ぴちゃり、ぴちゃりと雨漏りの音がいつも聞こえていた。頼りない、ガラスの割れかけたランプの灯りだけが暗い部屋を照らしている。暖炉はあるが、薪がない。それに、小さな子供ひとりでは、暖炉は使えなかった。

「寒いね、クマちゃん」

 雨漏りだけでなく隙間風もひどい家だった。母がくれたブランケットを小さな体にくるりと巻きつけて、寒さを凌いでいた。室内だというのに白い息が出た。

 膝に乗せた大きなクマのぬいぐるみを、ギュッと抱きよせる。少女が言葉も話せぬうちに父親が贈ったものだった。

「パパも、ママも、帰ってこないね」

 両親はずっと前に出て行ったきり、帰ってこなかった。始めは父がいなくなり、次に母がいなくなった。ただひとり残された少女は、家に残っていた僅かな食料を少しずつ食べ、寒さに震えながら暮らした。家の中に置き忘れたように残っていた金はすぐに底をついた。それでも、少女はひとりきりだった。

「クマちゃんと、おしゃべりできたらいいのになあ」

 ぽたり、と抱き締めたクマの頭に、涙が零れ落ちる。パパとママに会いたい。どうして、帰ってきてくれないの?いい子にして待ってるのに。

「……ごめんね、つめたいよね」

 悴んだ手で、クマに落ちた涙を拭う。

「大丈夫、さびしくないよ」

 本当は寂しかったけれど、寂しい、つらい、と声に出したら何かが崩れてしまうような気がして、それは言っちゃいけない言葉だと思っていた。誰が聞いているわけでもない、このひとりぼっちの部屋で、少女はひとり、寂しくないと呟いた。




 寒さに凍える夢を見ていたというのに、目を覚ましたレナードはひどく汗をかいていて、魘されていたようだった。二段ベッドの下から煩いと蹴り上げられて、悪い夢から醒めることができた。

「あー、なんだ……やっぱ無理やりにでも聞いときゃ良かったな」

 気怠げに持ち上げた腕で額の汗を拭いながら、レナードは呟いた。その顔は舞台上で見せるきらきらとした表情とは程遠く、力のない目をしていた。


 レナードの住まいは小さなトラットリアの二階にある。店の主人の好意で間借りさせてもらい、劇団の仲間のひとりとシェアして暮らしている。

 狭い部屋での出来事は筒抜けだ。ルームメイトは最近レナードがよく魘されていることを指摘する。

「このところ、ずっとだぞ。大丈夫なのか?」

「……なあランス、前世の記憶って、どんなタイミングで見るものなんだ?」

「そりゃあ夢だろ? たま~に、ふっと思い出すけど、ありゃ居眠りしてんだろな」

 お調子者のルームメイト、ランスロットはニヤニヤと笑いながら話してくれる。前世の記憶というのは、基本的には夢の中で見るものだ。人によっては夢を見ないことや関係ない普通の夢を見ることもあるので、まだ年若いうちはどの夢が記憶の夢なのかわかっていないこともある。

「そういうことじゃねえよ、なんかきっかけとか?」

「きっかけ~? 俺は毎日見てるからなあ、あんまりわからん」

 ランスロットは記憶の夢をよく見る体質らしい。サボり癖のある彼はたびたび居眠りをしているが、そのときに見るのも記憶の夢であるという。これは極端な例ではあるが、少なくもない。ランスロットは記憶に対して深く考えてはいないそうだが、前世主義である。

「どうしたんだよ、急に。お前あんまり話したがらないくせに」

「……ん、ちょっとな」

 レナードはあまり前世の記憶については話したがらなかった。人にしても面白い話ではないことと、あまり夢自体を見ないことも関係していた。

「まあでも、記憶の中の人やものに現世で会えたときとかは、そいつの記憶を見ることもある、かな」

「…………そっか」

 前世に関わりのある人に出会うと、その人の夢を見る。レナードの心当たりはそれかもしれないと思った。

「……もしかして、魘されてるときは、見てるのか? 夢」

「……ああ、まあ……ね」

 レナードの考え込んだような顔を見て、流石のランスロットも空気を察したのか、ふーん、と言うだけでその場は流してくれた。


 程なくして舞台のリハーサル時間が近付き、二人は劇場へと向かった。舞台に立てば、レナードはレナードではなく演じている役になる。不本意ながらも、逃避にはピッタリだった。

 所属する劇団は、レナードがまだ芝居のことなど何もわからない頃からずっと世話になっているところだった。

 芝居にこそ隙はできなかったものの、ステージから降りてぼんやりと他の役者たちのシーンを眺めている様子はいつもと違っていたようで、彼のことをずっと見てきた団長はそれを見逃さなかった。

