煙草を一本

片宮 椋楽

煙草を一本

「一本くれるか」


 声をかけてきたのは、見ず知らずの男。名前も生まれも好きな物も何も分からない奴。


 俺は草むらに背をつけ、自然と向いていた空を眺めていた。呆然と、けど綺麗だということは認識していた。冬だからだろう、空気は澄み遠くまでよく見える。

 折角の景色。なのに、この男は空と俺の間に顔を入れやがった。


 酷く腹を立てる。こいつは、俺が今星空を眺めているというのにお構いなしか。相手の気持ちを察するということを知らないのか。言葉だけならまだしも、行動まで伴うと湧き出る苛立ちは倍増どころじゃない。それこそ、殺意さえ。


 俺は酷く寄った眉を気にすることなく、眼鏡の位置を整えた。


「なんでお前にあげなきゃいけないんだよ」


 欲しているのが煙草だということはすぐ分かった。俺が口の端でくわえているブツを鬱陶しくちらちらと、羨ましそうに目線を向けてきたからだ。

 男は背を伸ばし、俺のすぐそばで腰を落とした。


「お前ってさ」


 男は焦げ茶の革手袋を外し始める。

 普通はいきなり本題に入ることはないじゃないか。初対面の人間にはまず名前を聞くことからじゃないか。まあ、この際どうでもいいが。


「神様信じるか?」


 そう唐突に言いながら、手袋を外し始めた。高そうな黒い革製。

 反面、ロングコートやズボンは所々余った布で継ぎ接ぎされ、見窄らしいのに。

 まるで高級スーツに身を包むビジネスマンがそこらのベンチで居眠りしている時に手袋だけ盗んだかと思うぐらい高そうなものだった。


「あ?」俺は男に目線を向けた。


「神様。ゴッドだよ」


 外し終えると、綺麗に折り畳み、コートのポケットにしまった。


「神様はこういう小さなことも見てんだよ」


 子供に叱るようなフレーズを男は吐く。


「何を言いたい?」


 男は両手に息を吹きかける。暖めるように手を擦る。


「ケチケチするような奴は天国には歓迎されることはないって話。ほら、神様にも太っ腹な人多いだろ? 布袋様とか大黒天様とか」


 それは太っ腹ではなく体型だろう、と喉元まで出かかったが、ぐっと飲み込む。代わりに、視線を逸らして息を吐いた。深く長い呆れの溜息だ。


 仕方ないか。俺はコートの内ポケットから箱を取り出す。蓋を開ける。

 奇しくも、最後の一本。またも苛立ちをおぼえる。この上ない皮肉、癪だ。癪以外の何ものでもない。

 どうやら神様は悪戯好きか、おっちょこちょいか、俺が嫌いかの三択だろう。

 だが、渡すと決めた以上は引っ込められない。せめてもの抵抗で、俺は男の方を見ず、適当に腕を伸ばした。


「ん」


「あんがと」男は少し声を高くし、つまんで、早々にくわえた。


 煙草は煙草だけじゃ、煙草の意味はない。要するに、煙草には永遠のパートナーの火が必要ということ。

 俺は空箱を握り潰しながら、ズボンのポケットに手を入れた。マッチ箱を取り出すためだ。


「ああ、大丈夫」男はおもむろに手を開いて見せてきた。中には紫色の百円ライターが握りしめられていた。そっちは持ってる」


「あっそ」


 しまうのが面倒だから、そのままあげようとも考えた。俺はもう使わない。使うことはない、絶対。

 俺は潰した煙草の箱と一緒に、地面へ投げ捨てた。腹いせだ。


 男は先端に火をつけると、目を閉じてゆっくり深く吸い込んだ。しみじみと味わっていた。


「ふぅー、やっぱり仕事の後の一服は最高だな」


 ドラマや小説でよく聞く、いや聞いてきたはずの台詞。だがまさか、現実で、しかも俺に向けたモノを聞くとは考えもしなかった。神様が皮肉っているかのよう。


「そうかい。人から奪って吸う煙草が旨いなら何よりだよ」


 言わずにはいられなかったのは、ほぼ奪うに近い状況だったからだ。


「おいおい。俺ぁ君から許可を貰って、君から直接手渡されたんだ。奪うとは雲泥の差だ、全然違う。人聞きの悪いこと言わないでくれ」


 こんなことしておいてどの口が言ってるんだ、苛立ちを超えて怒りが脳裏をすざまじい早さでよぎる。けど、こんな奴に何言っても無駄な気がした。気だ。ただの予想。少し悟りに寄っているだけで、あくまで予想。


