春へ

 あのフェスティバルの夜から数週間ほどが経った。もともと舞台役者と町の工務店。住む世界が違う二人は、再び交わることはなかった。

 それでいいと、ケヴィンは思っていた。

 もともと、会うつもりはなかった。探してはいたけれど、会って交わす言葉はないと思っていた。それが、あんな醜態を晒して、彼を傷つけた。

 そもそも、彼が、彼女が、今世では健やかに過ごしているのか、それだけが心配だっただけなのだ。それを、自分自身が脅かしてはいけない。

 だから、これでいい。そう思っていた。



 それでも、電話のベルが鳴った。いつもの得意先の電話はもう済ませたから、電話が鳴るのは珍しいことだった。もしかしたら、さっき伝え忘れたことでもあったのだろうか、と何ともなしにケヴィンは受話器を取る。

「ハイ、モーリス商店……」

『よお、俺』

 受話器から聞こえてきたのは、聞き慣れない、けれど忘れることのできない、若くてよく通る声だった。

『……元気?』

「……ああ」

『…………』

 一言聞いたきり、何も聞こえなくなったが、微かに物音が聞こえるので、電話が切れたわけではなさそうだった。外にいるような、今降っている雨の音が聞こえる。どこかの公衆電話からだろうか。

「……どうか、したか?」

『……ねえあんたさ、ステラって知ってる?』

「? 歌手の……それはさすがに知っている」

 彼は前に初めて会った日にも、ステラの話をしていた。そして今日もまた、その女性シンガーの歌は古ぼけたラジオから流れていた。

『俺さ、ステラがだいっすきなんだ、カノジョみたいになれたら、あわよくば、カノジョの近くに行けたら、って役者になったの、単純でしょ』

「……ふ、そうだな」

『そんくらい単純なの、バカだし、向こう見ずで。でも、やってみなきゃわかんないじゃん。自分で考えられる程度の、本当のことなんて、たかが知れてる』

「……ああ」

 彼が何を話そうとしているのか、ケヴィンには手に取るようにわかった。覚悟を決めるように、返事をする。

『だから、ちゃんと言葉とか行動にしなきゃ気持ち悪い。わかったフリなんかしたくない、考えてもわかんなかった、だから、直接聞くよ。あんたの名前は?』

「……君には、言うつもりはなかった」

『言えないってこと?』

「ただ、謝りたかったんだ」

『……何に対してか、言ってくれなきゃわかんない』

「……そう、だよな。私だけ知っている、というのは、卑怯だ」

 レナードは、痛いくらいにまっすぐだ。私のような捩じくれてしまった大人とは違う。ケヴィンはそうぽつりとこぼし、独白する。


「…………クマ」

『え?』

「私はクマと、呼ばれていたよ、きみとずっと一緒にいたんだ、アイリーン」

 抱え続けた想いは、もう誰のものなのかわからない。今がいつで、ここがどこなのか。ケヴィンにはあやふやになっていた。

 本当はわかっている。今は戦争や虐殺などはない平和な時代で、ここは叔父と暮らした静かな工務店であって、食べ物もなく冷え切った寂しい家でも、雨に濡れた冷たい路地裏でもない。けれど、あの記憶があまりにも、悲しくて、切なくて、そして彼女に謝りたくて、また世界が涙で滲んだ。

『はっ……、ちょっと待てよ』

「いつも一緒だった、すごくすごく、きみは優しくしてくれたのに。私は何もできなかった。アイリーン、きみを守ると誓ったのに、きみとずっと一緒にいると約束したのに」

 ガチャン、と乱暴に電話を切られた音の後、ツー、ツーと無感情な電子音が響く。外に降る雨の音も、ラジオから流れる歌も、どこか遠くの世界の音に聞こえた。



「ケヴィン!」

 びしょ濡れのレナードが、がらんとした店に駆け込んでくる。息を切らして、それでもケヴィンの名を叫んだ。レナードは必死で、ケヴィンの腕を掴んでしがみつく。

「……! レナード、何を……濡れてるじゃないか」

「ごめん、ごめん、俺、あんたのこと勘違いしてた。あんたが、あんなこと言うから、おれ、」

「……謝らないでくれ……きみを殺したのは私だよ、アイリーン。この手を伸ばせなかった……何もできなかった。最後まできみのそばにいたのに」

 あんなにも切に願った、彼女に伸ばしたかった手は、今はこんなに簡単に彼の頬に届く。雨に打たれてすっかり冷え切った肌が、きっとあの日もこんな風に冷たくなっていたのだろうと思わせて、胸が締めつけられるように痛くなる。

