第34話 もう一人の愛美

「どういうことなんだ?」




僕は、背後にいる愛美へと顔を向けて、呟くように言った。


自分の声は、少し震えていた。




「遅刻はしてないよ。だって、約束の時間の5分前なんだから」




愛美は顔をしかめて、腕時計に目を落としながら言った。


どうやら、僕の言葉を誤解したらしい。


彼女は、待ち合わせの時間に遅れたと勘違いしたようだ。




僕も反射的に、自分の腕時計を見た。


午後1時55分・・・。


約束の時間?


10時半じゃなくて、午後2時?




それから彼女は、前かがみになると、僕の顔を覗き込んだ。




「どうしたの?巧君、顔色が悪いよ」




愛美は、眉根を寄せて、不審な表情を浮かべている。


彼女の視線が、僕の向かいの席へと向けられた。


僕の向かいの席にある、テーブルの上の


メロンソーダフロートに気づいたようだ。




「誰かと会ってたの?」




「キ・・・キミだよ」




「え?意味わかんないんだけど。そんな冗談笑えないよ」




愛美は、もう一人の愛美が座っていた、座席に腰を降ろした。




僕は、頭を抱え込んだ。何がなんだかわからない。




「どういうことなんだ」




僕は、思わず右の拳で、テーブルを叩いた。




「巧君・・・何があったの?」




愛美の声には、心配と怯えが含まれていた。




「僕は、キミと午前10時半、渋谷駅南口モヤイ像の前で


待ち合わせをした。それから映画を観て・・・たしかに


キミだった・・・」




僕は、声を絞り出すように言った。


それが、僕が冗談を言っているのではないと


愛美を思わせたのだろう。


彼女は静かに、冷静さを帯びた声で言った。




「待ち合わせをしたのは、午後2時半よ。巧君が、


そう言ったんじゃない。映画を観て、それから食事に行こうって」




愛美は、もう一人の愛美が座っていた席に腰を降ろした。




「僕が、そう言った?」




僕は、自分の記憶を懸命にたどった。


できるだけ冷静を保って。




約束の時間は、確かに午後2時半だと思い出した。




だとしたら、消えたもう一人の愛美との、時間は何だったのか?


今は、頭が混乱して、考えがまとまらない。




それに―――。




今、目の前にいる愛美も本物だとは限らない・・・。




その時、注文したウエイトレスが、僕たちのテーブルの


傍を通った。僕は、慌てて声を掛けた。




「あのキミ、僕の前に彼女・・・この女性がいたよね?」




「はぁ?」




そのウエイトレスは、小さく口を開けて、呆気にとられた顔した。




「え・・・ええ。確かにいらっしゃいました」




そうだ。確かにいたんだ。もう一人の愛美は。


だが、着ていた服は違っていたはずだ。




空色のボアジャケットにジイーンズ姿、


だったはずだ。


そのことをウエイトレスに尋ねた。




「いらっしゃいましたけど。この方かどうか・・・」




ウエイトレスは、怪訝な顔して答えた。




たしかにそうかもしれない。


いちいち客の顔など覚えれないのも無理もない。




僕は、急いでカウンターに行き、勘定を済ませると、


愛美の手首を握って店を出た。




「どうしたの?巧君。何か変よ」




僕は、腕時計を見た。午後2時50分。


『ローマの休日』の2回目の上映は、3時からだったはずだ。




僕はチケット売り場―――といっても簡略なロボットが管理している―――


でお金を払うと、チケットを2枚手にして、上映会場へと足を向けた。


背後にいる愛美は、小さく息を弾ませていた。




「ごめん。どうしても、この映画を観てもらいたいんだ」




「う・・・うん。最初からその予定だったでしょ?」




愛美は、眉根を寄せて僕の顔を見やった。




会場に入ると、客はまばらだった。


僕たちは、一番後ろの席に腰を掛けた。




スクリーンが、光を放ち、映画が始まった。


愛美は、ショルダーバッグを膝に置くと、背もたれに


体を寄せて、彼女の視線は1500インチの巨大な


ディスプレイに注げられた。




僕は、映画よりも隣りにいる愛美を見ていた。


映画のクライマックス、オードリー・ヘップバーン演じるアン王女と


グレゴリー・ペック演じるジョー・ブラッドレーとの


車内でのキスシーンで、目元にそえた彼女のハンカチは、


小さく震えていた。




そして、ラストシーン。


ヒロインは、アン王女に戻り記者会見をする。


その場面での、ジョー・ブラッドレーとの会話。


そして、一人去るジョー・ブラッドレー。




愛美は、両の瞳を潤ませていた。


僕は彼女が本物の愛美かどうか疑い、観察している自分に、


大きな罪悪感を感じ、視線をスクリーンへと戻した。




映画館を出た後、愛美は僕に訊いてきた。




「ハッピーエンドなのよね」




彼女の瞳に、涙が浮かんでいる。




「ああ、僕もそう思う」




愛美は―――彼女は、感動している。


感情を震わせている。




もう一人の愛美は、こう言った。




『興味深かったわ―――』




今、僕の肩に寄り添っている彼女こそ、本物の愛美だと確信した。




じゃあ、もう一人の愛美は何者だったのか?






『愛』・・・かもしれない。




僕の脳裏に、その答えがよぎった。




だが、どうやって愛美に成りすますことができたのか?




あれが、本当に『愛』の仕業だったとして・・・。




その時の僕には、見当さえつかなかった。

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