第三章 片浜ヨットクラブ

 それ以来、私は頻繁にマリのヨットクラブに通うようになった。二人でセーリングしたり、マリが教える小さなヨットスクールの手伝いをする。

そして、今日はマリが都合悪いという。なんでも病院に定期検診に行かなければならないそうだ。

 時々ひどい頭痛がするのだという。

「明日の子供達なんだけど」

 マリが口を開く

「代わりにあなたが仕切ってくれない?」

「え、私、タダの手伝いなんですよ」

「大丈夫、十分よ、四人よ」

「私、明日ちょっと用事があるの」

「朝は九時に来て門の鍵を開けてちょうだいね。事務所の扉とラックのチェー

ンも忘れずに。それからフォークリフトの扱い方はわかるわよね」

 自分が口を挟む隙は一ミリもない。

「鍵はどこにあるのですか」

 それだけの言葉をやっと発することができた。

「オーナーに話しておくわ。八時半に取りにいって」


結局、代わりに自分がスクールで教えることになった。

まず、ハーバーの鍵をもらいに行かなくてはならない。私にとって初めて会うオーナーの家に向かう。

 スマホがなければわからなかったかもしれない。何しろ、このあたりは細い道が入り組んでいるのだ。丸い石を積み上げ、漆喰で固めた垣根が続く。

 廃れた遊園地の巨大迷路のようだ。

 垂直な角を回ると木の門が塀の流れを断ち切っていた。

「平手」と書いたこげ茶色の表札が見える。

石垣に木の門が直接繋がっている。削れた石垣と門柱の隙間から中が見える。

門柱にあるインターフォンを押す。 

「ごめんください、マリさんに言われて鍵をもらいに来ました」

ちょっと上ずったようなへんな声になってしまう。

 返事がない

 もう一回。

「入間アンといいます。マリさんに言われてきました。どなたかいらっしゃい

ますか?」

  やっぱり答えがない。インターフォンが壊れているのかもしれない。どうしよう。こういうの、ホント苦手だ。

 やむなく門を叩こうと手を振り上げた瞬間に

木戸が開いた。

「わぁ」

思わず間の抜けた声を出す。

「話は聞いてるわ。あなたがアンさんね。」

 歳のころは七十近い。日に焼けてシワだらけの顔がそういう。

「これがゲートの鍵、事務所はこれ、それからフォークリフトはこれ、それか

ら?」

 鍵がぶら下がりすぎて団子のようになったキーの束をアンに押し付ける。背の高い自分に対してあまり違いがないように見える。年齢の割にはスッと伸びた背中が清々しい。

「あ、はい」

「いい体つきしているわね。これならマリのクルーができるわね」

「え、でもいいって言ってくれません」

 おどおどと先生におこられた悪戯小僧みたいだ。運動神経はいいほうなのに言葉のピンポンを打ち返せない。いつもあとで嫌な気分になってしまう。


「大丈夫よ、登らない太陽はないのよ」

今度は変なことを言う。

「さ、今日はよろしく頼むわね、あとで様子を見に行くわ」

そういってさっさと引っ込んでしまった。


やむなく私は鍵をカバンに詰め自転車でクラブにとって返した。

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