去る者、留まる者

僅かに空いた二十七番のドアの隙間からバイク雑誌を熟読している倉柳さんの背中が見えた。手の届くに位置には件の安物の財布がある。まるで背後に注意を払っていないように思えるが、本当に盗まれた時に気が付くのだろうか?戦国時代の剣豪、塚原卜伝には武蔵の不意打ちを鍋の蓋で防いだとかいう逸話があった様な気がしたが、倉柳さんはどうだろう?試してみたい衝動を抑えて、清掃がまだされていないブースへ向かった。

 最初の十五番は見事に片付いていた。次の十六番はグラスが一つ。これも悪くない。しかし三つ目の四十番がひどかった。ブランケットが一枚、グラスが二つ、コーヒーカップが三つ、雑誌が五冊、超人的な強さの親子が主役の格闘漫画が三、四十冊、そして何に使ったのか知らないがトイレットペーパーが無造作にパソコンの横に置かれていた。これだけの量の物がブースにあると往復をしなければならない。一旦全ての物をドリンクバー横の空いているスペースに置くと、階段から休みのはずの星君が降りてきた。

「あれえ、どうしたの?」

「実は家のネットがトラブルで使えなくなっちゃって。それでここに来たんです」

「ネットが使えないのは痛いね。まあ好きに使っていきなよ。ちなみにどこ?」

「三十四です」

「了解。ちなみに今も倉柳さんいるから」

「囮作戦ですか。頑張ってますねえ」

「うん。でも傍から見るとまるで周囲に気を配っているように見えない」

「はは」

「じゃあゆっくりしていきなよ」

「ありがとうございます」

 星君を三階に残して、まずは大量の格闘漫画を両手一杯にして階段を上っていった。受付で大きな欠伸をしているオガが視界に入った。僕を認めると小走りで側に寄ってきた。

「うわ、めちゃ大量ですね」

「そうなんだよ。まだ下にブランケットやらグラスやらいろいろあるし」

「まじすかー。俺、下に行きましょうか?」

「いや大丈夫。その代わりにこいつらを本棚に戻しておいて」僕はそう言って両手に抱えている漫画をそのままオガに受け渡した。

「頼んだ」

 残りのブランケットなどを片付けるために再度三階へと降りた。残りの物を上に持って行く前にもう一度倉柳さんの様子を伺いたくなり二十八番の側へ行くと、倉柳さんはヘッドホンを付けてネットでサッカーを観ていた。

 倉柳さんが塚原卜伝なのかを判断するため試しに大きな咳をしてみたが、倉柳さんは何事もなかったようにディスプレイに映る往年のサッカー選手のスーパープレイ集を眺めていた。僕は二十七番を離れるとブランケット、グラス、コーヒーカップを手に階段を昇った。四階ではオガがまた大きな欠伸をしていた。


 洗濯を終えたバスマットを両手に抱え階段を降りると、遅番のラブと鉢合った。

「あ、慎さん、おはようございます」

「よう、目覚めた?」

 今朝中番遅番の通し勤務を終えたラブはそのまま新宿でバンドのミーティングを行い、今後の方針についてじっくりと他メンバーと話し終えると、その足でまた正午過ぎ、ほーむにUターンをして戻ってきたらしい。シャワーを浴びると「もう学校や家には帰りたくない」と意味不明なことを語った後、つい先ほどまで二十九番で仮眠をとっていた。

「もう今日の遅番までここにいますわ」時刻は十九時前。新宿からラブが住む高津までの往復の時間を考えると、特に自宅に用事がない限りこのままここに留まる方が賢いだろう。

「やっぱ家のベッドと違って熟睡はできないっすね。久々にここでがっつり寝たけど、なんか体痛いわ」ラブが体を伸ばしながら言った。

「本当それ。俺も短時間ならまだしも長時間寝るとやっぱ辛いよ。二十九みたいな手足がちゃんと伸ばせるとこだとまだマシだけど、狭めのフラットでよく寝れるよな」大西さんが大きく頷きながら同意をした。

 ここほーむ新宿店は各ブースのレイアウトの関係上、ブースの広さに偏りがある。広めのフラットシートの三階の二十五番、二十八番、二十九番、五階の七十番、七十四番などは僕たちスタッフが休憩中に好んで使うブースだ。僕たちが休憩中に使いたいがために休憩に入る少し前にそれらのブースを“清掃中”にして“予約”することもあるが、「ここって何で清掃中になってるの?今誰もいなくない?」と倉柳さんに疑いの目を見られて以降、その行為は慎重になっている。また常連にはこの広いフラットシートを希望する者も多く、焼き鳥などはお気に入りの二十五が埋まっているため他のブースを使用する場合でも、二十五が空いたら案内をするよう必ず入店時に要請してくる。

「そんなことよりですね、面白いことがあったのです」ラブがにやりとして語り出した。

「俺が二十九番使ってたじゃないですか。その時にちょうど真上にあるライトが眩しくってなかなか寝付けなかったんですよ。だからわざわざ受付まで行って段ボールとガムテープ借りてきて、眩しくならないようにライトの部分だけ塞いだんですよ。それで面白いのが、ついさっき起きたら隣の二十八番の奴も伝票を使って俺と全く同じようにライトを塞いでるんです。いやあ、文化ってこのようにして広がっていくんだなって思いました」

 その光景を思い浮かべると確かに面白い。

「では俺は新宿の有象無象を相手にやる前にちっと腹ごしらえしてきますわ」ラブはそう言うとエレベーターで下へ降りていった。

「来た時はずいぶんと悲観的だったと聞いたけど」

「うん、いつものラブでしたね。あいつはこうでなくちゃ」

「あれ、そう言えば今二十九番使ってたって言ってたよな」

 大西さんが急に思い出したように言った。

「ええ。でもそれがどうしたんです?」

「二十九ってあのカップルがずっと使ってたブースじゃなかったっけ。ほれ、ジョンとヨーコ」

「あ…そう言われれば確かに昨日今日見ていないですね」

「いつから居なくなったんだろ。俺が入った四日前の早番は居たけど」

「あ、そう言えば三日前モハメドが盗まれた時はもう居なかったですね。そうなるとあいつらも少なくともモハメドの件に関しては容疑から外れますね」

「オガも最初ジョンに盗まれたと思ってたんだろ?」

「ええ。結局間抜けにも自分で持っていたわけでしたが。ジョンがブースに戻るまでにオガの捜索が間に合わなかったらと思うとぞっとしますよ」

「うむ、これで犯人の候補が減ったね。しかしジョンとヨーコも遂に巣立ちかあ」

 そんな会話をしていると見覚えのあるシルエットが受付へ近付いてきた。常連、逃亡犯のお帰りだ。

「ありがとうございました」

 今日はトレードマークのヤクルトのキャップをしていない。

「もちろん留まり続けるものもいるわけだが」

 逃亡犯の退店処理をした後大西さんが呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る