第六章 再び失われるクルー

「ちょっとお話していいですか?」

 あたしは振り返った。大柄な外国人男性と若い女性が近づいてくる。

「あ、いいですよ」

 あたしは下を向いたまぶっきらぼうに答えた。


「君が日本の十四番か、素晴らしいレースでしたね」

 アクセントのおかしい日本語だ。身長は百八十を超えているだろう、金髪、細面、つばの有るキャップを被った外国人が話していた。

「どちら様ですか?」


「……!」


 後ろで作業をしているアンが声にならない息を吐き出した。あたしはちょっと驚いて首をねじって彼女をみた。

 塩にやけて茶色に染まったアンの顔が更に赤く紅潮している。その視線は声をかけてきた外国人に向かって飛びかからんば

かりだ。

「素晴らしいレースだったよ」

 その男はアンの視線を不自然に無視して繰り返す。

「最後のレグのコースだが、きみだけがブローが来ることを知っていたみたい

だね」

「運が良かっただけですよ」

 あたしは礼儀正しく答える。実際そうだった。アンが的確に潮や波の動きを読み、自分に伝える。それを聞いてあたしはブローがくるパターンを予想したのだ。こんな時、経験がものを言う。

 そしてそのコースをとった時に本当に風がやってきたのだ。そのお蔭であたしたちは先程のレグに勝つことができた。

「実は、私たちのチームでも一人だけ君と同じ意見を持っていたものがいてね」

 その男性は横に立つ同じように金髪の女性にうなづいた。真っ黒なサングラスで隠された彼女の目にはどんな色が浮いているかは想像できない。きっと髪の色に似合う淡いブルーなんだろう。

 そういえば、あたし達の後ろにノルウェイの国旗をつけた470がついてきていた。しかし、ブローの先端に乗れたのはあたし達だけだった。


「彼女が、どうしてあなた達があのコースを取れたのか知りたいと言ってね」

そこまで男性が話し出した時アンが、必死の言葉の石を投げ込んだ。

「ダッド」

 男性は視線を少し動かそうとした、そしてそのまま言葉をつなげる。

「どうして、いや、あなたにも同じものが見えたのか、ちょっと話してみたい

と言いはるものでね」

「あの」

 男性は明らかにアンを意図的に無視している。

 なんだろう。ちょっと視線を落とした時に男の右手に気がついた。関節が真っ白になっている。掴んでいるスマホが救命ボートへの命綱のように、握りつぶさんばかりの力がこめられ、震えている。


「私たち、オリンピックに出るわ。あなたとの約束を守る」


 アンが喉の奥から、聞いたことのないような声をしぼりだした。

 驚いてアンを振り向いた。日に焼けた顔。コントラストを見せる真っ白な歯。それがギリギリと食いしばられている。その上の、薄いブルーの目は大きく、高波の最中に翻弄された落水者が遠ざかる船に最後の命綱を期待するように、必死で、絶望的で、だけど刺すような光を発していた。


「アン、君がクルーなんだね」

 平坦な日本語。感情のこもらない音声は日本人ではできないレベルだ。

 その男性は続けた。

「彼女がいうには、ブローのあたりは海面が赤く見えるなんていうんだよ」

 その男の言葉がつづく。

「君にもそういう兆しをキャッチできたのかな」

「運が良かっただけですよ」

 あたしは繰り返した。

 男性は子音の多い言葉で横の女性に通訳している。女性が何事か話す。

「あなたにもみえたのではないですか?」

 男性が通訳した。

「なんとなく、風が吹きそうな気がしただけですよ」

「あなた、アンのお父さんなんですか?」

「そうだ、今ノルウェイチームを監督している」

「アンと話したらどうです?」

「残念ながらそういう時間は無い」

「おとうさん、私は約束を守るよ」

「なんの話をしているのかね」


 初めて男性がアンを向いた。その冷淡さにアンは気押されるように言葉を続けられないようにみえる。

 アンの父親は隣の女性に男性は何やら呟く。女性が返す。


「どうやらカン違いだったようだ。ありがとう。また、どこかのレースで会う

かもしれないね。たのしみにしているよ」

 そう話すと、隣の女性にうなづいて背を向けた。

「……」

 アンの口から空気が漏れる音がした。まるで浮き輪に穴が空いたように、大きな体から空気が抜けて行く。


「あれ、アンのお父さんなんだ」

 あたしはやむなく声をかけた。

 アンは去って行く大きな後ろ姿を食い入るように見つめている。

 そして彼らが立ち並ぶレース艇のセールの影に隠れてしまうと、視線を、落とした。

 まるで何か大切なものを落としてしまい、それを探すように。あるいは、重力がそこだけ増したように、肩が落ちている。

「アン?」

「はい、あ、そうです、あ、船片付けなくちゃいけないですよね、トレーラ、

迎えに来るのって明日でしたっけ?」

「アン」

「そうなんですよ、久しぶりだからびっくりしちゃいました、大丈夫ですよ」

 ちょうど強い南風に吹き呼ばれた雲が太陽を隠す。サングラスをかけたあたしは、まるで世界のディテイルが塗りつぶされたような気がした。


「シャワー浴びたいですね」

 アンのわざとらしく大きな声にあたしは何を話して良いかわからなくなった。

「そうだね、きちんと洗って片付けよう」


 年上の人間が言葉の隙間を埋めるために使う命令口調、それだけが変に日陰になったコンクリートの広場に残った。

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