性的な声音で返事をした。


「どうなんだろう…。君が自分で来たとも言えるし、僕が導いたとも言える」


 彼は曖昧に答えると静かに立ち上がって、私の前に右の掌を見せるように差し出した。


「さぁ、君に見せたいものがあるんだ。付いて来てくれるかな?」


 私はその手を取って、彼の隣を歩いていく。不思議と彼に対して安心感を覚える。前世の自分自身故か、それとも他に理由があるのか。

 路地裏の先に見える微かな明かりの下を目指して、私達はゆっくりと歩き始めた。




「ここは君の心の中、所謂精神世界と呼ばれる空間だね」


 歩く速度を維持しながら、彼は私の疑問に答えてくれる


「こんな真っ暗な場所が私の心?なんだか、実感が湧きませんね」


「明かりが無いのは君が意識を閉ざしているからで、本来は真っ白な空間なんだよ」


「私が意識を閉ざしている…?それは眠っているという事ですか?」


「少し違うかな。まぁ、それはこの先に行けばわかることだよ」


 この話は終わりとばかりに彼は口を噤んでしまう。そしてまた、僅かな明かりを目指して進み。二人の足音だけが闇の中に響く。


 コツコツ、ぺたぺた。そんな音に耳を傾けながら考えるのは、彼が何者なのか。

 どうして前世と思わしき彼が存在するのか、他の人格が心に存在するなんてまるで二重人格だ。今まで彼の意識を感じたことは無いし、そんな素振りがあるなんて言われたことも無い。

 だから不思議なのだ。彼はいつから此処にいるのだろうか。


「昔からだよ」


「…私、声に出してました?」


「ううん、でもそんな風に顔を見詰められるとなんとなくね。」


 そんなに凝視していただろうか。少し申し訳なくなりながらも続きを促すが、彼は言葉を続けなかった。不審に思い彼に視線を向けると、彼は正面を指差した。気付けばもう目的地である光る何かが目視できるほどになっていて、その真ん中に影のようなものが見える。


「話の続きは、あそこに行ってからにしようか」


 一つ頷き歩みを速めながらも、先延ばしにされた答えが気になるのだった。








 お互いに口を噤んで歩いてどれ位経ったろうか、とうとう目的地に辿り着く。

 ポツンと不自然に存在するのは、中から光が漏れ出した一枚の扉。厳かな装飾が施されたその扉は、馴染みの深いお屋敷の扉だ。


 彼はドアノブを躊躇い無く掴むと、ゆっくりと回して開いていく。ガチャリと聞き覚えのある音がして、光で様子がわからないその先に彼は入っていく。その後に続くように扉を潜れば、驚く事にその先は屋外になっていた。


 風が穏やかに吹いている平原に、一枚の鏡が浮かんでいる。漏れていたのは陽光だったのかと手を額に翳しながら見上げて暫し佇む。暖かいような、涼しいような空間に浸っていると、彼の声が静かに聞こえてくる。


「おいでよ。君が今どうなっているのか、この中を覗けばわかるから」


 言われたとおりに鏡に近付きその中を覗き込めば、私に良く似た少女がぼんやりとしているのが見える。

 場所は…白清水の屋敷だろうか。僅かに開かれた窓から入り込む風が髪を揺らしても反応が無く、その姿はどこか人形の様に空虚に見える。


「覚えているかな、君は階段から落とされたんだよ。そして今は記憶を失って、療養のために屋敷に戻ってきているんだ」


 彼の言葉に事故の記憶がふつふつと蘇ってくる。身体を襲う浮遊感と予想外の事態への驚愕、私を見詰めるお姉様への罪悪感。意識を失う直前の光景が浮かんできて、じわりと目尻が濡れてしまう。

 そうか、私は怪我をしたのか。転がり落ちる途中で頭か何かを打って、記憶喪失になったわけだ。


「私の怪我、そんなに重傷なんでしょうか?」


「いや、怪我は軽い打撲と捻挫ぐらいで、頭には問題ないみたいだよ」


「ならどうして……」


 記憶を失い虚ろな目をしているのだろう。その質問を遮るように彼は答える。


「君が此処にいるから。そして僕が君を引き止めているから」


 私が此処に居るから、つまりは精神が目覚めるのを拒否している状態だ。

 ならば、何故彼は引き止めるのだろうか。彼は不幸な人間だが決して悪人ではない。私を憎んで目覚めるのを邪魔しているのでは無いのだろうし、不都合があるわけでもないだろう。

 彼はその疑問に応えるようにぎこちなく微笑むと、鏡の中に視線を戻しながら話し出した。


「どうしても、君と話がしたかったんだ。

 僕の願いと想いを知って欲しくて、こんな手段を取る事になってしまった。本当に悪いと思ってる、でもこんな状況でもないと君と話せないし、僕にはもう時間が無いから」


「話…?それに、時間が無いってどういうことですか?」


「勿論詳しく話すよ。だけど、この光景を見ながらにして欲しいんだ。今のまっさらな君の目で、彼女達がどんな様子か見て欲しくてね」


 納得できないまま彼を見詰めていると、鏡の中から扉の開くような音が聞こえてくる。

 誰かが会いに来たのかと視線を向ければ、現実の私も気付いたようで顔を扉の方に向けている。扉の向こうから現れたのは私の最愛の人物、鮮やかな赤が心を捉えて離さない愛しのお姉様だった。


 でもおかしい。怪我をした私はともかくどうしてお姉様が屋敷に居るんだろう。学院はどうしたのか、まさかあれから長い時間が経ってしまったのか。そうだとするなら、私はどれ程お姉様を一人にしてしまったのか。

 悪い予感に顔を青褪めさせていると、彼は笑って事情を教えてくれる。


「焦らなくても大丈夫。君が倒れてからそんなに時間は経ってない、多分一週間位じゃないかな。」


 良かった、私はお姉様を長い間一人にして、悲しませたわけでは無いようだ。


「…でも、それならお姉様は何で屋敷に?」


「実はね、お姉様ととある人物が君を心配して付いて来てしまったんだ。学院をお休みして、君に付きっ切りでお世話してるんだよ。…そう考えると大丈夫では無いか」


 あははっと彼は笑っているが、私にとっては笑い話にならない。つまりは私が原因でお姉様ともう一人に迷惑を掛けて、学業を疎かにさせているのだ。

 何を笑っているのだ、早く元に戻して迷惑を掛けるなと彼を睨むと、彼は気にせず鏡を見詰めたまま。まるで尊いものを見るように微笑むと、嬉しそうに私を見る。


「さぁ、君も見てみると良いよ。この鏡の向こうには、幸せな牢獄が広がっている」


 幸せな…牢獄?

 彼の不可解な言葉に疑問を抱きながら、横に並ぶように鏡を覗き込む。


 そこには想像とは違う光景が広がっていて、私は口を開けて呆然としてしまう。なるほど、幸せな牢獄とは良い得て妙だ。私が育んできた愛は、少し普通と違っていたらしい。




「物語になるような愛なんて、結末の後が一番恐いものだ」




 少し前の私は気付けなかった。彼と言う愛を知らない青年が、フィルターになっていたから。

 曇りが晴れた今の私には、大き過ぎる愛に雁字搦めにされる少女の姿が良く見える。鏡の向こうの光景は、私が招いたも同然なのだ。


 思わず触れた唇は、ジンジンと熱を帯びていた。



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