第31話 最後の審判
「分かってない。君たちは何も分かっていないね」
男は今も笑っていた。私たちに囲まれ、暗闇から引きはがされた今も、どこか優位を感じているのだろう。
不気味な奴だ。
「お前、いつまでニヤついてやがる」
「いいや。なんか、ヒーロー面して馬鹿が集まってきたなって思ってね」
鼻で笑い、ゆっくりと私を指さした。
「ただの暴力者のくせに」
「お前に言われる筋合いは無い」
「筋合いしかないさ。なんたって、僕は君の被害者なんだから」
これ見よがしに前髪を掻きあげた。その額には、うっすらと傷のようなものがあるように見えた。
「これ、君がつけたんだよ。痛かったなぁ」
男はその傷をなぞり、天音の方に振り返る。
「ほら、見て。この傷。これさ、あの女が昔、僕に竹刀で打ち付けてきて出来た傷なんだ。凄く痛かったんだよ。怖いよね、あんな暴力者」
「そんな傷、大したものに見えませんよ、大袈裟な」
「うん、じゃあ後で君にもつけてあげる。約束だ」
男はふと教室の時計を見た。そして困り顔を浮かべた。
「もうこんな時間か。僕も暇じゃないのに」
「ならさっさと天音を返して失せろ。お前の声を聞いているだけで虫唾が走る」
「それはこっちの台詞だよ。それとも、また僕を殴るのかい?」
つい拳に力が入る。今すぐにでもぶん殴りたい。奴の顔が涙でぐちゃぐちゃになるくらいに。
「でも……出来ないよね。そんなこと」
男が口角を不気味に吊り上げて微笑む。気の狂ったピエロみたいだ。
「君が殴れば、僕はその何倍も仕返しするよ? 君の人生を、徹底的に壊していく。家庭も崩壊させてあげよう」
男の言葉が見えない蛇のように、私の首に巻きついてくる。
少しずつ、確実に絞め上げてくる言葉が、私の呼吸を浅くしていった。
「えっと、猪川さん。あの小さい男の子は、何を言ってるの?」
私の隣で、高梨が素っ頓狂な声で言った。
その言葉に、男の眉間に皺が寄る。
「……僕は小さくない。それより、君は何だい? 暴力者の手下か?」
「え、全然ちがうけど」
場の雰囲気が分かってないのか、高梨は笑いながら答えた。
「普通は友達とか思わない? もしかして、あなた友達いないの?」
「……馬鹿な女は嫌いなんだよ、僕は」
「私も、背が小さい男の子はちょっと……ごめんね?」
男は舌打ちをすると、突然天音に振り返り、またその無防備な頬を殴った。
「お前が喋る度に、僕はこの女を殴るよ」
「お願いです……お姉ちゃんを返して!」
高梨と津田の後ろに隠れていた加奈が、一歩前に出た。
「お姉ちゃんをイジメないでください!」
「加奈、下がれ!」
「君は……あの時の子か」
男の表情が一気に明るむ。それを見た加奈は、一歩下がってくれた。
「あの時は邪魔が入ってごめんね。でも、もう良いよ。僕は君のお姉さんと仲良くなるから。君はとても素敵だけど、用無しだ」
「お前……ふざけるなよ……」
奥歯を噛みしめることしか出来ない。何歩か近づけば届く距離なのに、足が進まない。失う恐怖が拭えない。許せないのに、何も出来ない。
「僕……君のこと、嫌いだ」
呟いたのは、津田だった。
誰よりも声が震えていて、竹刀を構える手は今にも落としそうなくらい心もとない。
「君は……みんなに何をしてきたの……?」
「逆だ。僕は被害者だよ」
「じゃあ……僕が加害者になろうか……?」
震える声で、そう言った。
「おい、津田……」
「猪川さんも何かされたんだよね……天音さんも、妹ちゃんも、みんな怖い思いをさせられたんだと思う……」
震えながらも、その目には怒気を秘めていた。臆病な男が、必死になって戦おうとしているのだ。
「やめとけ、お前には無理だ」
私は津田の竹刀を掴み、勢いに身を任せそうな闘気を押さえつけた。
「無理じゃない……僕だって……男だ……守らないと……!」
「そういう事じゃない」
ここで、津田に竹刀を振るわせるわけにはいかない。
お前は、病院に家族がいるんだろ?