 禅問答と無理矢理の納得を混ぜた問いかけを消化するため、俺は煙と一緒に身体に吸い込んだ。


「ま、くれた礼に少し答えてやるよ。聞きたいことは何かあるか」


 特にないよ——そう吐き捨てたかった。最期ぐらい格好つけたかったのだ。けれど、気持ちも弱くなっているのだろうか。単純にひどく興味が湧いたからだろうか。正直に尋ねることにした。力なく首を男へ傾ける。


「なんで俺がここにいると?」


 男の煙草の吸い方はなんとも独特だ。顎を少しばかり突き出し、夜空に向かって吐き出していた。


「決まってるだろ。調べたんだ。徹底的に調べ尽くした。その中で、あんたがやってるSNSに、夜中ランニングするのが趣味だという投稿を見つけた」


「だが、どの公園を走っているかは書いていないはずだ」


「投稿している写真から探ったんだ。背景に写り込んでる看板や景色を調べて、特定したんだよ。あんた、曜日ごとに走るところ変えてんだね」


 思わず鼻から笑いが溢れる。「ネットっていうのは怖いねぇ」


「便利は時に不便ってやつよ」


「そんなんで、俺は……」


「あんた、こうなった心当たりはないか」


 男からの唐突な問いだった。


「それは今こんな状況になったことへの、か?」


「それ以外に何がある」


 淡く白い煙が昇っていき、姿を消す。


「……あるよ。溢れる程にな」


「なら、最も可能性があるものは?」


 俺は早くなる呼吸を煙草で吸い込む酸素で抑えようとした。だが収まらない。


 親友にも両親にも妻にも、誰にも言ったことのない秘密。墓場まで持っていくつもりだったのに。見ず知らずの相手に罪を告解する場、ここはまるで懺悔室だった。

 扉のついた二つの木製の個室。中には小さな椅子がある。間を仕切っている壁には格子のついた小さな窓があり、互いの声が聞こえる。それが懺悔室。本来は教会の中にひっそりと設けられている。


 今は何も隠すものも隠してくれるものもなく、全てが開けっ広げになっている。少し抵抗はあったが、無宗教の自分にとって、これが最適なのかもしれない。


 静かにゆっくりと吸い込む。喉元に煙の熱が当たり、眉間に皺が寄る。


「殺しだ」


「は?」


 男はなんとも不思議そうに、眉を高く上げていた。


「何人もの人間を社会的に殺してきた」


「ああ、そっちか」


 自身の勘違いをほくそ笑み、男はまた煙草をくわえた。一呼吸置く。


「俺の仕事は、火のないところに煙を立たせ、時に山火事を起こす。目の上のたんこぶな人間に、社会的信用を失くすようなことを広める。あることを大袈裟に、ないことはでっち上げる。時には起こさせるようにこちらから仕向ける。理由は聞かず、ただ誰が誰を陥れたいか、それだけ」


「どんな奴らに?」


「大企業の社長に政治家、人気芸能人に、最近はユーチューバーとかいう奴らへにもあったよ」


「高そうなスーツ着て、高そうな時計つけて、高そうなメガネを掛けてるのはその報酬って感じか」


「大体合ってるが、ひとつは違う。メガネだけは安物だ」


「幾ら?」


「五千円切ってる」


「おっ、そうは見えない。良いのを選んだな」


 掴みどころのない奴だ。申し訳なさと恥ずかしさが共存した表情で、男は頭を掻いていた。


「けど、良い金を貰っていたのは事実だ。高給取りってのは、仕事にリスクがあるのが世の常。恨まれるリスクを冒してた俺なら尚更さ」


「だからか、どこか達観してるように見えたのは」


「ロクな死に方しないとは思ってたからな」


 俺は深く吸い込む。煙草の先が赤く灯る。


「無理を承知で聞くよ、誰が仕向けた?」


 男は煙草を口から離し、鼻から白い煙を一気に吐き出した。「誰?」


「気になるのか……なんて聞くのは野暮か」


「報復だってのは察しがついてる。だが、数が多くてよ」


「あー、そういうことか」


 虚空を見ながらそう呟くと、男は俺をじっと見てきた。


「あんた、既婚なのに会社の女と不倫していただろう」


「よく調べたな」感心半分、恐怖半分。


「仕事だからな」


「だが、それと何の関係がある?」


「急に鈍くなったな。いいか、奥さんは不倫に気づいていたんだよ」


 端的な答え。だが、何を言いたいかは全て伝わった。


「まさか……」


「そうだよ」


 俺は鼻を鳴らし、一笑した。不思議と込み上げてきた。腹を動いたからか、突然に痛みがやってきた。厭な痛みだ。

 貫くような鋭さと静かに増していく鈍さが同時に襲ってきた。もうナイフは男のポケットにしまわれて無い筈なのに。まるでまだ刺さったままかのよう。

 心臓が脈打つような感覚。どくどくと流れる真っ赤な血。服の背中側や辺りの雑草は染まっている。


 一度に多量の血液が出ると、ショック死すると聞いたことがある。呼吸が早くなり、動いていないのに汗が止まらない。初めての経験だが、その状態に近付いているのだと感じる。

