九 一言
やあ。
君は山歩きに興味はあるかい?
うちや本家の回りは、山ばかりだと言ってもいいくらいに緑で囲まれていてね。
子供の頃にはとんと遊び場に困らなかったよ。
木登りや虫取りに探検ごっこ。
拠点として秘密基地を作って、男子も女子もなく集まってね。
小腹が空けば、木苺やアケビなんかを見つけておやつにしたものさ。
大人になってからも時折、山菜を採りに入ったりするよ。
何を目的にする訳でもなく、散歩がてら森の空気を吸いに行くだけでも、心が洗われる気がするんだ。
こんな風に、自然の山というものは、実に多くの恵みをもたらしてくれる。
だけど、豊かなだけが山の本質じゃない。
場所によっては、それぞれ独特の決まりがあったりもするんだ。
例として、本家が所有する山の一つを紹介するとしよう。
そこは入山する際の人数が制限されていてね。
一人きり、あるいは三人以上であれば何も問題は無い。
二人が別々な場所から入って、ばらばらに行動するのも構わない。
しかし、二人一組で共に行動する事だけは禁忌とされているんだ。
では、破ればどうなるか?
どちらか片方が、煙のように消えてしまうらしい。
必ずと言う訳ではないようだけど、かなりの割合でそれは起こると聞いているよ。
大分昔の話になるけど、実際に被害に遭った猟師の兄弟がいてね。
慌てて逃げ帰ってきた兄が言うには、背後を歩いていた弟が突然一言発したので振り返ると、その時にはもう影も形もなかったらしい。
言い残した言葉は、何だったと思う?
「いぬ」
ただそれだけだったと。
ともあれ大がかりな捜索隊が組まれても、成果は上がらなかった。
今のように、スマホなんかで気軽に連絡が取り合える時代じゃなかったしね。
あまりに山深い場所だから、二次遭難の危険もあって、捜索は早々に打ち切られてしまった。
結局、消えた弟の行方は掴めず仕舞いさ。
でも、一人戻った兄は諦められなかった。
二人で行こうと誘った側だったらしくてね。
責任を感じて、以降も一人で捜索を続けていたんだ。
手がかりを求めて山に入る事、幾度目になるか。
彼はついに弟の姿を発見した。
しかし兄は、嬉しさより驚きが
何故なら弟は、全裸で野生の猿の群れに混ざっていたんだ。
必死の呼び掛けにも応えず、木の上から周りの猿と一緒にこちらを威嚇する様は、身も心も猿そのものになったかのように見えたという。
弟はこちらをひとしきり観察すると、やがて高く一吠えして、ひょいひょいと木の枝伝いに山奥へと消えていった。
周りの猿達を従えてね。
それからは二度と出会う事は無かったそうだ。
山から降りた兄の話を聞いた当時の人々は、こう考えた。
兄が目を離した隙に、弟は山に呼ばれて、それに応じてしまったのだ。
「いぬ」とは、「
二人組の相手の死角というのが、その山に潜む何かの条件を満たしてしまうのだろう。
そう解釈されたものが、戒めとして後世に伝わっているのさ。
今では滅多に人が入らない奥地だし、禁忌をわざわざ破る人もいないから、まだその怪異が存在しているかはわからないけどね。
それにしても。
「いぬ」と言い残して猿になる、というのも妙な因果を感じてしまうね。
猿も、「去る」と読み替えできるものだし。
言霊、というものが関係していたりするのかな。
そう考えると、途方もない話になってしまいそうだね。
山にちなんだ話なら、他にもまだまだあったはずだ。機会があれば話そうか。
じゃあ、またね。
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