第3話 この度、雨が降りまして

 

「白清水 凛后」は所謂悪役令嬢だ。

 白雪姫の王妃がモデルの彼女は、傲慢で不遜な性格をしている。

 ゲームの舞台である学院で美しいヒロインに目をつけ、時には間接的に、時には直接的に嫌がらせを働くも、ストーリー終盤には悪事が露呈し全てを失ってしまう。


 絶望した彼女はヒロインの前で毒林檎を口にし命を絶とうとし、死は免れるものの植物状態になってしまう。

 毒林檎なんて少しコミカルだが、林檎を胸に画面越しにこちらを流し見る彼女の姿はあまりにも美しかった。


 最後のトリガーとなったのは、家族にも見捨てられたこと。


 そう、彼女には家族が一人だけ。

 彼女の性格が歪むのは、母との死別が原因だ。


 11月26日。


 それは彼女の母の命日で、彼女がこの世に生を受けた日。幸せな筈の記念日は、最悪の思い出として彼女の心に残ってしまう。



 あの日の私は、まだ何も思い出せていなかった。









 予報に無い大雨が降る日、その日は外に用事があってお母様は早くから出かける予定だった。

 なんてことは無い用事だから日暮れには帰るという言葉に、何故だか焦燥を覚える。


 私はぐずった。不安で不安で仕方なくって、泣きながら行かないでとお願いした。

 離れるのが怖くて、慰めが信じられなくて、私はお母様の側を離れなかった。


「お願い鏡花、お母様を離して。このままじゃ出かけられなくて困るでしょう?」


「やぁ……おかあさまいっちゃだめ、きょうはいっしょにいて……」


「鏡花ぁ、わがまま言っちゃだめよ? お姉様と一緒にお留守番してよう?」


「だめ、ぜったいにいかせないもん……」


 今手を離せばもう二度と掴めないような気がして、強く強くお母様に抱きつく。うまく伝えられない自分が恨めしい。どれだけうまく回っても、子供の頭じゃ何も思いつかない。

 グイっとした感覚と共に茨沢さんに抱えられ、掴んだ手が容易く解かれる。


「まったく、いつもは我侭なんて仰らないのに。観念して奥様にいってらっしゃいのご挨拶を……」


「だめぇーー!! いっちゃだめ! わかんないけど、わかんないけどだめ!」


「ごめんね鏡花。帰ってきたらいくらでも一緒に居てあげるからね」


 そう言って玄関へと向かうお母様とお姉様を、私は腕の中で見送ることしかできなかった。

 どうか何も起きませんようにと願って。


 扉が閉まるその時まで、お姉様は私を心配そうに見ていた。

 それは忘れる事の出来ない、11月26日の出来事だった






 △


 どうしたのだろう。

 気弱で小さな妹だけど、決して我侭は言わないのに。あんなに大泣きしながら愚図るなんて珍しいことだから、どうしても気になってしまう。


「凛后、ケーキを取ってくる間鏡花をよろしくね。元々良く泣く子だけどさっきの様子は少し心配だから、お姉さんとしてしっかり見てあげて」


 お母さんはそう言って頭を撫でてくれた後、おでこにキスをしてくれる。

 私が大好きなキスで、鏡花にもしてあげている家族皆の愛情表現。そのキスはとっても優しくて、泣いてる鏡花も忽ち笑顔になってしまう。


 私も当然嬉しくなるから、心配は少し薄れて笑顔になれる。


「うん、任せてっ! 泣いてる鏡花を泣き止ませるのは、私の得意なことだもん!」


「良い子ね。すっごいケーキを頼んでるから、楽しみに待ってて頂戴ね」


「わかった。でも、私も寂しいから早く帰って来てね? ちゃんと良い子で待ってるから……」


「ええ、すぐに帰ってくるわ。……車も来ちゃったから、そろそろ行くわね」


 お母様はニッコリと笑うともう一度頭を撫でて、立ち上がり扉の方に歩いていく。

 扉に手を掛けるともう一度私の方を振り向いて、扉を開きながら手を振った。優しくてみんなが大好きな、お茶目な性格を滲ませる素敵な笑顔で。


「鏡花と仲良くね。それじゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃいお母様っ!」


 扉が閉まるまで手を振り返して、バタンという音と共にお母様は見えなくなる。


 さて、私も鏡花の所に行くとしよう。

 今も扉一枚挟んだ先で泣いてるあの子を、いつもの可愛い笑顔にさせてあげるのだ。この後パーティーが待ってるのに、笑顔で迎えられないなんて可哀想だ。


 今日は11月26日、白清水 凛后の誕生日なのだから。