「あいつは、お前には仕返ししないだろうが、何かしてくる。危険すぎるんだ」
私の言わんとすることを理解した津田は、竹刀を持つ力を抜いてくれた。
「だから……その竹刀、私に貸してくれ」
「でも……それじゃ……」
津田は、私のことを気遣ってくれているようだ。陰キャのくせに、見せてくれる。
だが、こいつには背負うものが大きすぎる。
高梨には、これ以上余計にこいつと関わってほしくない。
加奈は、いち早くこの場から離れたいだろう。
天音は……今まで頑張った結果がこんななんて、私が許さない。
竹刀を受け取り、半年ぶりに構えた。
懐かしい、身体に染み付いた構えが、私の心を落ち着かせてくれた。
「君は……また繰り返すつもりか? 後悔しただろう。僕に竹刀を振るったこと。忘れたの?」
「忘れないさ」
一歩近づく。男の額に、汗が浮かんだ。
「も、もう一度殴ってみろ。本当に、君の人生を終わらせてやるぞ!」
「覚悟は出来た」
これ以上、こんな地獄に天音や皆を置いてはおけない。
「一緒に堕ちようぜ? クソ野郎」
振り上げた竹刀。高梨の自作らしいが、わけが分からないくらいに良く出来ている。これなら気持ちよく、脳天をかち割れるだろう。
剣の道に憧れ、進んできた私は、こうやってまた、邪道を進むのだろう。
でも、私はこれが正義だと思う。世間からどう思われようと、ここで何もしない方が自分を嫌いになる。
私のことを、私だけでも好きであればいい。
「さよならだ……」
「待ってください!!」
思考が止まった。覚悟を決めた竹刀が、刹那に生まれた躊躇に止められてしまった。
「私は……あなたに暴力を振るってほしくありません……!」
縛られたままの天音が、私の目をみて叫んだ。顔を赤く腫らし、女として最悪な顔になりながらも、それでも私に暴力を辞めさせる。
「お前、この期に及んでまだそんな綺麗事を……」
「あなたは、暴力が好きではないでしょう……?」
好きなわけ、あるかよ。
でも、ここで私が動かなきゃ救われないんだよ。
「嫌なこともしていかないと、救いたい物は救えねぇ」
揺らいだ決意を、再び固めた。
「お前だって、分かるだろ……?」
自分を犠牲にして、ずっと守ってきたじゃねぇか。
頑張ってきたんだろ? そろそろ報われろ、馬鹿野郎。
「私は、ただの我儘ですよ。猪川さん」
天音は私に微笑みかけた。その表情は、本当に慈愛に満ちていたと思う。
「我儘だから、あなたも救われてほしい」
そう言って、天音は男の方に顔を向けた。
「ねえ、あなたの名前は何て言うんですか?」
「僕は……いや、名前なんて言えない。君がまだ裏切る可能性があるからね。信頼も出来ない人間に、明かさないよ」
「そうですか、では、Aさんという事にしましょう」
天音は深呼吸をして、男に言い放ったのだ。
「お前、猪川さんに手を出してみろ。許さんからな」
内臓に響くような、低く重たい声だった。
誰も返事が出来ない。それくらいの迫力があった。男の表情がどのようなものか見えないが、少なくとも私は背筋に響いて鳥肌が立った。
あぁ、そうか。こいつは私よりも戦ってきたんだ。ただ正義を妄信した奴じゃない。本気で抗ってきたんだ。ルールの無い世界で、ルールを正そうと。守るために戦ってきたんだ。その貫禄が、この言葉にあった。
お前は凄い奴だ、天音。
男が生唾を飲んだ。
そして、引きつりながら強引に笑った。
「ははっ……急に何を言い出すかと思えば! そんな状態で、僕を脅す? 立場をはき違えないでもらえるかな?」
男は何度か操作を間違えながら、自分のスマホを画面を天音に見せつけた。
「君の写真は撮った。これがある限り、君は僕に逆らえない。それに言ったはずだ。『好きにしていい』と。それも、このスマホに録音させてもらったよ。予想外だったかい? 僕は頭が良い、用意周到だ。君らみたいな突発的な反撃じゃなく、計画的に戦うために趣向を凝らすのさ! 今ここで僕を殴っても加害者になるし、何もしなくても、僕が持っている写真や音声を使えば永遠に君たちを苦しめられる! もう、君たちは詰んでるんだよ!!」
男は急に語り始めた。何かに焦ったように、自分の手の内を晒したのだ。
天音に気圧されて、少しでも萎縮した自分が許せなかったのだろうか。
「ねぇ、小さい男の子さん」
男に声をかけたのは、高梨だった。
高梨は一言だけ、はっきりと尋ねた。
「あなた……何を企んでるの?」
「企んでる? それはちょっと語弊があるな」
男は勝ち誇った顔で高梨を睨みつけた。
「ここに誰か来ることは、すでに計画に入ってたのさ」
時計の長身が動いた。
途端に、男のスマホのアラームが鳴る。
そして、教室の扉が開いた。
「やぁ、待ってたよ」
男は駆け足で高梨や津田をすり抜け、扉へ向かう。
「これは……一体どういう状況なのですか?」
「あんた……あの時の……!」
見覚えがあった。
たった一度しか会っていないが、インパクトがあってずっと脳裏に残っていた。
その黒いスーツ姿の弁護士を、覚えている。
「助けてくれ。集団に襲われてたんだ」
男はスーツの弁護士に駆け寄り、泣き言を連ねた。
そして、男はこう呼んだのだ。
「こいつら、暴力事件として裁判をかけてよ。父さん」
「それは……証拠に拠りますね」
男は喪服にも似た服の襟を正し、教室を見渡すのだった。
「では、証言と証拠はお持ちですか?」
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