「それだけじゃない、私はきみに何度も愛してると言いたかったのに、きみに何度もありがとうを言いたかったのに、冷たく色をなくしていくきみに、触れてあげることもできなかった」

 今は届かせることのできる手で、彼の頬を包む。体温を分け与えるように触れれば、レナードの頬は触れたところからじわりとあたたかくなり、逆にケヴィンの手は少し冷えていった。そのことに、ケヴィンははっきりと喜びを見出している。そして同時に、切なくもあった。

「……憎かった、あの兵士たちが。けれどその憎しみだって、何にもなりはしなかった。私は結局、きみに何一つできなかったんだ。私はあれほど、きみから抱き締めてもらったのに……罪深いこの身は、何も」

 ただの、クマのぬいぐるみだ。何が出来るはずもない。それは十分すぎるほどわかっている。

 けれど、クマちゃんだけはずっと一緒にいようね、という彼女の声に、届かずとも私は答えた。彼女に抱き締められた、あたたかい腕の中で、私はずっと一緒にいると約束をしたのだ。

「泣くなよ、なあ、俺はさ、あんたにずっとお礼がしたかったんだ。父さんも母さんもいなくなって、ずっと寒くて、寂しかった。あんただけが、ずっとそばに居てくれたんだろ。あんたが居たから、生きたいと思えたんだ」


 レナードはこの数週間、ずっと前世、アイリーンの記憶を夢に見ていた。これまでは時折見る程度だったのに、あのフェスティバルの夜から数週間、ずっとである。

 雨の中、兵士の格好をした二人の男に追われていた。子供の足で、弱り切った体で、逃げ切れるはずもない。あっさりと捕まった少女は、その剣で無残に斬りつけられ、甚振られ、そして泣き叫ぶことすらもできなくなった。その男たちのことを、よく覚えている。

 ひとりは、笑っていた。狂っていた。弱いものを殺すことが、何よりも楽しいというような、歪んだ笑顔。その顔はいつまでも頭から離れなかった。もうひとりは、泣いていた。目の前で行われる意味のない虐殺が恐ろしかったのか、それを止められぬ己が悲しかったのか。お前もやれ、そう言われて、従うことしかできずに、少女にその剣を振り降ろした。

 痛みも、怖さも、冷たさも、悲しさも、全てが鮮明だった。少女の記憶は、あまりにも短かったから。少女の暮らしには、あまりにも何もなかったから。物心ついた頃から両親が消えるまでよりも、ひとりきりで過ごした時間のほうがうんと色濃かった。愛された記憶も、あたたかな平穏も、限りなく朧げで、それは何も知らないのと同義だ。


「なあ、俺はさ、生まれ変わりも神様も信じてなんかいなかったよ。だって全部本当だとしたら、なんで俺は今もひとりなんだよ。今世でだって俺は親に捨てられてさ、きったねえ路地裏で残飯食って生きてきたんだ、ひでえ話だろ、でもさ、」


 レナードは今でこそ眩しい舞台で活躍する俳優になったが、生まれは貧しかった。貧民街に捨てられ、ゴミを漁って空腹を凌ぎ暮らしていたところを、団長に拾われて今に至る。

 酷い暮らしの中でさえも、暗い前世の記憶はいつまでも付き纏った。これで神様がいるというのなら、そんな奴はきっと人を甚振って喜ぶ趣味があるのだろうと思ってさえいた。


「でもさ、あんたに会えた」

 暗くて、寒くて、寂しかった孤独なアイリーン。それでも、うんと小さな頃に父から貰った大好きなクマのぬいぐるみのことは、ずっと覚えていた。寒い夜も、抱いて眠れば平気だった。寂しい気持ちも、悲しい涙も、クマは全部を受け止めてくれた。

