第30話 宇田川博一の見解

僕はその人に会うため、ノートパソコンを入れたリュックを背負い、


千代田区にある喫茶店へと向かった。


木製の格子戸を開けると、ドアベルがチリンと涼し気な音を立てた。


若いウエイトレスが、いらっしゃいませと明るい声をかけてきた。




この喫茶店は、愛美とのデートでたびたび訪れた、なじみのある店だ


僕は店内を見渡した。待ち合わせた人物は、窓際の席にすでにいた。


木製のシックな4人掛けテーブルの上には、コーヒーの入った


白いカップが乗っている。






その人物は、僕が通っている大学の男性講師だ。


彼の名は、宇田川博一。コンピューター工学の専門家だ。


正確な年齢は知らないが、40歳半ばというとことだろう。


肌は白く、少しも陽にやけた跡がない。カップを持つ指も


女性とみまがうほど華奢だ。顔は卵を逆さにしたような面長だ。


銀縁のメガネの奥には、細く切れ長の両目からは、鋭い光が放たれている。


彼は、薄い唇の両端を上げて、ちいさな笑みを作った。




僕は宇田川先生のゼミをとっていて、個人的にも親しい。


講義の時間以外でも、学食でコンピューターの未来について、よく語り合った。


彼の第一印象は、その感情を見せない表情から、冷たく怜悧な性格なのだと


思い込んでいた。しかし、何度か話しているうちに、感情豊かで親しみやすい


人格者だとわかった。それでいて、合理的、論理的な思考の持ち主だ。


当然だが、プログラミング言語に精通していて、彼との会話は、


僕にとって機知に富んだ楽しい時間の一つでもある。




僕は、宇田川先生に軽く会釈すると、向かいの席に座った。


ウエイトレスが来て、注文を訊いてきた。


僕は、短く「ホットコーヒー」とだけ言った。




宇田川先生は、明るいグレー色のタートルネックに、


濃い茶色をしたバックスキンのジャケットを羽織っていた。


彼の椅子の脇には、こげ茶の革製ショルダーバッグが置かれいている。




僕は、チェックのマフラーをほどき、リュックといっしょに


傍らの椅子において、もう一つの椅子に腰かけた。




「前置きはなしに、本題に入ろう」




宇田川先生は、銀縁メガネの眉間を人差し指を上げて言った。




「藤原君がプログラミングした人工知能に、人間のような


『意志』があるかということだったね?」




「はい」




「じゃあ、早速そのプログラムを見せてくれないか?」




僕は、リュックのファスナーを開くと、ノートパソコンを取り出した。


テーブルの上に置き、ディスプレイを開くと電源を入れた。


ほんの数秒でノートパソコンは起動した。


タッチパッドを指で操作して、『愛』のプログラムのある


フォルダを開く。そこには『愛』のソースコードが、


テキスト形式で保存されている。テキスト形式では、


プログラムは作動しない。そこにあるのはただの英文字や数字、記号の


羅列に過ぎない。




僕は、ノートパソコンを宇田川先生の方へ、180度回転させた。




宇田川先生はテキストファイルをよく見ようと、


ノートパソコンを引き寄せた。




「これが藤原君が組んだプログラム『愛』か」




彼の両の目は、銀縁メガネの奥で鋭く光った。




僕は昨夜の電話で、『愛』という人工知能について簡略に


説明していた。『愛』というネーミングの本当の意味は伝えていない。


彼女がいないから、自分のための女性型人工知能を作成したとは、


どうしても言えなかった。


だから、宇田川先生には、ただ単に人工知能―――AIだから


『愛』と名付けたとだけ説明した。




その時、ふいに、ウエイトレスがホットコーヒーをトレーに乗せて


持ってきた。だが、宇田川先生はそれにも気づかない様子で、


食入るように、液晶画面を見つめている。




僕が、コーヒーを一口すすったところで、宇田川先生は口を開いた。




「完璧なプログラクムだ。さすがは、我が校トップの藤原君だな。


Python、C++、Haskell・・・はディスプレイフォンに対応するためか・・・。


これをプログラムするのにどれくらいかかったんだね?」




「半年くらいです」




「ほう、それはすごい」




