雲の向こうからサヨナラを歌って

渋谷楽

第1話 雲の向こうからサヨナラを歌って

 頭を内側から殴られるような鈍い痛みを感じると、俺は、重い瞼をこじ開ける。


「ああ、いってえ……」


 頭を抑えながら最初に視界に入ってきたのは、何でもないピンク色のハンガー。窓の向こうで淡々と降っている雪とそれが重ねって、少し、綺麗だと思う。


「昨日、酒飲んだ……?」


 硬いベッドから身体を起こすと、昨日のことを必死に思い出そうとするが、どうしても思い出せない。大学へは行った気がするが……。


「真ー? 水、持ってきてくれない?」


 昨日が金曜日だということはかろうじて覚えているから、今日は土曜日のはずだ。土曜日、俺は大学があって、真の仕事は休みだ。家にいるはず。


「……真?」


 静寂に包まれた部屋を見渡してみる。


 いつもは散らかりっぱなしの狭い部屋は綺麗に整頓されている。恐らく昨日、見かねた真が掃除をしてくれたのだろう。


「あ、アコギは……」


 テレビの横、いつでも目につくところに、使い込んだアコギがある。決して夢を忘れないように、夢から逃げ出さないように……。


 何とも言えないため息をつき、ベッドから降りた、その時。


「何だ、これ?」


 テーブルに置かれている、置き手紙に気が付いた。


 いや、それは置き手紙と呼んでいいのかわからないくらい雑なものだったが、『その言葉』を見て、俺は、思考がストップした。


「和人くん、さようなら……?」


 手紙を手に取る。まじまじと見つめてみる。上から読んでも、下から読んでも『さようなら』だ。真が? もう二年付き合ってるんだぞ? ありえない。


「ありえない。何か、何かあったんだ。昨日、真に何か……」


 手紙を置き、立ち上がると、ジーパンとパーカーに着替える。それから雪の存在を思い出して、黒のダウンジャケットを羽織った。


 鍵は、開いていた。無感情の金属から、うっすらと真の体温を感じ取れる気がする。


「別れるにしても」


 思い切りよくドアを開ける。一気に体温が下がる冷たい風に、身体を打たれる。


「一言いうだろ。普通……!」


 怒りや物悲しさといった感情を噛み締めながら、俺は部屋を出た。






 他人が踏んで茶色く変色した雪の上を、ジャケットのポケットに手を突っ込んで歩いていく。


 楽しそうに笑う子供の声に顔を上げると、木に括り付けられているイルミネーションが目に入る。夜になってこれらがカラフルに光り出す光景を思い浮かべると、一人残された俺は、心臓を針でつつかれたような痛みを覚えた。


「何なんだよ。ったく」


 目の前、少し盛り上がっている雪を蹴り上げると、それは見事な放物線を描き、木のベンチにぶつかって、弾け飛んだ。寂れた商店街を象徴するかのように、人の代わりに雪を座らせているそれを見ると、俺は、無意識に唇を噛む。


 今年の春は真とここに座って、学校帰りの子供たちを眺めながら、他愛のない話をしていた。


 働いている真は、学生の俺によく小言を言ってきて、俺はそれに不貞腐れるような態度を取って、真の笑いを誘う。黒縁の眼鏡をかけている真の屈託のない笑顔と、たまに見せる恥ずかしそうな上目遣いのギャップが、たまらなく愛おしい。


 真ならまだこの辺りにいるだろうと思った。


 まるで呪いをかけられたように、子供の頃からこの田舎に縛り付けられている俺たちは、片方がいなくなってもこの記憶を忘れられないだろうから。


「さーいらっしゃい、いらっしゃい。コロッケ揚げたてだよー」


 肉屋のおっちゃんの元気な声が、子供たちの声とはまた違った興味を俺に与えてきて、俺は、泣きそうに笑った。


 死がふたりを分かつまで、なんて言葉があるが、


 俺は、そのときが来るまで君とくだらない話をしていたいんだ。


「あっ……ごめんね」


 ぼーっと歩いていると、母親の手を繋ぎ、肉屋に向かっている女の子とぶつかった。あまり強い衝撃ではなかったと思うが、その子はピンク色のマフラーに顔を埋めながら俺を見上げると、何も言わずに歩いていった。


