街の裏通りにある、ひっそりとしたカフェバー。看板も出ておらず、見つけにくいところにはあるが、料理や酒は上等で、業界人は好んで足を運ぶのだという。黒を基調とした落ち着いた雰囲気が洒落ている、所謂隠れ家的な名店だ。地下にあるその店内は入り口から想像するよりもだいぶ広く、かなりの席数がある。目立たないドアに、シンプルな札が掛けられており、「本日貸切」の文字が無愛想に並べられている。


 そんなバーのカウンター席で、ケヴィンは一人項垂れていた。

「…………帰りたい」

 思わず誰にも聞こえないくらいの声で本音が漏れてしまった。

 ケヴィンの周りには、街で話題の舞台役者たちやその関係者がずらりと勢揃いしていて、薄暗い店内だというのにそのきらめきで眩しく感じるようだった。雑誌やラジオでよく見聞きするような若い女優や、業界では有名な監督や劇団の団長も居る。


 ……もちろん、主演のレナードもだ。


 街で小さな工務店を営むケヴィンが何故この場に居るのかと言うと、一応ケヴィンもまた今回の舞台の関係者であるからだ。工務店の店主が何故舞台関係者なのかと言うと、先ほどケヴィンが会っていたアベルのせいなのである。

 アベルは異様に顔が広く、何故かこの舞台の監督と面識があるのだという。どうやらアベルは監督に、舞台のセットを作れる腕のいい職人が居るなどと言って、ケヴィンを紹介したらしい。

 知らぬ間に紹介され、急に舞台の大道具の仕事を任されたケヴィンはおおいに驚いた。確かに昔は小さな舞台の美術なども請け負っていたが、十年以上前の話だ。何故こんな大きな仕事が回ってくるのかと思っていた。


 アベルが一枚噛んでいると気付いたのは、稽古中の主演の俳優を一目見た瞬間だった。

 ケヴィンには、探している人が居た。顔も名前も知らない、探し人だ。それは、彼の持つ前世の記憶に関係する人である。

 当然ながら、人は生まれ変わってもまた人に生まれるとは限らない。外見や、性別だって違う。けれど、ケヴィンは一目見て彼がずっと探していた人だと確信した。


 ケヴィンがずっと会いたいと願い、そして、会いたくないと願っていた人だ。



 アベルのところからまっすぐ家に帰るつもりではあったが、帰る途中劇場の前を通りかかると、せっかくだから最後の舞台を見ていかないかと一緒に仕事をした美術のスタッフに声をかけられた。断ろうかとも思ったが、こんな大きな舞台の仕事をしたのは初めてなんだ、自分の仕事を最後まで見ておきたいのだと嬉しそうに語る彼の顔を見ると、ケヴィンも同じ気持ちになった。

 会場に入ると、客席の中の一部にある機材席の空いているところに通された。確かに、大掛かりな舞台の仕事ができたことはケヴィン自身も喜んでいた。始めは気乗りがしなかったが、いざ作業に入ると熱中してやった。寝る間も惜しんで細かく作り込んでいったステージは、とても良い出来だと自負できる。

 幕が上がると、自分たちが作ったステージで華やかな役者たちが芝居をする。それを見て観客たちが息を呑む。この満足感のような感覚は、他では味わえないものだ。

 ただやはり、自分の作ったステージにレナード、彼が居るというのは、どうしても不思議で、それでいて不安な気持ちが湧いてきた。どこか心にモヤがかかったまま、舞台の幕は下りた。


 そこからが問題の始まりである。

 一応関係者ではあるが、ケヴィンは裏方。主演の俳優とは会話すらなく、何度かすれ違うようなことがあっても、レナードがケヴィンの顔を覚えているかどうかも怪しい。名前は知らないだろう。それは関わりがなかったというのもあるが、関わりを持たないようにしていた、というところもある。なるべく顔を見られないように極力レナードのことを避けてきたのだ。

 観劇が終わり、観客たちが退場していくのを待っていたら、監督や他の関係者たちが最終日の打ち上げに誘ってきたのだ。聞けば、役者たちも参加するのだという。これはまずい、と思ったが、上手に断れるほどケヴィンは言葉が上手くなかった。紹介してくれたアベルの顔もある、その好意を無下にはできなかった。



