盗難事件再び

 三階から上ってきたのはモハメドだったが、その日はいつもと様子が違っていた。

「あの、財布無くなった」

 モハメドの口から出た言葉を聞いた瞬間、僕は自分の運の悪さを呪った。


「慎さん、テレビ局の人とかが集まる飲み会があるので、早番と中番交代してもらえませんか?こういうのが売れないアイドルにとっては大事なんですよー」と莉奈から電話があったのは昨夜のこと。夜に用事があるわけではなかったので「いいよ」と二つ返事で申し出を引き受けたのだがよりによってこんなことになるとは。


 財布を盗まれたと言うモハメドを目の前にしばらくの間何と答えるべきか考えたが、結局大した言葉は思い浮かばなかった。

「大変申し訳ございません、警察をお呼び致しますか?」

 言った直後、この様な場合僕が謝るべきなのだろうかと少し疑問に思ったが今更遅い。

「警察必要ない」モハメドは苛立たしく唱えた。

「店長、呼んで下さい」

 僕たちの答えを待たずモハメドは更に続けた。

「偉い人呼んで!」とモハメドは声を張った。

「わかりました。少々お待ち下さい」そう答えるとトランシーバーで五階で清掃をしている星君を受付に呼び戻し、オガを後にして店長室へ向かった。

 店長室のドアをノックすると中から「いいよ」と返事があったのでドアを開けた。

「どうした?」店長室では倉柳さんがエクセルで何やら入力作業をしていた。

「実はまた盗難事件が起きたようで」

「ええ!?」

「はい。しかも盗まれた人が店長を呼んでと言ってるんです」

「うわあ、まじかよー」

 倉柳さんは露骨に嫌そうな顔をした。

「もしかしたら倉柳さんも見たことあるかもしれませんが、中東系の常連の人で」

「はいはい、見たことあるわ」

 倉柳さんは眉間に皺を寄せた。

「それでどうします?」

「うんじゃあ俺も行くわ」そう言うと倉柳さんは椅子から立ち上がり店長室を出た。

「そのお客さんどんな感じ?」

「怒ってるというか困ってるというか、みたいな感じですね」

 受付に戻ると星君とオガがカウンターを挟みモハメドと無言で向かい合っていた。倉柳さんはモハメドの近くまで行き、

「私店長の倉柳と申します。とりあえず上の階に事務所がございますので、お手数ですがそちらまでお願い致します」と丁重な挨拶をして、モハメドを連れて五階の店長室に向かった。

「まさかモハメドが被害に遭うとは」

 重圧から解放されたオガがため息をついた。

「慎さんから呼ばれたから何かと思いましたよ」

 そう答えたのは星君。星君が犯人のわけはないのだが、大西さんの話を聞いた今となっては変な考えがどうしても頭をよぎってしまう。

「モハメドって今日も基本料金?」

「ええとそうですね」パソコンを操作したオガが答えた。

「どうします、一旦清算した方がいいですかね?」

「うーん、財布ないならどうせ払えないしな。というかもともと持ってなかったっていう可能性はないのかな」

「さあ…」星君とオガが声を揃えた。

「とりあえず倉柳さんをもう少しだけ待ってみるか」

「倉柳さんがぼこぼこにされてたりしないですよね?」

 オガが恐ろしいことを言い出した。

「それは…いくらなんでもないだろ…そもそもなんで倉柳さんが犯人になってるんだよ」

「でも万が一っていうこともありますし」

「おいおい、怖いこと言うなよ」

「じゃあ僕店長室の前で待機してましょうか?五階のドリンクバーの清掃も途中ですし」

 そう言うと僕たちの返事を待たずに星君はダスターと消毒用エタノールを掴むと、事も無げに五階へと向かった。

「星さんもまとめてぼこぼこにされたりしてたらどうしよう」

「モハメドどんだけ凶暴な奴なんだよ」

「外国人ってやっぱ怖いですよ」

「オガ、あまり偏見は良くないぞ」

 そんなオガの妄想を裏切るように、十分もしない内にモハメドは倉柳さんと共に五階から降りてきた。

「ではまたお待ちしております」倉柳さんは頭を少し下げながら言った。

 モハメドは無言で頷きエレベーターに乗り込んだ。エレベーターのドアがしっかり閉まったのを見届けた後、モハメドの伝票を片手に倉柳さんに尋ねた。

「とりあえずこれ清算してもいいですか?」

「もちろん」

 返事を聞いてすぐにバーコードをスキャンした。料金は四百円。

「何話したんですか?」

「大したことじゃないよ。先ほどのお客さんが言うには『今回は財布にあまり入ってなかったから警察にはわざわざ届けないけど、またこんなことがあっては困るから対策をしっかりしてくれ』とかそんなことだね」