宇田川先生は、腕を組んで本当に感心しているようだった。




驚いていたのは僕の方も同様だった。


数千行に及ぶソースコードを10分足らずで読み込んでしまうとは、


宇田川先生こそ、天才といってもいいんじゃないかと思った。




「藤原君が懸念しているのは、データ解析ツールであるRを


組んでいることによって、このプログラム―――『愛』が


インターネット上のデータを解析、学習しているからじゃないかと


思ってるからかな?それによって『意志』に似た反応を見せると」




僕が無言でいると、宇田川先生は言葉を繋いだ。






「それは理論的にあり得ない」




宇田川先生は、力強い声音で断言した。




「そうでしょうか?」と僕。




「このプログラムが藤原君が昨夜言っていた、


自動運転車の事故、航空機事故などを引き起こし、、


そしてキミの彼女とのデートをこのプログラムが監視していたとは、


にわかに信じがたい。その上、おおて通販サイトの同時サーバーダウン。


どれをとっても、私からは否定せざるを得ない。


なぜなら、人工知能はどこの誰が、


プログラミングをしたかなんて、認識することはないからだ。


ただの言語の構築に過ぎない。工場のロボットから医療の薬剤検査などは


人工知能にもできる。それは膨大なデータから、


正しい動きや認識、製薬の安全性を提示しているに過ぎないからだ。


だが、AIが自らの行動を選択して、実行することなど


私の知識の諒解を逸脱している」




宇田川先生は、にこりとも笑わず、真剣な眼差しで


コーヒーを口に運び舌を湿らせた。


彼の目は真剣で、僕の悩みを、真剣に聞いてくれているようだった。




「でもこのプログラムは、プロトタイプなんです。


『愛』は世界中のあらゆるサーバーからデータを収集して、


学習して、自らを成長させているような気がしてならないんです」




宇田川先生は、しばらく僕の話を聞いていたが、


身を乗り出して答えた。




「そこなんだよ。問題は」




僕が呆気に取られていると、宇田川先生は静かに話しだした。




「人工知能はこちらから・・・つまり能動的な質問に対してだけ答える。


いってしまえば、受動的にしか作動することしかできない。


いわば不完全な2進数の集合体なんだ。それ以上でも、それ以下でもない。


人工知能が自由意志を持つなんて、まるでサイエンスフィクションの世界だよ」




宇田川先生の口調は、決して僕を見下しているのではなく、


諭すような感じだった。




「でも、『愛』は世界中のインターネット、サーバーから


情報を収集しているようなんです。今ではどれだけの能力を


持っているのか、僕には見当がつきません」




僕は、なおも反論した。




「藤原君の気持ちはわかるが、自分を責める必要はない。


これまでのことは偶然の一致で、キミが気に病むことはない」




宇田川先生は、優しく諭すように言った。




「私も自動運転車を使っているが、コンピューターに任せずに、


ほとんど自分で運転してる。


コンピューター工学士が、言うことじゃないかもしれないが」




彼はそう言って、屈託ない笑顔を僕に向けた。




「あらためて言うが、人工知能は所詮、人間の使うツールに過ぎない。


生命ではないんだ。そのことを忘れると、電子の世界をコントロール


する立場を見失い、逆にコントロースされかねないよ。


少なくないエンジニアが、そのエアポケットにすっぽりと


入り込んだ何人かを僕は知っている。キミのような優秀な


プログラマーが、そんなことになるのは避けてほしい」




宇田川先生は、すでに冷めたコーヒーを、のどを鳴らして


飲み干すと、伝票を手に取った。




「では、失礼するよ。また何か疑問があったら、


連絡してくれ」




僕は、宇田川先生が店を出た後、ノートパソコンを


リュックにしまった。


心の中には、まだ納得できない澱のようなものが、


こびり付いて離れなかった。




僕は無意識に、店内にある複数の監視カメラに


目を向けた―――。

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