#6 紫木



記録-1 出現事例


Ang-005、通称"紫木"は古くは1830年ごろからの出現が確認されています。それ以前から存在していたと考えられていますが、信憑性の高い記録は残されていません。直近のもっとも近い出現は1990年の事例が最後です。


Ang-005は30年周期で出現を続けてきました。出現場所は主に海の上、孤島、標高500m以上の山岳に限定されています。都市部での出現は確認されていません。


Ang-005の出現過程はおおむね3段階に分かれています。第1段階では下部の幹とそれに付属する枝が出現します。Ang-005の外見上の形態は植物の構成と類似しています。Ang-005は徐々に枝葉を増やし、その数がおよそ10〜15ほどになったころ、第1段階を終了します。


第1段階の枝葉の物理的な性質は判明していません。


────


「…いや、私だ。Ang-005の報告書の続きを送ってくれ」


船が到着する何時間か前のことである。近寺皀理が琴似川に話しかけられ、瞬く間に退散した後のことだ。琴似川は船の一等船室で電話をしていた。自分の部屋だろう。机の上には散乱した書類と売店で購入した缶コーヒー、および現地の植物ガイドマップがある。片付けのできない人間の、いかにもといった机の上だ。


「"カード"はいま回崎が持っている。とりあえず第2段階までで良い」


皀理らのいる部屋とは違って、シャワーとベッドが付いた立派な個室である。琴似川は部屋の中を歩きながら落ち着かない様子で電話している。


「回崎は今海の上の観察だ。特に報告を受けてはいない」


狭い船室の窓から海を覗き込む。ほとんど広い海は見えない。


「どうしてもか?私にはいまそれを見なきゃいけない理由があるのだ」


電話の向こう側にいる人物と琴似川の会話は段々と激しくなっていく。


「need to knowの原則だ。普通は必要のない人は知らなくても良いという意味で使う言葉だが、私はその逆を言っている」


琴似川は若干苛立ちを覚えながら話を続けた。


「アレの第三段階は格別に危険だぞ。ここ最近ではあまり見られていないがな」


電話口からは甲高い、ともすれば怒り狂っているようなとでも言えそうな激しい声が小さく漏れ出ている。


「ならば仕方がない。しかし覚えておけ。私がAng-005を手に入れるチャンスを掴んでいることをな」


ブツン。電話が切られた。


「くそっ、柔軟性のない痴れ者共め!」


先程まで持っていたスマートフォンをベッドの上に強く投げ、仰向けとなる。


「本当に何も知らないぞ」


「ドンドン」と扉を叩く音がする。


「琴似川先生!琴似川先生!扉開けてください」


「空いている!勝手に入れ!」


琴似川はむしゃくしゃしている様子で起き上がった。入ってきたのはもちろん彼の助手の回崎と蒲生だ。蒲生の服装が変わっている。これはウィンドブレーカーというやつだろうか。少し濡れている。まだ雨が降っていただろうから、おそらく甲板に出たのであろう。


「ᐱᒋᐊᕐᓂᖅ」


「お邪魔します、と蒲生は言っています。それより先生、さっきの電話は赤ヶ濠さんですか?」


対して回崎はパーカーとTシャツの組み合わせを使い回している。それは昨日から変わっていないどころか、研究所でも同じ格好であることは変わらない。


「ああ、そうだよ。馬鹿みたいだろ。現場に情報をよこせないシステムは」


「まあ、そこら辺に関する不信感は前からありますが今更どうこう言ってもしょうがないですよ」


「ᕐᓂᖅᐱᒋᐊ ᕐᓂᖅ ᐱᒋ」


「蒲生の言う通りですよ。特に赤ヶ濠さんみたいな人はルールに融通が効かないんですから」


「まあそうだがな……」


「で、Ang-005の資料は今のところどれだけあるんですか?」


「第一段階のところまでだな。実質的にほとんど何もわかっていないのに等しい……」


「ああ、枝と葉があってまるで木みたいな天使」


「その言い方は誤解があるな。元々は本当に植物だったのではないかという意見もあるが」


「それは誰の意見です?」


「無論私のだ。本来そのモデルとなる植物が進化して、Ang-005になったのだ」


「天使たちの起源については色々言われてますけど流石にそれは眉唾だと思いますがね」


「私の意見が間違っているのだと?こんな私の言うことは信じられないと?」


「別にそういうことじゃあないですが……先生がこないだ提出した証拠の文献だって当時のよくある植物図鑑ってことになったじゃないですか。アレはたしかに植物として見れば珍しいところがありますが、それだけでAng-005の元になったって言うのは早計じゃないですか?」