「え?警察届けないんですか?」

「うん、現金あんま入ってなかったらしい」

 モハメドはどうやら被害届を出さないらしい。

「てか思ったより日本語話せるんですね。俺片言かと思ってました」オガが感心したように言った。

「理解するのに多少気を使ったけどね」

「彼が最初から財布を持ってなかったということは?」

「さあ、それは知らないよ。でもいつもしっかり払ってたんだろ?それならその可能性は低いんじゃない?」

「そうですね」

 倉柳さんはしばしの沈黙の後「いよいよなんとかしないといけないな」と言い、再び五階の店長室に向かっていった。

 僕とオガは思わずお互いに顔を見合わせた。


 モハメドが被害に遭ってから一時間ほど経った頃、犯人の有力候補の一人パンクロッカーが三階からやってきた。料金七百円を支払い、店を後にする。

「あいつ今日も来てたのか」

「見ました?明らかに挙動不審でしたよ。絶対怪しいです」

「入店時間は今から一時間半くらい前だから、モハメドが財布を盗まれた時にはここには一応居たことにはなるな」

 オガは受付の窓ガラスから外を覗いている。「あ、出てきた」

「どこ?」僕もオガの横に並んで、パンクロッカーを目で探した。

「あそこです。今、信号待ちしてます」オガの指の先には信号待ちをしている人の群れがあった。その中にパンクロッカーの姿を見つけた。

「いた」

「あ、なんか財布っぽいの出してますね。あれ、本当に自分のものか」

「でもすぐ仕舞ったね。一体何がしたかったんだろ」

「盗んだ財布にいくら入っているか確認したかったんじゃなかったんですか?」

 オガは早くも犯人と決め付けているようだ。パンクロッカーは人混みに紛れたまま新宿駅の方へ向かっていった。

「でもちょっと前に陸奥宗光似のサラリーマンが被害に遭った時ってあいついたのかな?」

「うーん、どうですかねえ。その頃はあいつそんなに疑われてなかったし」雑誌を陳列している星君が小首を傾げた。

「そう言えば倉柳さんってあいつのこと知ってるんですかね?連絡ノートに書いてあったことちゃんと読んでるのかな」

「どうだろう、僕たちスタッフの書くことは読んでないことけっこうあるからね」

「俺はやっぱりあいつが怪しいと思うんですよねえ」

「この間はジョンが怪しいって言ってたじゃないか、わざわざブースまで侵入してさあ。あの時は僕もヒヤヒヤしたんだぞ」

「あの時は財布がなくなったと思い気が動転していたんです。やっぱり怪しいのはパンク野郎ですよ。パンク好きな奴にろくな奴はいませんから」

「お前さあ…」

 オガはパンクロッカーが消えた後も夜の新宿を眺めていた。


 その日の帰路に先日加納さんに言われたことを思い出して、自宅に着くとマックの電源を入れた。

 メールを打とうとするもウォルナットの机から冷気が手に伝わってきてなかなかタイピングが進まない。やっとの思いでメールを完成させると送信をクリックした。


「加納さん


お疲れ様です。新宿店森永です。

もしかしたらお話伺っているかもしれませんが、今日また盗難事件が起こりました。

被害に遭ったお客様は中東系の外国人の常連の方で、十九時過ぎに入店しその後三十分ほどしてから財布が盗まれたのに気付いて受付にやってきました。

警察は呼ばなくていいから責任者と話がしたいとおっしゃったので、五階に居た倉柳さんに一旦受付に来てもらい、すぐにお客様と倉柳さんの二人で五階の店長室に向かわれました。

店長室に入ったお二人は十分ほど話をした後、倉柳さんに見送られお客様はお帰りになりました。

倉柳さんの話では今後の防犯対策をしっかりするようにと言われたそうです。

当然ですが倉柳さんに不審な動きなどは見当たりませんでした。

以上です。よろしくお願いします。


新宿店森永」


 パンクロッカーのことを書くか少し迷ったが、今の状態では要らぬ誤解を招くだけなので止めておいた。

 僕がメールを送信してから三十分後、加納さんから返信が届いた。


「森永君


お疲れ様です。加納です。

丁寧な連絡ありがとうございます。

倉柳に不審な動きがなかったと知り安心しています。

もしまた事件が起きた際にはお手数ですが、今回のように連絡をよろしくお願いします。


加納」


 僕は加納さんのメールを一読し、今日の事件をもう一度振り返った。

 仮に過去の全ての事件の時に倉柳さんがほーむ新宿店にいたとしても、今日の反応を見る限りではとても犯人だとは思えない。もし倉柳さんが犯人だったとしたらかなりの役者である。莉奈が偶然口にした複数犯説を耳にしてから、倉柳さんと星君が裏で繋がっているということも考えないわけではなかったが、今日の二人の様子を見る限りではやはりそれもなさそうだ。