 真の言う通り、金髪はやめるべきだったと思う。


 元から目付きは良い方ではないし、その上髪を染めてしまうと、何とも痛々しい片田舎のヤンキー気取りがそこにはいた。


 有名なバンドマンは俺くらいの時期に髪を染めてるんだよ、俺がそう言うと、真は唇を引き結んで、耐えられないといったように吹き出した。


 どこかから聞こえてくるギターの音色を聞いて、思い出す。


「すごーい! 綺麗だねー」


「きっと、君には似合うと思うよ」


 首筋をくすぐるような甘い台詞に視線を動かすと、窓越しにウェディングドレスを見ているカップルが目に入った。


 俺もいつか、真と……。


「あ……」


 何か思い出せるような気がして、立ち止まる。ウエディングドレス、結婚、真は

確か、昨日……。


『何で将来のことちゃんと考えてくれないの!? いっつも口ばっかりで!』


 家でだらだらしてばかりの俺に、真が怒鳴りつける。


「いや、それは、これから頑張ろうと」


 俺が目を泳がせながらそう言うと、対照的に真の視線はさらに強くなった。


『歌手になりたい、歌手になりたいって、そろそろ現実見てよ! あたしのこともちゃんと見てよ!』


 真が両手を強く握り締めると、俺は冷水をかけられたように血の気が引いていく。


『こんなのがあるからいけないんだ』


 真はゆっくりと俺にアコギに向かって歩いていく。


 真、ダメだ。それをされると、俺は、俺を止められない。


『こんなのがあるから!』


 俺の心臓を掴み取った真に、俺は沸騰した頭で向かっていく。


「俺は……」


 自分の両手に視線を落とす。痛くて冷たくて、熱い、その感触の正体を、俺は知ってしまった。


 頭が真っ白のまま、俺は走り出す。雪で転びそうになるが、何とか踏みとどまる。本当は転んで大怪我をするべきなのに。人混みの中を無理やり掻き分けて行く。俺のことを避けないでくれ、足でもかけて、袋叩きにして、取り返しのつかないことをお前らも俺にしてくれ。


 ごめんじゃ、きっと足りないから。


「不幸な事故だったねぇ」


 うるさい。うるさい。黙っていてくれ。


「雪でスリップして、大学生に激突。現場は悲惨だったらしいわよ」


 大学生でも何でも好きに死ねばいい。


「名前は、確か、武田和人くん、だったかな?」


「は?」


 立ち止まる。気付けば俺は商店街を抜け、国道に繋がる見通しの悪い交差点に立っていた。商店街から繋がる道には信号がなく、子供の頃から、ここは危ないと聞かされていた。


 そこににわかに出来た人集りを縫っていくと、電柱の前にたくさんの花束と、俺の写真が……


 ああ、とっくに俺の日常は、取り返しのつかないことの連続だった。


 ◇   ◇   ◇

 

 ぼろアパートの錆びた階段の音を鳴らすと、一番奥に俺と真の家はある。


 塗装が剥がれた扉の前でうずくまっている真に、何で、とは今では決して言えない。


「あたしが、あんなこと言わなければ」


 鼻をすすった真の、少し離れたところに立って、俺も、真と同じように座り込む。


「和人くんは、何も悪くないのに。あたしが、癇癪起こして」


 空を見上げる。俺も同じような色だ。


「ごめんね」


 呟いた。心の中の栓が外れる音がした。


「唄うから。笑ってよ。似合わないかも、しれないけど」


 君が好きだって言ってたバラード。苦手だった俺は決して唄わなかったけれど、今なら、綺麗に唄える気がする。


 君の悲痛に泣き叫ぶ声と、俺のぐらぐらに叫んだ声を、誰かが聞いていればいいな。


 雲の向こうからでも、君に聞こえれば良いな。











 あなたの大事なものは、何ですか。



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