第六章 再び失われるクルー
あっという間に灰色の雲が空を占領していく。陰気と憂鬱二色にそめあげられた空からは冷たい雨が地面をたたきだした。埃っぽい不安な臭いが舞い上がる。
あたしたちはホテルに戻った。父親との会合のあと、アンは一言も口をきかない。まるでカーペットにコンタクトレンズを落としたかのようだ。首をうなだれて、体の一部だったなにかを探し続けている。
「打ち上げにビールでも飲もうよ」
あたしにしては珍しくアンを誘ってみた。
しかしアンは
「私、シャワー浴びてきます」
一言囁くと部屋に戻って行った。
「そりゃ、一人にしてやらないとな」
そう呟くと、あたしはホテル最上階のバーに向かった。
展望が売りなのだろう。片面のガラスからは先ほどまであたし達が競ってきたヨットハーバーが一望だ。
すっかり力を失った光を浴びて真っ黒にうねるレース海面、その手前にフリートのマストが電柱のように並んでいる。
アルミマストトップから下がるロープが、黒い雲から吹き下ろす水滴を含んだ風に煽られ、チグハグなリズムを刻みながらアルミのマストを叩く。
一人でいびつに冷えたグラスに注がれたビールを口に含みながら、あたしは先ほどの光景を思い出していた。
「お客様、そろそろラストオーダーです」
バーの店員に催促された。いかん、酒を絶っていたはずなのに、飲みすぎた。時間感覚がなくなってしまう。あたしは、やむなく部屋に戻ることを決心した。
あんな顔のアンにどういう言葉を掛けたら良いのだろう、それを考えるだけで気が滅入ってきた。
小学生の時、心に決めて以来、面倒な人間関係を避けてきた。それでもなんとか生き延びてきたのは親友のジュンがいたからだ。そしてあの事故以来、自分の好き嫌いで戦うことも逃げることも選べるようになっていたつもりだった。
「ふう」
我ながら酒臭いな、と思いながらツインルームのルームキーを部屋のハンドル下のスロットにさしこむ。緑色のランプがつく。ちょっと重いドアを肩先で押しこむ。
「アン、帰ったよ」
寝ているかもしれない。ちょっと小さめの声を奥のベッドルームにかける。返事はない。きっと眠っているのだろう。
「まず顔を洗っとこう」
あたしは右手のバスルームの扉をおしあけた。
中は水蒸気でいっぱいだ。きっとアンがシャワーをあびていたに違いない。
洗面台のシンク前の鏡に向かって自分の顔を突き出す。
「ひでえなぁ」
日に焼けて、おでこに大きな傷が会って、おまけにひどく酒臭くて。
ふと鏡の奥に映るバスルームが見えた。そのバスタブ、湯気に煙っているがぼんやりと見える。
その縁から白いタオルのようなものが下がっている。
いやな予感がした。
記憶がスパークする。
高校生のとき、学校から帰ったあたしが目にした、和室の布団から突き出ていた父親の白っぽい手。仕事に出ているはずの父が、朝と同じように寝ている、そしてもはや生き物の気配が残っていないあの部屋。
あたしはバスルームの扉を一気に押し開けた。
目をつぶったアンがバスタブに寝そべっている。顔色が真っ白だ。そしてバスタブからあふれるお湯は、彼女の白い体と著しいコントラストを見せている。
真っ赤だ。
「アン、おい、起きろ」
なんの反応もない。左手を掴んだ。真っ赤なお湯から引き上げる。
ぱっくり、斜めの切り傷と白いケンが見える。
タオルを引っ掴むと手首の傷を押さえつけ、強く巻いた。
すこしでも出血を止めなければならない。
そのままお湯から掲げると、壁にあるインターフォンを取り上げた。フロントにつなげる。
「救急車、大至急お願いします」
「どうしたのですか?
「あたしの、相棒が、手首を切って意識がないんだ、はやく救急か医者をよこ
してくれ」
「6012号室のマリ様ですね?」
のんびりした声が帰る。
「かしこまりました。まずスタッフをそちらにむかわせます」
「今すぐ救急車を呼べ。スタッフなんていらない。分かったか」
繰り返し叫んた。
「かしこまりました」
受話器を叩きつける。
バスタブに駆け寄る。
マリの体を引き上げようとした。
力の抜けた大きな体はそのままバスルームに沈みそうだ。
あたしはアンの体を右手で抱え上げ、タオルを巻いた彼女の左手をなるべく高く掲げる。
「アン、馬鹿野郎、死ぬなよ、頼む」
あたしは叫び続けた。
アンの体が力の抜けた重さで、ずりおちてゆく
「アン、アン、帰ってこい」
あたしは、叫び続けた。
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