第八章 最後の水平線

 ホテルの部屋に戻るとマリはバスルームに直行した。

潮でベタつく髪を洗う。太陽に焼けすぎた髪の毛は亜麻色のロープみたいにパサパサになっている。タオルで吹きながらベッドに倒れ込んだ。

 そうか、オリンピック代表になれるのかもしれない。そしてそれはアンとのペアで挑むことになる。

ベッドの右側のカーテンの隙間が切れかかったランプのように光る。月が見えている。

 雲が生き急ぐように流れてゆく。黄色い月の輝きを隠し、薄め、またその光は生まれ変わる。

 嵐が迫ってきているようだ。

「終わったんだな」

 そのままベッドに倒れ込んだ。寝そべったまま月と雲の空のメリーゴーランドを眺めていた。

 気がつくとあたしは船を操っていた。


 平らな海面をプレーニングしている。ティラーからそのスピードが震えとなって伝わってくる。メインセールは完壁なシェープで風を推進力にかえてゆく。

 あたしの470は超高速で突っ走る。空を見上げると、濃いピンク色の空に星がクリスマスツリーのLEDのように、強くて冷たい光を放っている。天の川まで見える。

 左を見ると、クルーが完璧なトラピーズでトリムをとっていた。その姿がこちらを向いた。ああ、見慣れた顔がにっこり笑う。

「ジュン」

「最高だね。どこにでも飛んでいけそうな気がするね」

 思わず、ゆっくりと息を吐き出した。


「メダルレース、見てたかい?」

「素晴らしいセーリングだったよ。アンは良いクルーだね」

「そうだね。あいつがいなければここまで来れなかった」

「そんなことを言うなんて、マリも成長したね」

「いいや、本当にそうだよ。あたしは、あそこで同じ間違えを繰り返すところ

だった」

「どういうこと?」

「ジュン、あの時に、わたしが舵を逆に切っていればよかったんだ」


「違うよ。あの波が来ること、私は分かっていたんだよ」

 ジュンが静かに言った。


「え?どういうこと?」

「スキッパーとクルーは見えるものが違うんだ。私の場所からは次の波がどう

なるか見えるんだ」

「それで?」

「あの波がバウ沈(ヨットが船首から転覆すること)を起こすことがわかって

いた。私はそれを待っていたんだよ」

「どうして?あそこを乗り越えればオリンピック代表になれたんだよ。それが

ジュン、あんたの夢だったじゃない」

「もう、私の夢じゃなかったんだよ。お父さんもお母さんも夢中になってた。

だって出来の悪い子供が日本代表になるんだ。思ってもみなかったことじゃな

い?」

「ジュンも望んでいたじゃないか。だから一緒に行こう、って」

「分かってるよ。マリ。私はあなたが大好きだよ。小さいころから私を守って

くれた。一緒に夢を乗り切ろうって頑張ってきた。私はそれが本当に楽しかっ

た」

「あたしもそうさ」

「マリ、覚えている?あんたはこんな風を見る力で勝っていいのかね、なんて

ずっと言ってたよね」

「まあ、そうだね」

「マリ、あんたは私の夢のために勝つことに決めてくれた」

「まあ、ジュン、あんたが生まれつき足の速い陸上選手みたいなものだよって

言ってくれたからね」

「何回も話したよね」

「うん」

「あのオリンピック代表決定戦は本当に嬉しかった」

「うん」


「だから、もう、これ以上何もいらないよって強く思ったんだ」


「あたしだってそうだ。あんたがいなかったらどうなってたか分らないよ。親

父も死んで厄介者で、学校でも誰も距離をおいている、そんなときにジュン、

あんたが受け入れてくれたんだよ」

「違うんだよ。私にとってあの時が最高の瞬間だったんだ。一つを抜かして、

私達の夢、あんたの心、全てが完璧に揃った」

「その一つは...」

「代表になっていいのかな、っていうちょっとした迷い」

「...」

「だからだよ。もう、この瞬間で十分って思っちゃったんだ」

「そりゃ、あたしだってそうだ。最高の瞬間だったよ、あそこであれが来なけ

ればね」

「あの波が見えた。どうなるか分かった。その瞬間、ああ、これでもういいん

だ。ここで終わろう、そう思ったんだよ」

「それで」


「だから何も言わなかった。マリ、あなたにも黙ってた。船が波の谷間に落ち