 忘れられない一日になるなんて、不思議と予感がしたのだった。


 ▽











 幸せな日々は突然終わりを告げた。


 あの大雨の日お母様が亡くなった。交通事故で即死だった。


 皆が涙を流してお母様の死を悲しんだ。寡黙な庭師も、噂好きのメイドも、あの茨沢さんでさえ大粒の涙を流していた。お姉様と私は声を上げて泣いた。

 あの優しくて暖かな声が聞けない、笑顔を見られない、胸の中に飛び込めない。そう思うと世界が温度を無くしたみたいで、異様に寒く感じてたまらなくなった。

 目を開けば、扉を開けば、そこに居るようで、誰もがお母様を忘れられなかった。




 記憶があれば、お母様を助けられたのだろうか。

 わからない。小さな子供の私では何が出来るかも、運命を回避する方法も。


 それとも記憶が無いのが良かったのだろうか。

 救えなかった事実を知っていたら、心が壊れてしまっていたかもしれない。悲しみだけでも張り裂けそうな心に自罰まで抱いてしまったら、私はきっと耐えられなかった。


 けれど、そんな可能性の話の答えは未来永劫出ないのだろう。


 もう、お母様は帰って来ないのだから。











 冬も深まるとある日の朝、屋敷の中は凍えるように冷え切っていた。

 物理的にという訳ではない。家族と使用人達の心が凍えるように冷たくなっているから。大切な人を亡くした皆の心は、取り繕ってもいまだ悲しみを抱えている。


 なによりも大きな変化は、お姉様がいないこと。

 悲劇の後、唐突にお姉様は私と眠ることをやめた。理由も碌に教えてくれずに、五歳になったからと誤魔化して一人で眠るようになった。


 大きなベッドは子供一人で眠るには大きい。ぽっかりと空いたスペースが寂しくて、無くした温もりが恋しくて、碌に眠ることも出来ずに毎夜涙で枕を濡らす。

 勿論寂しさを伝えようと話しかけたが、お姉様ははぐらかしてばかり。


「鏡花なら大丈夫」


 何かと理由をつけては最後にはこの言葉だ。


 もしかしたら、嫌われてしまったのかも……?

 いや、そんな事は無い。優しいお姉様がそんな風に私を嫌うなんて、あの笑顔が嘘だなんて。

 大丈夫、ただ一緒に眠らなくなっただけ。話もしてくれるしご飯も一緒に食べてる。遊ぶ時間だってあるんだから、きっと大丈夫だ。


 そうだ、大丈夫……大丈夫。

 不安を拭おうと強く目を瞑って祈るように心で唱え続ければ、次第に心は落ち着きを取り戻してくる。

 そのままお姉様の笑顔を思い浮かべれば、不安は気にならなくなった。

 決して、消えはしないけれど。


 すると、示し合わせたようにノックが響く。


「…………はぃ」


 返事をすると少しの間があって扉が開き、名前のわからないメイドさんが姿を見せる。

 言葉少なく挨拶を交わすと、カーテンを開けてシーツを変えてすぐに出て行ってしまう。当然だ、彼女は家族でも無いし、私もお世話が必要な幼子でもない。


「……おねえさまに、会いたい」


 ぼそりと口を衝いて出た言葉に従って、着替えて部屋を後にする。

 一人ぼっちの大きな部屋は、どうにも寒くて仕方ない。誰かの暖かさが恋しかった。




 お母様のいない屋敷はとても静かなものになった

 あんなに楽しそうだったメイドさん達のお喋りは無くなり、聞こえてくるのは茨沢さんの怒鳴り声くらい。

 お母様の分も忙しく働く茨沢さんは悲しみもあってストレスが溜まってるのだろう。偶に見かける顔は険しく、眉間の皺が話しかけるのを躊躇わせる。

 そもそも顔を合わせることすら殆ど無いのだから、いらない恐れなのかもしれないが。

 厳しくも面倒見の良い茨沢さんは、もう私の後ろで見守ってくれはしない。


 今も外に出て忙しそうに洗濯物を干しているが、その背中は不機嫌そうだ。

 厳しいメイド長。それが今の彼女なのだ。


 横にいたお姉様も、後ろにいた茨沢さんもいない。

 今の私はこの屋敷で一人ぼっちだ。


 早く、お姉様に会いたい……。




 肌寒い廊下を歩いて行くと、目的の場所が見えてくる。

 毎朝みんなと食事を共にした、暖かな食堂の扉を開いて声を上げる。


「おねえさま、おはよう……?」


 部屋の中には誰も居らず、一人前の食器だけが用意されている。

 家にいることが少なくなったお父様の分が無いのはわかる。けれどお姉様の分が用意されてないのは何故かわからない。いつも朝食を食べる時間にぴったり来たのだから、私が遅れたとも考えづらい。


