第一章 撃ち落とされた彗星

もう船速は二十五ノットを超えた。

 うねりは、さらに大きくなる。ブローの塊に乗った船は限界までスピードを上げながら波の上を滑って行く。

 ライバル達は、はるか後ろだ。まるで風呂場に浮かぶアヒルのおもちゃのようにプカプカ浮いている。あたしたちだけが突風を掴み、一気に加速していく。

 船体の後ろに飛沫が上がる。まさしく海の上の彗星、コメットのようだ。

「ゴールが見えてきたよ」

 ジュンが前方から伝える。

「おう、ざまーみろ。オリンピック代表の座はいただきだぜ」

「マリ、言い方が下品」

 自然に笑いがこみあげてくる。温かいものを胸のあたりに感じる。この時のためにあたしたち二人で果てしなく練習を積み上げてきたのだ。それがついに報われる。

「どうした?」

 ジュンが急に口をつぐんだ。ただ、前を見つめている。

「ううん」

 ちょっと遠くを見るような、力が抜けたような、そんな横顔を見せる。その一方で絶妙なバランスでセールは操り続けている。

 あたしはテイラーをただ、まっすぐに保持し続けていた。

 その時だった。


「!」


 あたしは恐怖で顔が凍りついた。

 波が思いもかけない動きをしたのだ。斜め前方から別の巨大なうねりが突進してきたのだ。


「やばい」


 斜めに交差した波は、あたしたちの船を大きく持ち上げた。

 クロスした波と波の間に深い谷ができる。海面に穴が空いたようだ。そこに強烈なブローが背後から吹き込んだ。

崖から下をのぞきこんでいる人の背中を蹴りこむようなものだ。


「バキッ」


「なんだ」


 突然アルミ製のスピンポールが頭から折れた。スピンネーカーが引きちぎれる。

 一気に船のバランスが崩れる。ヨットは船首が飛び込み台からジャンプするように前方に傾く。さらに背の丈くらいの波が背後から襲いかかる。波の底に向かって頭から落ちてゆく。

「くそぉ」

 あたしは瞬間的にティラーを押し込んだ。波の斜面に対し斜めにとがった船首を当てようとしたのだ。

 しかし、一瞬遅かった。大きな波に背中を押された船体は暴れ馬のように船尾を蹴りあげる。ラダーは水面を離れ、空気をかくばかりだ。そして、次の瞬間、船は逆立ちになった。暴走する馬にのった騎手のように、あたしたちは前方に放り出された。


「ジュン!」


 あたしの視界の片隅で、ジュンがトラピーズワイヤーで振り子のように大きく振られていくのが見える。

 そのまま前方の灰色の海面に叩きつけられた。

 そして折れたマストとワイヤーが彼女の体の上に襲いかかってゆく。

 真っ白な船体は逆立ちするように海面に落ちていく。


「ジューン!」


 もう一度、叫んだ。その瞬間、アルミ製のブーム(メインセールを支えるための金属のアーム)があたしの額にフルスイングしてきた。

 躱す間もない。その尖った末端が額に激突した。強烈な血の匂いがする。


 覚えているのはそこまでだった。

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