 その物言わぬクマだけが、幼い少女の、唯一の心のよすがであり、冷たく残酷な死の記憶以外の、すべてだった。


「俺、いま走ってここへ来ながら、初めて神様なんて信じてみようかと思ったよ。なあ俺、嬉しいんだ。もしも物にも魂があって、想いが伝わるっていうのが本当だったなら、」

 レナードは、突然のことに軽く混乱もしているようだった。それでも、まっすぐにケヴィンの目を見て、こぼれる涙を拭うことさえせずに、ただ一途に言葉を紡いだ。ケヴィンは、その目をそらすことなどできるはずもなかった。

「ありがとう、ずっとありがとうって言いたかったんだ、あんただけには」

「私を……許してくれるのか、アイリーン」

 ケヴィンは、全身から力が抜けていくのがわかる。まるで自分からは何も動くことのできない、それこそぬいぐるみにでも戻った気分だった。

 確かに、クマが彼女を殺したわけはない。そんなことは、できるはずもない。

 それでも、果たされぬ不義の約束をした。いつも抱き締めてくれた彼女に、冷たくなっていく血に濡れた彼女に、何もしてやることができなかった無力感は、罪の意識となってケヴィンの胸に巣食っていた。

「ふふ、怒ってなんかないってば。もう謝らないでよ」

 それでも、彼女は、彼は、それでいいのだと笑う。その笑った顔が、アイリーンが笑った顔と重なり、ケヴィンはようやく許されたのだと思った。

「ああ、アイリーン……アイリーン、愛してる。ずっときみを、愛していたんだ」

「ありがとう、クマ」

 もう、謝罪の言葉はいらないと、彼は言う。

 ならば、ありったけの愛を、伝えたかった。


 声が、言葉が届く。この腕で、愛しいものを抱き締めることができる。

 それは、これまでケヴィンが、前世からずっと知らなかった、焦がれていたことだった。





「いよいよ最終日かあ、はやかったなあ」

 季節は巡り、花が綻ぶあたたかい春になった。あれからいくつかの舞台をこなし、すっかり人気者……とはいかずとも、評判の役者になったレナードだった。

 この日は、レナードが初めて主演を務めその名を世間に知らしめたきっかけであり、レナードとケヴィンが出会うきっかけでもある舞台の再演、その最終日だった。

「賑わっているみたいだね、嬉しいことだ」

 あれからケヴィンのほうは相変わらずだったが、舞台に関わる仕事が少しずつ増え、こちらも良い仕事をする職人がいると、業界では少し話題になりつつあるのだった。

 もとよりレナードは忙しい身であり、ケヴィンも仕事が増えたとなると、二人で会うこともなかなか少なかった。それでも時間が作れるときには会うこともあったし、この舞台の大千秋楽だけは、必ず観に来ると約束していた。


「ふふ、見ててくれよ、クマ!あんたに会えたから、前回よりもすっごくいいステージに出来る気がするんだ!」

「ふ、……またきみに出会えたなんて、これはなんて奇跡だろう」

 ケヴィンは、舞台のラスト、レナードの台詞を借りて、この奇跡を謳った。それに、レナードも笑顔で頷き、続けた。

「神に感謝するよ!一生離さない」

 涙に濡れるラストとは違う、レナードらしい言葉だった。力いっぱいに抱き締められ、少し痛いくらいだった。もう彼は、か弱い少女ではない。その力の強さに、ケヴィンは思わずホッとする。そんな安堵の表情を見て、レナードも柔らかく微笑む。