るままに任せた。振り落とされ、落水した。それが私の幸せだったんだよ」


「でも」

「だからもう未練もなかったんだ。もう終わっていいと思ってたんだよ」

「どうするつもりだい?」

「あんたにはアンがいる。彼女はその先を生きようとしている。まだ終えてし

まうには早すぎるんだ。マリ、あんたの力が彼女には必要なんだ」

「なぜ、だ」

「因果律だっけ。あなたの口癖だよ。私はここで終わるために生まれてきたん

だよ」

「そんなわけ無いだろ。誰がきめたんだよ」

「マリ、あんたも分かってるんだろ。今度はアンと二人でバランスをとるんだ。バトンは渡されたんだよ」


 あたし達の間に沈黙が流れた。あたしは、ようやっと、長距離走を走り終えたランナーのようによろめくように、つぶやくことができた。

「ジュン、このオリンピック代表はお前と二人で取るべきものだったんだ」

「マリ、小学校の頃から変わってないね」

 ジュンが柔らかい声で語りかえる。

「いいや、ジュン。あそこであんたが一人だった私に声を掛けてくれたんだよ」

「またその話かい?」

「あれから始まったんだよ」

「マリ、ホントはちょっと怖かったんだ。でもね、あなたは正直だ。オモテも

ウラもないし、決して裏切らない。そんな風に見えた。だから声をかけること

ができたんだ」

「嬉しかったよ。自分が信じてもらえるなんて初めてだったんだ。だから、ジ

ュン、あんたのために生きようって思って来たんだよ」

「なんだか告白みたいだね」

ジュンが少し笑う。

「きっと十年後に出会っても、同じ話をしてそうだね」

「幼馴染ってやつだからね」

「わたし、一人っ子だからね。兄弟が羨ましかったんだ」

「あたしはくっついて回る弟にうんざりしていたよ」

「あんなふうにかい?」


 後ろを見ると、少し離れたところに二艇の470が同じようにプレーニングしている。まるで女王様を警護する家来の様だ。

 クルーの顔は影になっていてはっきり見えない。しかし、彼らは同じ距離を保ったまま、あたし達の船を三角形の頂点にして、超高速でただ海面を滑って行く。


「生まれるってなんだろう」

 ジュンがポツリとつぶやいた。

「風の子だって生まれるよ。でもブローになってすぐに消えてしまうよね」

 と、マリ。

「たまたまヨットがいればブローだって役に立つかもしれないね」

「でも、誰もいなきゃ知られることもなく消えるだけだってことになるよね」

「それって、なんだか依存症みたいでちょっとやだな」

「そうかも知れないね。でも、きっと誰かに出会えなかったら、また次の誰か

のために生まれていたかもしれない」

「じゃあ、わたしって、実は幻ってこと?」

「幻じゃないさ。想いがあればそれで十分ななにかなんだよ」

「でも、身勝手で重すぎる想いっていうのもあるよね」

「そうだね。でも誰かに縛られるってことが誰かを助けていることかもしれな

いよ」

「そうならば、自分にとって生まれた意味って結局何なんだろう?」

「理由なんてないかもしれない」

「じゃあ、どうしてここにいるの?」


「生まれちゃったから」

 ジュンが、一呼吸おいて、少し、低い声で答えた。

「……」

ジュンの言葉にあたしは、ふと視線をそらした。


あたし達の船はセルロイドの下敷きのように半透明でただ平らな海面を滑っている。そのむこうに何があるのだろう。

「バタバタ」

 セールの音がする。

 ジブセールが緩んでいる。

「ジュン、もっとジブシートを引いて?」

 言いかけたあたしの目に、主人を失ったトラピーズフックが映った。古時計の様にスイングしている。

「……」

 そこにいるはずのクルーの名前を呼ぼうとしたが、その思いは形にすることができなかった。

 船は速度を少し落とした様だ。周りを見ると、後ろの二隻の470もいつのまにか消えていた。

 あたしは、孤独だった。

 淡いブルーの海とダークピンクの空、満点の星、その世界で今、たった1人だった。

 だけど、不思議なことに納得感だけがある。

 ああ、ここにいるだけなんだ。未来も過去も、後悔もない。


 出るはずのない涙をあたしは拭った。

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