 そうして人を避けてきたケヴィンは、こんなにも華やかな場所でひとりきり、項垂れながら酒を飲んでいたのだった。

 もともと店や家に引きこもりがちで、芸能界などとは無縁のケヴィンは、こういう賑やかで煌びやかな場所や雰囲気は苦手だった。

 その上、彼がこの場にいるのだと思うと顔を上げることすらできなかった。近くにいないか、自分のことに気づいていないか心配ではあったが、顔をあげて、見られるのが怖かった。


 このグラスが空いたら、監督に一声かけてから帰ろう。居た堪れないあまりに、ついにそう思ったそのとき、後ろから背中を叩かれた。

「よっ!お疲れ様!」

 明るくよく通るその声は、聞き間違えようもない。ケヴィンの背を軽く叩きながら、隣の椅子に座ってきたのは、この会の主役でもあるレナードだった。

「……お、お疲れ様……」

 恐る恐る顔をあげると、その大きな目と視線が絡む。初めて目を合わせた。

(……頼むから、気づいてくれるな)

 ケヴィンは、レナードが自分と同じように一目で何かに気づくことを恐れた。が、レナードはぐいと近づいて小首を傾げる。

「……誰だっけ?」

 どうやらケヴィンが何者なのかすらわかってなさそうだった。ケヴィンはほっと胸を撫で下ろし、少しだけ息を吐く。

「大道具の」

「ああー!あのでっかい人だ!」

「でかい……」

 レナードは悪びれずハッキリと声をあげた。確かにケヴィンは長身な方で、筋肉もそれなりについてはいるので、かなり大柄な部類に入るだろう。何度かすれ違ったときに挨拶くらいはしたので、その姿だけはなんとなく覚えていたようだった。

「団長があんたのこと褒めてたよ。良い仕事するってさ」

「……初耳だ」

 そんな話はケヴィンも聞いていなかった。団長とも業務的に必要な会話しかせず、交流などはしていなかったけれど、どうやらよく思われていたらしい。嫌われる覚悟で人を避けていたケヴィンは少し驚いた。

「それに関しては、俺も同意見。今回のセット、本当に綺麗だった」

「……そうか、ありがとう」

 レナードの言葉に嘘はないことが、よくわかる。純粋に嬉しいと思った。あまり目を合わせないようにしていたが、そのときは目を見て礼を言った。

 レナードは、何も気づいてはいなさそうであった。一人でいる男に声をかけてみた、ただそれだけのようだ。それならば、自分が変なことを言わなければ問題ないか、と思いケヴィンは少し緊張を解く。

「普段は何してる人なの?舞台の人じゃないんでしょ?」

「工務店…ただのがらくた屋だよ。作って売るのもあるが、時計やからくりを直したりとかが多い」

「へえ、職人ってやつだ」

「そんなたいそうなものではないさ」

 いや、すごいよ、かっこいいな、俺は不器用だからさ、とニコニコ笑いながら話す彼は、お世辞を言っているような雰囲気はまったくなく、本当に明るく素直な子だと感心した。


「あ、ステラの歌だ」

「ああ、この歌は、私もラジオでよく聞く」

 ステラ、という名もケヴィンにも覚えのある名前だった。なんとなくいつもつけっぱなしにしているラジオから、自然と覚えてしまうくらいにステラの歌声はよく流れてきていた。ここ数年、巷を賑わせている女性の人気歌手だ。伸びがあって堂々とした、存在感のある歌声が美しい。芸能界には明るくないケヴィンでも知っている。

 レナードは俺、好きなんだ、と嬉しそうによく知るその歌を口ずさむ。けれど、急に何かを思い出したように顔をこちらに向けるものだから、ケヴィンはどきりとした。

「……ねえ、俺のこと知ってる?」

 少し真面目顔になったレナードが尋ねてくる。ただそれは、ケヴィンが危惧しているような内容の問い掛けではないことは明らかだ。

「…………主演の名前くらいは流石に知ってるよ」

「そうじゃなくて~」

「……すまない、君を知ったのは、この仕事が決まってからだ」

 ケヴィンが取り繕わず正直に言うと、レナードは唇を突き出して、チェッと残念そうに呟いた。

「まあそうだよねー、話題の若手なんて持て囃されても、まだまだ駆け出しだしさ」

「そうなのか?私が疎いから知らなかったのだと思っていたが…」

 ケヴィンはあまり芸能に明るくないどころか、そもそも興味がなかった。舞台の仕事からは長年離れていたし、雑誌を買い集めたりもしないし、新聞の芸能欄などは読まなかった。