 もしかしたら体調を崩したのかもと思いながら、料理を取りに調理場に向かうと中にはメイドさんが一人見える。


「あら、おはようございます鏡花お嬢様」


「……おはよう、ございます」


 彼女も名前を知らないメイドの一人だ。

 此処に待機している彼女ならお姉様の事情を知ってるだろうかと思い、食事の用意をお願いしながら話を聞くことにする。


「……あの、おねえさまは、どうしたんですか……?」


 いつもの様に極力視線を逸らしながら、何か知らないかと尋ねてみる。

 彼女は野菜やトーストを綺麗に並べながら、知らないことが不思議だとでも言うように答えてくれた。


「習い事が今日から始まるから、朝は早めに取るって聞いてませんか?」


 習い事……?そんなこと一言も聞いていない。

 昨日も普段通りに過ごしていたし、就寝前に話した時も何も言わなかった。


 今でさえ一緒に過ごす時間が少ないのに、一人ぼっちの時間が増えるってこと?

 この冷たい屋敷に一人ぼっち誰とも話すことも無く、食事もお風呂も一人で済ませて孤独な毎日を過ごしていくのだろうか。


 そんなの……嫌だ。


 お姉様が帰ってきたら、ちゃんと話を聞いてみよう。

 暖かい食事の乗った器を受け取りながら、沈んだ心に予定を決めて食堂へ戻っていく。メイドさんが心配そうに声を掛けてくれても、今の私にはまともに返事も出来ない。


 味も何も感じないまま、一人で食事を進めた朝だった。




 結局、午前中もお昼も一人で過ごした。

 いつもは茨沢さんが一緒にいてくれるのに、今日に限って買出しで屋敷を出ていて夕方を回るまで帰宅しなかった。人見知りの私は他の使用人とは一緒にいるのが難しくて、必然的に一人で過ごすことになる。


 自室で読書を楽しんでいても、家族の出てくる場面を見ると途端に気持ちが落ち込んでしまい、続きを読むのが苦しくなる。


 屋敷の中と外を歩いて見ても、お母様の痕跡をふとした瞬間に感じて、寂しさに涙が出てきてしまう。

 始めは声を掛けてくれた使用人達も、私の悲しむ姿に感化されるのか次第に顔を合わせなくなった。


 段々と一人になっていく。段々と心が凍っていく。


 お姉様、早く帰ってきて。

 この屋敷に一人で過ごし続けていると、どうにかなってしまいそうだ。




 お昼を過ぎて歩くことに疲れた私は、自分の部屋に帰って来ていた。


 自室に戻って涙を拭った私は、お姉様が好きだった白雪姫の絵本を胸に抱えて、現実から目を背けるようにベッドの上で瞼を閉じる。


『もしもこれが御伽噺なら、夢から覚めれば全てが無かったことになるのに』


 そんな荒唐無稽な願いを抱きながら、私の意識は闇へと落ちていく。


 眠りの中で見た夢の内容は、暗闇の中をお母様の背中を追って歩き続けるというもの。どんなに願っても届かない、どんなに走っても届かない背中は、私の罪を象徴するのだろうか。


