第9話 支度①

 天野楓あまのかえでは近頃、日々の業務に忙殺されていた。綾乃あやのと約束した映画の公開日が刻一刻と近づいている中、日常業務が普段の倍となりなかなか書店にも顔を出せずにいた。


(どうしてこんな時に……)


 焦る楓であったが、業務は待ってはくれない。仕事漬けの日々に追われ、気付けば映画の公開日はとうに過ぎていた。

 しかし休日返上で働いていたお陰か、楓は何とか仕事に目処めどを立て、綾乃が働いている大型書店へと足を運ぶことが出来たのだった。


「いらっしゃいませ!」


 書店に入った楓は、いつもの通り自分を迎え入れてくれる声に違和感を覚えていた。


(あれ? 沓名さんじゃ、ない……?)


 しかし声質は綾乃のもののように感じた。何だかいつもより明るい声音のように感じる。楓は急いで声がかかったであろうレジへと顔を向けた。しかしいつも誰かいるレジは今回もぬけの殻だ。


(何だったんだ……?)


 疑問符を浮かべながらきょろきょろと辺りを見回していた楓の背後から声がかかる。


「こ、こんばんは」


 恐る恐ると言った風で声をかけてきたのは、沓名綾乃くつなあやのであった。楓は驚いて言葉が口をつく。


「あれ? 沓名さん、今って……」

「休憩中です」


 にっこりと破顔する綾乃に目を見張る楓は、紅潮する顔を見られないようにそっぽを向いて口を開いた。


「ここでは何ですから……」


 そう言って綾乃を外へと連れ出す。外は薄暗くなっており遠くで夕日が赤く燃えている。生ぬるく湿った風を頬に受けながら、楓は1つのことに気付いた。


「そう言えば、ちゃんとした自己紹介はまだ、でしたよね。天野楓です。不動産会社の経理をしています」

「あ、あの、沓名綾乃です」


 自然と自己紹介が出来たか不安になっていた楓だったが、後から綾乃も倣って自己紹介をしてくれる。そして綾乃は後ろを振り返り、今まで自分が居た書店を指さすと、


「あの書店で勤めています」


 おずおずと言った風で自己紹介をした綾乃の言葉のあとに、なんだか気まずさとも違う気恥ずかしい空気が流れる。それを誤魔化す様に楓は口を開いた。


「なんだか、改めて自己紹介をすると変な感じですね、沓名さん」


 そして今まで業務が忙しく、なかなか書店へ顔を出せなかったことを話す。しかし今日から通常業務。心配はいらない。そんな話をしていると書店近くの公園へと到着した。

 楓は自然な仕草でベンチの埃を払うと、そこへ綾乃を誘導した。


「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 綾乃は少し照れ臭そうにそのベンチへと腰を下ろした。そんな綾乃の様子に高鳴る鼓動を隠すように、楓は極めて冷静さを装って隣に座る。

 いよいよ映画に誘うという瞬間、楓の心臓は口から飛び出るのではないかと言うほど緊張でバクバクしていた。こんなに緊張したのはいつ振りだろうか。過去、自分を誘ってくれていた先輩たちもこんな気持ちだったのだろうか。

 断られたらどうしようか、自分の休みと綾乃の休みが合わなかったらどうしようか。

 様々な思いが交錯する中、楓は意を決して口を開いた。


「あの、この前お話した映画ですが。来週の水曜日か金曜日で都合が合う日はありますか? 僕、休みがそこしかなくって……」


 楓の言葉を聞いた綾乃が押し黙る。楓にとっては永遠とも感じる沈黙を、綾乃は思案顔で破った。


「金曜日なら……」


 その言葉に胸につかえていた不安が一気に解消された楓は、自然と笑顔になる。声も自然と弾んだものになった。


「良かった! 休みが合って!」


 その声を聞いた綾乃の顔がほころぶ。嬉しそうにそうですね、と返してくれるのだった。楓は前々から考えていた待ち合わせ場所と時間を綾乃に告げる。


「じゃあ、13時に映画館のあそこ……、上映時間が書かれている看板の前で待ち合わせましょう」


 楓のその言葉に綾乃はゆっくりと頷いた。映画に誘うだけだと言うのに大分時間が経ってしまったような気がする。綾乃の休憩時間がそろそろ終わるだろう。


「では、戻りましょうか」


 大型書店への帰り道、楓は綾乃と一体何を話していたのか良く覚えていなかった。ただ覚えているのは、スカッとした気分と、デートの誘いが上手くいったことへの喜びだった。

 高鳴る鼓動が綾乃へ気付かれないように隠すのに必死だった。長いようで短い送りの時間、それは楓にとっては至福の時間になっていた。

 書店に到着した2人は自動ドアの前で別れの挨拶を交わした。


「じゃあ、来週の金曜日、映画館で」


 楓は自然とにやけてしまう顔を隠すことも出来ずに弾んだ声で挨拶をする。そのままきびすを返すと軽い足取りで帰路へと着くのだった。




 翌日の仕事終わり。

 楓は珍しく綾乃がいない別の書店へと足を運んでいた。そこで楓が手に取ったのは、普段手に取ることがない雑誌だった。少し緊張した足取りで普段手にしないメンズ雑誌をレジへと持ち込む。

 店員は慣れた手つきでそれを手渡して、無機質に、


「ありがとうございました」


 それだけ言うと楓のことを見ることもせず、自分の業務へと戻っていくのだった。




 帰宅した楓は買ってきたばかりのメンズ雑誌をペラペラとめくる。雑誌の見出しには『モテる男の持ち物』とデカデカと踊っていた。

 ハンカチ、リップクリーム、臭い対策のアイテム、そしてグルメ情報アプリなんかが連なっている。

 楓は何の気なしにそこに書いてある文章に目を通していた。


 そして『いい男の定義』と題されたページに入る。

 その内容に楓は愕然としていた。なんだかどれも幼稚であまり参考になりそうにない。そもそも、こんなものに頼らなければならない自分自身が惨めに感じてしまうのだった。

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