 細胞達は止めようとしてくれているが、追いつかない。もう不可能だ。それはまるで……そうだ、これこそ山火事のようだ。誰にもどうにも出来ないところまで来ている、消えることを待つしかない山火事。


「全部分かったと思ってた。けど、何も分かってなかった。一番近い人間の殺意さえ気づけなかったんだからな」


「そう肩を落とすな」男の煙草を一瞥すると、もう半分になっていた。「男というのは鈍感な生き物なんだからさ」


 苛立ちがまたも芽生えてきた。


「そうだな。お前も鈍い。感情が鈍い」


 皮肉を込めた言葉で、俺は続けた。


「静かに近づいて、ぶつかってきたかと思えば、隠し持っていた折り畳みナイフを腹に刺しやがった。俺がナイフを見てからだったよな。お前は内臓に届くようさらに深く押し込んで、その上円をかいて肉を抉った。くり抜こうとでもしたのか?」


 男は顔を俺に向けてきた。片眉は不機嫌そうに曲がっていた。「鈍いってのはそのやり方がえぐいからか?」


「それも勿論だが、何よりお前の顔にさ。全く表情が揺らいでなかった。躊躇いなど一切なかった。イカれてるよ。間違いない。お前はサイコパスだよ」


 男は微動だにせず、「死にかけなのによく喋るな」とだけ言って、前を向いた。そして、静かに一服。


「お前、朝起きて、眼鏡を手に取る時、何か考えるか?」


「は?」


「考えないだろ? なんとも思わないだろ? 辺りを見るという目的を達成するだけのために、何も考えず行動する。あんたも含めて、俺には何の影響も無く、何の不満も無い全くの赤の他人だ。だが、依頼という目的を達成するために続けていれば、何も考えずに殺れるようになる。元からサイコパスなんじゃない、次第におかしくなっていくだけなのさ」


 少しばかり沈黙が流れた。破ったのは俺。


「おかしいっていう自覚はあるんだな」


「俺も人間だ、良心ぐらいはある」男は親指と人差し指を限りなく近づけた。「ほんのちょびっとだけな」


 俺はまた空へと顔を向けた。溜息に煙草の煙が混ざり合い、出ていく。


「いつまでいるんだ?」


「なんだ、そばにいちゃ嫌……いやまあ、そりゃあ嫌か」


 自覚はあるようだった。


「嫌だが、それ以上に不思議なんだよ」


「何が?」


「人を殺したらすぐに逃げるもんじゃないか。それが常套だろ」


「仕方ないだろう。死んだことを確認して、依頼主に報告しなきゃいけないんだ」


「刺して殺すだけじゃないんだな」


「どんな仕事も事前準備と事後処理がある。隣に座っているのも仕事の一環さ。それに、刺すだけじゃないぞ。殴る時もあれば轢き逃げる時もある。駅のホームから突き飛ばすなんて時もある」


「人身事故の何割かはお前らのせいか」


「朝の忙しい時に迷惑をかけてることは重々理解してます」


 鼻から嘲ける息が出た。


「最後に教えてくれないか。お前の名前は何……」


 言葉が出てこず、代わりに咳が出てきた。痰の中に血が混じっているのを感じた。俺は顔を横に向け、地面に吐き出した。


 再び空を見上げ、残っている力で煙草をくわえ直す。だが、口元から零れ落ちた。もう身体に力が入らなくなっていたのだ。地面に転がった煙草の火が雑草に燃え移り、小さな灯りと青臭い匂いを放つ。


「そろそろだな」


 男は立ち上がり、見下ろした。その表情には、悼みの感情が微かに投影されていた。


「安らかにな」


 男は背を向け、歩き出した。


 次第に姿が闇に溶け込んでいく。俺はその後ろ姿をただ見つめることしかできなくなっていた。


 重くなる瞼。遠ざかる意識。もう抗わない。抵抗などは無意味だ。


 雑草の燃える匂いと熱を感じながら、俺は静かに目を閉じた。

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