「君のような実力のある役者が居たのだと、興味を持ってなかったことを後悔したほどだよ。すぐに名を上げるさ」

 ケヴィンが思ったことを素直に述べると、レナードは驚いたようにぱちぱちとまばたきを何度かした後、恥ずかしそうに口元を隠してテーブルに肘をついた。

「……すっごい殺し文句だね、それ。あんたモテるでしょ」

「バカ言え」

「モテないの?」

「三十七で独身だ」

「マジかよ!」


 それから二人はそのまま他愛のない話を続けた。ケヴィンは自分の話の何が面白いのかわからなかったが、レナードはずっと笑っていた。

 和やかな空気の流れる時間であったが、ケヴィンの頭の中では常に、レナードの笑う顔に、『彼女』の泣き顔がちらついていた。



 雨の降り落ちる冷たい地面に、白く細い、少女の指が力なく這う。

「いや、いやだ…こわい、こわいよ」

 まだ幼い少女は、雨か涙か、頬を濡らし、血の滲む服を引きずり、力の入らない体をなんとか動かそうともがき、だんだんと薄れる視界の中何かを求めるようにその手だけが辛うじて震えて伸ばされていた。

「たすけて…たす、けて…」

 絞り出すような声が耳に残っている。『私』はただその姿を見ていたのだ。

 それこそが、私の罪の記憶。暗い夜の闇と、雨に滲む少女の血。忘れられるはずもない夜のこと。



「なあ、あんたの前の名前って?」

「……君は?」

 ケヴィンは急なレナードの問いにどきりと心臓が強く鳴ったが、なんでもないようなふりをして聞き返した。

「あ、ずりい、自分は言わないつもりかよ。あんたって、現世主義の人?」

 この国では皆前世の記憶を持つのが当たり前ではある。しかしそれを大切な記憶だ、信じ尊ぶべきだとする前世主義の者と、過去は過去であり今とは違う、囚われることなく生きるべきだとする現世主義の者とがいた。

「君もそうだろう」

「へへ、そう。でも、あんたは違う気がしたんだけどな。…どっかで会ってたら面白いかもと思ったんだけど、気のせいかな」

 ケヴィンはまたどきりとした。レナードは何も気づいていなさそうで、色々と感じていたみたいだった。ケヴィンはレナードと話し込むなどと軽率だったと少しだけ焦りを感じた。

「……会っていたとして、君はどうする?」

「え?」

 急に冷たい声を出したケヴィンをレナードは不思議そうに見つめる。

「決して、楽しかったり、嬉しかったりした記憶ばかりじゃないだろう。私はね、皆が忘れていてもいいはずの痛みを当たり前のように抱えてる……そんな世界が怖いんだ」

 本来ならば、覚えていないことができたはずの、自分のものではない、自分の記憶。そんな不確かなものを誰もが当然のように受け入れている。ケヴィンは、自らの前世の記憶が、もし自分のものなどでなければ、と何度も思った。それでも魂に残る記憶は消せない。確かに自分のものなのだと心の奥で感じる。それがとても苦しかった。

「……あんたって、本当面白いね」

 そんなケヴィンの葛藤を、レナードは静かに受け止めてくれていた。こんなことを話せば、たいていの人は考えすぎだ、とか、弱気すぎる、とか、茶化したり叱ったりしてきたものだった。

「そんなことは、初めて言われる」

「そうなの?」

「ああ、話す人は皆私のことをつまらないやつだと」

「ふふ!」

 レナードはまた何が面白いのか、笑っていた。その人懐っこい笑みが、全て許してくれるような、そんな錯覚さえ覚えそうだった。それは、それだけはいけない。ケヴィンは固く拳を握る。


 その日はそれで、二人は別れた。次の日からは芸能人と一般人、別世界で生きる人に戻った。


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