「どうしたレナード、今日はずいぶん疲れた顔して」

 魂が抜けたかのようなレナードは、真横に立った団長の存在にすら気がつかなかった。声を掛けられて初めて、飛び上がるように驚き、思わず頭を下げた。

「すみません! さっきのシーン、なんかおかしかったですか」

「芝居の話じゃねえよ、どっか体調でも悪いのか。舞台から降りた途端にボサッとしてよ」

「体調が悪い、というか……」

 レナード自身、あまり前世の記憶についての話を人にしたことがなかったので、誰にどう相談するべきか悩んでいた。夢見などこの世界では当たり前のことで、それであまり眠れていないなど、どうしようもない奴だと思われそうで怖かった。それに、レナードの見る夢は軽々しく人に話しては、相手に気を使わせることにもなりかねない。

「あの、団長。頼みがあるんですけど」

 考えた末に、ひとつ団長に頼み事をすることにした。




 少年の目は、宝石でも眺めるかのようにキラキラと輝いていた。視線の先は、器用に小さなネジや歯車を組み立てていく、ケヴィンの指先だった。大きな手は力強い印象を与えるのに、それは驚くほど繊細に動く。

「ほら、直ったよ。動かしてごらん」

「わあ、もう直ったの?」

 少年は小さなお客さんだった。祖父から貰ったのだというそれは、馬車のからくりだ。可愛らしい馬が車を引く単純なものだが、車の中にしっかりと小さな人が乗っていて、つくりの細やかな美しいおもちゃだった。

 車輪のつなぎが折れてしまっていて動かなくなっただけだったので、直すのはさほど難しい作業ではなかった。それでもまた動くようになった馬車に、少年は瞳を輝かせてすごいすごい、と声をあげた。

「おじさん、すごいね! 魔法使いみたい!」

「ははは、そんなに難しいことはしてないよ」

 直ったおもちゃを大事そうに抱えて、ありがとう! と笑いながら少年は帰っていった。


 少年が去ると、ケヴィンの営む工務店、モーリス商店は店の主以外は誰もいなくなる。作業机の隅に置いた古いラジオから流れる歌と、時計の針が時を刻む音、それだけが小さなこの工務店を支配していた。はあ、とひとつため息をつくことで、かろうじてこの空間に自分という人が存在していることを確認する。

 ケヴィンに家族はなかった。両親は流行り病で亡くなったと、育ての親である祖母から聞いていた。その祖母もケヴィンが物心つく頃には既に高齢で、ケヴィンが十歳になる頃亡くなった。

 この工務店は、身寄りのなくなったケヴィンを引き取ってくれた叔父の店だった。店名のモーリスというのは叔父の名前だ。

 叔父は手先が器用な人で、頭も良く、もっと手広く製作や修理などを請け負っていた。ケヴィンはその背中を見て育ったが、ついに叔父には追いつけないまま叔父もこの世を去ったのだった。

 もうずいぶんと長く、ここに一人で暮らしている。客と顔を合わせるよりも、物に向かっている時間のほうが長い仕事だ。寂しいと思ったことはない。そもそも、そういった感情は持たずに育った気さえする。『私はそういうものだ』と、どこかでそう思っていた。一人でいることが当たり前であり、そういう人間なのだ、と。



「よお、魔法使いのおじさん」

「!? ……君は」

 ケヴィンは突然声をかけられて驚いて顔を上げる。跳ね上がるようにしてびくりとしたケヴィンを見て、その姿に先ほどの自分を重ねて、声の主は微かに笑った。

「団長に頼んで、ここ教えてもらってさ。来ちゃった」

 どうしてここに、という顔をしていたのだろう。ケヴィンが声を出す前に、突然店にやってきた青年、レナードはそう言った。

「なぜ、」

 ケヴィンが言葉をそれ以上紡げなかったのは、驚いたからだけではない。レナードは何故ここの場所を知り得る人に聞いてまでやって来たのか。それは、

「あんたともう一回、話してみたかったんだ。迷惑だった?」

 ……それは、やはり彼が、ケヴィンについて何かしらの縁を感じ取っているからではないのか。そうとしか思えなかったからだ。

「……迷惑などでは」

「あんま都合良さそうな顔じゃないけどね。さっきから居たのに全然気づかないし、元気ないみたいだけど、体調でも悪い?」

「気がつかなくてすまない、覇気がないのはいつものことだから、気にしないでくれ」

 ケヴィンがそう言うと、レナードはアハハ! と快活に笑った。やっぱりあんたって面白い人だな、と彼は言う。

それが、ただのいち個人に対する興味であり、ケヴィンという彼の人生においてはなかなか居なかったのかもしれない陰鬱な男を珍しがっているだけなのだとしたら、それはそのほうが良い。

 ……ケヴィンとしては、レナードに前世の記憶について触れられることだけは、どうしても避けたいこと、だからだ。

「今、暇?」

「……見ての通りだ」

 こんなときにだって嘘はつけない自分が嫌になる。本当は仕事が忙しいからとか体調が思わしくないからとか、それらしい理由をつけて彼を帰すことが賢明なのだろう。頭ではわかっている。けれど、彼に対しては、嘘や不誠実な態度を取ることが、どうしても憚られる。

「じゃあ、行こうか!」

「は? どこに」

 レナードは少し強引にケヴィンの腕を掴む。その手の温度にどきりとする。ノーとは言えない、そんな勢いと人懐こい笑顔で彼は答える。


「決まってるでしょ、フェスティバルだよ!」


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