「ᕐᐊᕆᐅᙵᐃᐹ ᓂᖅ」


「天使は人間の集合意識から生まれてくる。そこまでは研究所の統一見解だ」


「赤ヶ濠さんは別軸でアプローチしてますよ」


「それは別にいい!あいつは変わり者だ。私と同じような。だが、つまり集合意識の変化によってやつらも変わるはずなんだ」


「それは果たして厳密な意味で進化と呼べるのでしょうか。進化って単語は某ゲームやら何やらで勘違いされがちな用語ですけれども、そもそも進化とは世代ごとに遺伝子の生存競争に有利ではない部分が消えていって、段々と発現する遺伝子が変わっていくということを言うじゃないですか」


「まあその言い方にも少し文句をつけたいが、ここはよしとしよう」


「そもそも天使たちは別の出現でも同一個体なんですよ。再出現と消失を繰り返して、段々と形を変えてるみたいに見えますが、その実は同じものです。Ang-029なんかはインタビューが成功してて、彼女と彼女の仲間たちが出現毎に同じ個体であることを証明してくれてます。つまり、消えていく遺伝子が形態に反映されたものというわけではないはずです」


「君は生物種の遺伝子が生存に不利な部分が減っていくことによって、形態が変化していくことを進化と呼んだな?」


「実際そうでしょう。要は遺伝子頻度の話ですからね」


「そうだよ。その遺伝子プールが我々の……人類の意識全体なのだよ。もちろんこれは人類全体に限ったことではないがね。君と私の間で共有されているイメージだってある」


「"だけどそれじゃあ弱すぎて誤差みたいなもんだ"、ですよね」


「わかってるじゃあないか。君の言わんとするところはわからないわけでもない。しかし人類のイメージの変遷を進化と呼ぶのに慣れていないだけだ」


「ᙵ ᙵᐃᙵᐃᐹ」


「……まあそれが実証できるならば何でもいいんですけどね!」


2人の議論は弁舌猛々しく互いにはっきりと意見を述べるために第三者から見れば喧嘩しているようにすら見えた。しかしそうではなく、彼らは元々このような議論を好むという性格があり、ここまで白熱するのもいつものことだった。


「くく……それはこれから確かめようじゃないか。天使の外見が著しく前回のそれと変わっているようであれば、人類意識にそれなりの変化があったことになる」


「比喩的に言うと、天使たちのゲノム解析はできていないじゃあないですか。人類意識の変化がどのように天使の形態変化に関係しているかはわかりませんか?」


「Ang-005はわかってないな。他のところでは日本の自殺者の増加に伴って光輪の数が増えてるやつとかそういうのがやっとわかってきたところだ」


回崎はある種の確信を持ってこう言った。


「僕はAng-005が"満足"の感情を支配しているのだと思います」


「"満足"か?"幸福"ではなく?それならばもうあるが」


「"満足"です。これまでの形態を見る限り、だいたい木を模していますね。これはバウムテストなんじゃないかと思います。見てください2回目の発見事例です」


そう言って彼はレポート用紙に纏められたAng-005の第1段階の写真を見せた。


「……回崎くん、これはどうやって持ってきたのかね」


「普通に赤ヶ濠さんに正規の手続きを踏んで持ってきました。先生はそういうところが疎すぎます」


その写真にはしっかりと地面に根を張った、あまりにも大きすぎる紫色の木があった。枝の数は明らかに50以上ある。


「第2段階に移行するのはいつかね?」


「わかりません。そこは資料がもらえませんでした。しかし面白い事実ですよ。最初の枝葉はこれだけあったんです。だけど最近になるにつれ減ってきています」


「それくらいは私もわかっている。第2段階のことがわからないのでは意味がない」


「バウムテストでは枝の数が現実との付き合い方を表しているとされています。自己流にこれを解釈するとしたら選択肢が減っていっているということになります」


「それが満足なのだと?」


「選択肢が減ったということは、それだけ大人になったということですよ。先生」




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