第33話 靄のかかった意識

翌日、僕は、愛美と約束した通り、渋谷駅南口モヤイ像の前で、


彼女が来るのを待った。空を見上げると、今にも雪が降りそうな


どんよりとした低い灰色の雲が、垂れこめていた。


僕は、寒さをしのごうとカーキダウンコートの襟を立てた。




ディスプレイフォンを開けると、午前10時半。


待ち合わせの時間ぴったりだ。




10時半?




僕の心に、何かが引っ掛かった。何かが問題なのに、


その答えに靄がかかっている感覚。




問題があって、答えもある。それは僕の直感が、教えている。


だが、そのどちらもわからない。


ただ、ヒントはあった。時刻だ。




10時半・・・。




「巧君、待った?」




ふいに、僕の横から声がした。




そこには、空色のボアジャケットにジイーンズ姿、


鮮やかなオレンジ色のローファを履いていて、


両手には赤いニット製手袋をはめている、愛美が立っていた。




どうやら、僕は、考えに耽っていたらしい。


再び、手にしていたディスプレイフォンに目をやると、


いつのまにか30分も経っていた。




「いや、そんなに・・・」




僕は、そう言いながら、また別の違和感を感じた。




それはすぐにわかった。




時間だ。




愛美は、待ち合わせに遅れたことはない。


むしろ、僕より早く待ち合わせ場所にいることが多い。




なのに、今日は30分も遅れて来た・・・。




でも、僕は、屈託のない笑顔の彼女を見て、


深く考えるのはやめた。




「どうしたの?」




愛美は、僕の顔を覗き込むようにして、言った。




「いや、別に何でもないよ」




僕は、彼女の問いに、頭を被って答えた。




「映画、楽しみ」




愛美は、微笑みながら、僕に言った。




映画―――?




そんな約束をしていたんだっけ?


僕の脳裏に、微かな疑問が浮かんだ。




そうだ。今日は映画を観るんだった。


僕は、自身の曖昧になっている記憶を振り返り、苦笑した。




「何かおかしい?」




愛美は、僕の右手を握った。




僕は少しばかり驚いた。


僕から手を差し出すことはあっても、


彼女の方から手を握ってきたことは、記憶にない。




僕は、そんなことにいちいち神経質になっていることに自嘲した。




「また、笑ってる」




彼女は、不思議そうに微笑み返してきた。




「さ、行こうよ」




愛美に腕をひかれるようにして、僕は歩き出した。




今日観る予定の映画は、『ローマの休日』だ。


この作品は、すでに1世紀ちかく前の作品なのに、


まったく色あせてないと僕は思う。




この映画はリメイクのたびに、何度も見た。


リメイクされた数は、いくつになるだろう。


そこまでは覚えていない。




ただリメイクされるたびに、画像の鮮明度は素晴らしくなっている。


今回公開された『ローマの休日』は、フルCGで出来ている。




この映画の魅力は、今ではまずお目にかかれないレトロな風景、


人々のファッション、そして何よりも、ヒロインの


オードリー・ヘプバーンと相手役のグレゴリー・ペックの


演技の素晴らしさだ。何度も観ている映画なのに、ついつい


そのストーリーに、引き込まれてしまう。




悲恋物だが、切なさは感じても、哀しみはあまり感じない


不思議な魅力のある作品だ。




愛美は、この映画を初めて観ると言っていた。


僕は左横の椅子に座っている愛美へと、そっと視線を向けた。




愛美は、無表情だった。


いや、無表情というより、興味を注いでいるような瞳だ。


面白がっている顔ではないことは確かだ。




僕は、すこしがっかりした。やはり若い女性に、


こんな古い映画を楽しんでもらえると思っていた僕が、


間違っていたのかもしれない。


他の派手なアクション映画やハラハラとするサスペンスものを、


選ぶべきだったのかも。






「あまり、面白くなかったかな?」




映画館を出たると、僕の腕に右腕を絡ませている愛美が、


見上げるようにして、言った。




「そんなことないわ。とっても、興味深かったよ」




興味深い?




僕の意識は再び違和感を覚えたが、それはすぐに霧散した。




僕と愛美は、今や行きつけとなった、近くにある南欧風の


喫茶店に入った。窓際のテーブルに僕らは腰かけた。


店内には、十数人の客がまばらにいた。




まもなくウエイトレスが来て、注文をとりにきた。




「わたし、メロンソーダーフロート」




「え?こんなに寒い日なのに?」




僕は、少し驚いて尋ねた。




「映画館、少し暑かったから」




「じゃあ、僕はホットコーヒー」




注文を受け取ったウエイトレスは、すぐに奥へと向かい


カウンター越しにマスターに伝えている。




僕は、愛美の方へ向き直った。




「今日の映画は、ちょっと古臭かったかな」




「いいえ、ああいう愛の形もあるんだなって・・・・


面白かったわよ」




彼女の応えを聴いて、僕は内心ホッとした。




そこえ、ホットコーイーとメロンソーダーフロートがテーブルに


運ばれて来た。




愛美との会話を再開させようとした時、


僕のディスプレイフォンが呼び出し音を立てた。




表示を見ると、宇田川先生からだった。




タイミング悪いな・・・。僕は少し顔を歪めた。




「愛美、ごめん。宇田川先生からだ」




僕は、そう言い訳して、ディスプレイフォンを開いた。


そこには研究室にいる宇田川先生の上半身が、映し出された。




『藤原君、外出中かい?』




僕の背後の風景を見て、どこかの店にいることを察したらしい。




『じゃあ、手短に言うよ。昨夜、キミがメールで送ってくれたレポート、


なかなかよくできていたよ。とても興味深い内容だった。


今夜、時間はあるかい?』




レポート―――?




僕はそんなものを提出した覚えはない・・・。


どういうことだ?




わけのわからないまま、僕は反射的に答えた。




『わ、わかりました。こちらからご連絡します』




僕は、それだけ言うと、ディスプレイフォンを閉じた。




その直後、僕の背後で店のドアベルが鳴った。




「巧君、渋谷駅南口モヤイ像の前って言ってたじゃない。


もしかしてって思って、この店に来たら、やっぱりここだったのね」




愛美の声は、少し荒い息で弾んでいた。少し、僕を責めているようにも聞こえた。




それはまぎれもない、愛美の声だった。


僕は驚いて、後ろを振り返った。


そこには、薄いピンクのチュニックに、青おチェックの入った


マフラーをしている愛美が立っていた。肩には白いショルダーバッグを掛けている。




どういうことだ?


愛美は、僕の前の席にいるはずだ。




僕は、慌てて愛美が座っているはずの、向かいの席に視線を移した。




そこには、たった今いたはずの愛美の姿は消えていた。


僕の心は混乱したまま、愛美がいたはずのテーブルの上を見た。




そこには、ストローと柄の長いスプーンが差し込まれた、


飲みかけのメロンソーダフロートが、たしかにあった・・・。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る