 舞台は無事大成功に終わり、いつまでも鳴り止まない拍手と歓声に包まれたレナードを、ケヴィンはあたたかな目で見つめていた。

 方々への挨拶や打ち上げの夜も明けて、日常に戻る。こんなときは、いつも楽しかった夢から覚めてしまうみたいで、レナードは寂しさを感じていた。



「終わっちゃった」

「嬉しそうじゃないな」

「だって~、またこんな大きい役貰えるとは限らないんだよ!?実力派なんて言われてても、良い役を貰えたからだし……それもほんの偶然だし……」

 しばらく共に過ごすようになってケヴィンは知ったのだが、レナードは意外とネガティヴなところもある。ただ底抜けに明るい、というわけではなく、ちょっと気弱なところもある、普通の青年だった。

「偶然だったとしても、それがきっとこれからにつながるよ。あんなにたくさんの人が、きみの名前を呼んでた。きっときみのことを、忘れないよ」

「……ん」

 ケヴィンがそう言うと、レナードは照れ臭そうに頬をかく。仕方ない、またこつこつ頑張るか、と声をあげるレナードを、ケヴィンはがんばれ、と励ました。



「なあしかし、この状況はちょっと異様じゃあないか?」

 それまで話をしていた体勢について、ケヴィンがようやくと指摘をする。ここは劇場の横にある空き地で、舞台の終わった次の日なので、セットや舞台装置の解体・撤去に従事するスタッフが遠くで働いているのが見える。

 そんな場所で、レナードは少し高い塀に座り込み、その足の間にケヴィンは立っている。そうすると、なんともちょうどよくすっぽりとケヴィンを抱き込めるようになるのだ。レナードはケヴィンの頭の上に顎を乗せ、肩の上から腕を回して、まるでぬいぐるみを抱き締めるようにケヴィンを包み込んでいた。

「まあ、確かに……でもこれ、妙に落ち着くんだもんなあ」

 この体勢が落ち着く、というのはレナードもケヴィンも同じ気持ちなのだが、前はクマのぬいぐるみと少女だったから良いものの、今は中年の男と年若い青年である。

「私もだが……これはちょっと……まあ、いいか」


 大人しく後ろから抱き締められたままだったケヴィンがふと、もぞもぞと動き出した。

「……ん、なに」

 腕を一旦放してやると、ケヴィンはレナードのほうへ向き直り、レナードの腰に腕を回した。大柄のケヴィンが下から見つめてくるのは、なかなか慣れないことで、レナードはどきりとした。そんなレナードを見て、ケヴィンは優しく微笑む。

「大きくなったな、アイリーン。きみが健やかに過ごしているかどうかが、ずっと心配だった」

 ケヴィンはあれからずっとレナードのことを、アイリーン、と呼んだ。ケヴィン曰く、ずっとそう呼んでいたから変えるのが難しいらしい。それに、ずっとずっと、声に出して呼びたくても呼べない名前だったから、その名を呼べるのが嬉しいのだと言う。

 レナードも、それを意外なほど素直に受け入れることができた。レナードとしても、アイリーンとしても、その名はなかなか呼ばれることのなかった、けれど大切な名だったからだ。


「ずっときみの頬に触れたかった、届かなかったこの手が、今は届く。そのことがたまらなくうれしいんだ」

 ケヴィンの仕事でかたくなった指の先で、そっとレナードの頬に触れる。幼い少女ではないのだから、そんな簡単に傷ついたりしないのに、ケヴィンはまるで繊細な細工に触れるかのように、優しい手つきでレナードに触れる。

「クマはさ、そんな声で俺のこと呼んでたんだね」

 見つめ合い、触れ合ったなら、目を閉じて口づけることは自然な流れだった。そこには一切の戸惑いも、躊躇も、しがらみもなかった。重なり合った唇は、あたたかくて、そこから溶けてしまうのではないかと、二人は思った。


「なあ、俺、女の子じゃなくなっちゃったけどさ、また俺と一緒に居てくれる?」

「……勿論」


 今度は、果たせぬ約束ではない。破れる誓いではない。

 その約束をくれた愛しいものを、いつまでも守ろうと、もう一度誓った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生まれ変わりの国 アサツミヒロイ @hiroi-asatsumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