 眠れば全てを忘れられるなんて私の甘い考えは、嘲る様に打ち砕かれたのだった。




 目を覚ますと顔には影が落ちていて、沈む夕日が抱えた絵本を照らしている。

 痛いほどの夕焼けの光に顔を顰めて眠りすぎた後悔すれば、何処からかエンジンの音が聞こえてくる。


 きっと、お姉様が帰ってきたのだ。

 絵本を放ってベッドの上から急いで飛び上がり、スリッパを突っ掛けながら自室を飛び出し廊下を駆ける。縺れて何度も転びそうになりながら、息を切らせて階段を下りていく。


 お姉様に会いたい。その一心で玄関への扉を勢いよく開ければ、そこには疲れた表情のお姉様が靴を脱いで立っていた。


「ただいま、鏡花」


「おかえり、おねえさま!」


 嬉しさに思わず胸に飛び込もうと駆け寄るも、お姉様は受け入れようとはしてくれない。最近良く浮かべる澄ました微笑を浮かべながら、二人の間に壁を作る。

 スキンシップもあまりしてくれなくなった。時々頭を撫でてくれる位で、手を繋いだり抱擁してくれることは殆ど無くなった。


 心にチクリと痛みが刺すも、甘えることは本題ではない。ここに来た本当の理由は、お姉様に聞くことがあるからだ。


「……ねぇ、習い事をはじめたの?」


「うん、そうよ。これからは朝は早いし帰りは遅くなるから、鏡花もそのつもりでいてね」


 今日みたいな毎日が続くなんて、とてもじゃないが耐えられない。


「……やだ。さびしいのはきらい……」


「わがまま言わないで。再来年には学校もはじまるんだし、一人でも平気にならないとこまるでしょう? 鏡花なら大丈夫、ちゃんと一人でお留守番できるよ」


 緩く右手を握られて微笑まれると、文句を言うことが出来なくなる。お母様がいなくなった日のトラウマから、我侭を言うのが恐くなってしまったから。

 それに最近のお姉様は何処かお母様みたいに落ち着きを見せていて、直視し続けるのが辛いのだ。だから私は口を噤んで、言うことを聞くことしか出来ない。


「…………ぅん」


「そう、いい子ね」


 どうしようもなくて仕方なく頷けば、満足そうに頭を撫でてお姉様は屋敷の中に歩いていってしまう。

 一度も振り返らずに扉を出て行く姿は、無理をしているようにも見える。




 そこで一つの考えが浮かぶ。

 もしかしたら、私が無理をさせてしまったのだろうか……と。


 お姉様はもう私のことなんか好きじゃなくて、顔を見るのも嫌なのかもしれない。

 習い事は口実で、無能で泣き虫でいつも寄り掛かってばかりの私に愛想を尽かし、理由をつけて屋敷から離れたいのかもしれない。


 私はもう、お姉様には愛されていないのかも……


「…はっ……はっ…………ふっ……ぐ、うぅぅ……!」


 呼吸が乱れる。鼓動が暴れる。涙が溢れてしまうけれど、どうにか我慢しようと唇を噛み締める。


 泣くな、泣いたらもっと嫌われる。ダメな私を克服するために、涙を流すのはもうやめろ。

 痛い、心がひび割れるように痛くなる。それでも我慢しろ感じるなと言い聞かせて、両目を手で押さえて壁の側に腰を下ろす。

 でも、辛くて痛くて仕方なくて、思わず声が漏れてしまった。


「………………つらいよぉ、おねえさま……」


 小さな私の言葉に応える人はいない。

 メイドにその場を見つかるまで、玄関で泣き続けるのだった。






 あの日私は信じてしまった。

 不気味で異質な自分は誰にも愛されていないという、馬鹿げた自虐的考えを。


 その疑惑が私の心に皹を入れたまま、日常は変化していく。




 一人ぼっちの生活が日常になり、諦めるように慣れていく。お姉様もお父様も徐々にいない時間が増えて、寂しく冷たい屋敷の空気は変化する事が無い。


 時間が経ち、お姉様の学校が始まった。

 学校生活と習い事でより一層すれ違うようになった私達は、自ずと関係も薄れていく。それはとても寂しい事だけれど、彼女に嫌われる位なら傷つく方がマシだ。


 暫くして屋敷には使用人が増えて、人見知りの私にとっては肩身の狭い毎日が続く。

 知らない顔の人物に突然話しかけられるのは恐くて、自然と自室で過ごす事が多くなった。抑圧された生活は私の心を追い詰め、より強い殻に篭もるようになった。


 相変わらずお父様はあまり顔を見せない。

 悲しみを忘れようと仕事に打ち込む毎日故に、会食等も増えた事から食事を共にすることは殆ど無くなった。偶に顔を合わせても、その冷徹な表情が恐ろしいのに瞳だけはどこまでも悲しげで、見ていられずにお互いに顔を逸らしてしまう。




 そして私は心を隠して、不気味な幽霊のように暮らすようになった。

 隠れるように食事や入浴を済まして、人目を避けるように屋敷を歩く。お姉様に会えるのも大概が夜だからと、日中は自室に篭もることも少なくない。


 時間に置き去りにされた部屋の中で、幸せな頃を思って過ごすのだ。

 お姉様の痕跡を胸に抱いて、今も静かに眠りにつく。




 そうして家族の絆は壊れたまま、二年の月日が流れた。



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