 翌朝、遅番と早番の引き継ぎ時に倉柳さんは盗難犯を捕まえるべく新たな作戦の開始を宣言した。

「昨日のお客様の一件を受けて俺はこれ以上の被害は出せないという結論に達した」

 僕たちは次の言葉を待った。

「ダミーカメラを設置したり、注意を促す張り紙を貼ったりしたり、みんなにも暇な時に防犯の見回りをしてもらっているけど盗難は残念ながら続いている」

 僕は受付に集まっている遅番、早番の顔を見渡した。以前倉柳さんに指示を出された見回りを律儀に行っている者などこの場にはいなさそうだ。僕が知っている限り、ちゃんと見回りをしているのは川島さんと星君だけで、遅番もやっているとは到底思えない。僕自身も二週間くらいで止めてしまったわけだが。

「ということで俺は囮作戦を今日から開始したいと思う」

「囮作戦?」

「そう、囮作戦」

 倉柳さんが宣言した囮作戦というのは、倉柳さんが通常店長室で行っている事務作業をあえてブースの中で行い、通路からも見える位置に自らの財布を置くことによって犯人をおびき寄せようというものだった。

「だから当分俺は店長室で仕事せずに、その日によって働く場所を転々と変えることになる」

「財布だけ盗まれちゃったりしたら相当間抜けですよ」

「大丈夫だって。俺、危機管理には自信あるし、念のため財布には小銭と要らないカードしか入れてないから。この作戦のために財布もわざわざドンキで買ってきたんだよ。万が一、俺のゴヤールが盗られたら洒落にならないもん。ほれ」

 そう言って倉柳さんは財布をポケットから出した。見るからに安物だ。

「二千円しなかったぜ。もちろんしっかり経費で落とすけどね。中には俺の名刺がびっしり」

「うわあ。こんなもの盗んでも嬉しくないですね」

「ということで今日俺は三十番のブースで作業やるからよろしく。そこはお客様入れないようにしてね」そう言って倉柳さんはトランシーバー片手に三階へと降りて行った。

「慎君、どう思うよ?」大西さんが僕を見た。

「倉柳さんが決めた以上、僕らにはどうすることもできませんよ。モハメドの件がよほど効いたんでしょうね」僕は三十番を清掃中に変えた。

「その時ってやっぱり倉柳さんが怒ってたの?」

「うーん、怒ってるってよりは、大変なことが起きたなって思っていそうな感じですかね。やっぱり店長室でいろいろ言われたでしょうから。当のモハメドもそこまで怒ってる感じはしなかったですよ。まあ僕らが盗んだわけじゃないんで当然といえば当然ですが」

「なるほどねえ。今回は警察呼ばなかったかその点は楽だったでしょ」

「ええ。警察呼ぶといろいろと面倒ですからね」

「しかしなんであいつも届け出なかったんだろうね。まさか不法滞在してるとかじゃないだろうな」

「あり得なくもないですが、単純に煩わしかったんじゃないですか?モハメドはそこまで日本語が堪能じゃないから警察とか呼んでも盗難届けの手続きとか難しいでしょうし。金もあんま入ってなかったらしいですし」

「うんうん」大西さんは頷いた。「でもビザとかそういう大事なものが無くなったらどうするんだろう?」

「さあ。それはどっかに申請するんじゃないですか?大使館とか?」

「大使館ねえ。そもそもあいつ何人なんだろう?」大西さんが腕を組みながら言った。

「確かに。と言うか勝手に僕ら中東の人間って思ってますけど、そうじゃない可能性も十分にありますよね。アメリカに日系人がいるみたいに、見た目こそもろ中東って感じですが、国籍は日本であるかもしれませんし」

 うっすらと髭に包まれた褐色のモハメドの顔をぼんやりと思い浮かべた。国籍、職業はおろか彼の名前すら僕たちは知らない。勝手に“モハメド”と名付けて呼んでいるが、もしかしたら“佐藤”や“鈴木”が本名である可能性もあるわけだ。僕は改めてここの常連たちのプロフィールを包むベールの厚さを思った。

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