第22話 信号

杉下愛美の退院が決まった。一時は下半身麻痺の恐れもあったが、


主治医も驚くほどの回復をみせて、松葉杖で歩けるほどにまで


回復した。今後は自宅療養でかまわないということだった。




そういった状況を、僕は彼女の母親からの電話で知った。


それだけではなく、翌日に母親は僕を自宅に招いてくれた。


次いで、愛美と電話を変わった。




「巧君、絶対来てね。ママも巧君には、感謝してるんだから」




彼女の声は、弾んだように明るかった。そのおかげで、


僕の頭の中に、澱のようにこびり付いていた『愛』のことが、


ほんの束の間、脳裏から離すことができた。




「ああ、必ずお邪魔させてもらうよ」




『お邪魔なんて、私は巧君に会いたくて・・・』




彼女はそこまで言うと、自分の言っていることが、


恥ずかしくなったのか、語尾が急にしぼんだ。


電話向こうで、紅潮させている愛美の顔が目に見えるようだった。






それでも尚、僕の頭の片隅に『愛』のこと浮かばずには


いられなかった。




たった今、愛美と交わした会話も、『愛』に聞かれているかもしれない。


そう考えると、愛美と久しぶりに会える高揚感に氷水を差し込まれて


いるような気分になる。




しかし、『愛』を嫌悪しきれないのも事実だった。


憎みたいのに、憎めない―――。


そんな自分の気持ちに苛立った。




『巧君、どうかしたの?』




しばらく無言だった僕に気づいたのか、愛美が


心配そうな声音で訊いてきた。




「何でもないよ。ちょっと考え事をしてただけだ」




何を考えていたの?とは愛美は尋ねてこなかった。




彼女には、僕の心の中にあるものが、何かわかるのかもしれない。




「明日、行ってもいいかな?」




『うん。待ってる』




愛美は嬉しそうに答えてくれた。


まるで目の前に愛美の姿が見えるようだった。


もし彼女がそこにいたら、愛しく抱きしめていただろうと思う。




でも実際に僕の視界にあるのは、人ごみでごった返している交差点だったけど。




スクランブル交差点にいると、


僕を中心にして、周りが回転している錯覚に陥ってしまう。


『愛』の視線を感じて、周囲をすべて疑ってしまう。




歩く人皆が、僕を観ているように思えてしまう。


すべての人の目が、『愛』のものに思えてくる。




それがもし『愛』の視線だとしても、


抵抗できない自分がいること。そして同時に、それを否定したい意識が


共存していることに、僕自身、驚いていた。




交差点の信号が黄色に変わった。

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