第一章 撃ち落とされた彗星

「マリ、空だって飛べそうだね」


 ジュンが振り向いた。あたしはだまってうなずいた。高速ですっ飛んでいくヨット、ゴールラインはもうすぐだ。

 オリンピック代表選考を兼ねた470ワールドの最終メダルレース。あたしたちは首位で終えようとしていた。種目は470という二人乗りヨット。四メータ七十センチの長さをもつ白いファイバー製の船体を使う。レースのために作られているディンギー(小型ヨットの名称)だ。そのため、軽量化が図られている。特に乗組員の乗る船体の後部は極限まで薄く作られている。うかつに乗り込むと船尾の床を踏み抜いてしまうほどだ。

 この船体にジブセールとメインセールという二枚の帆、それにスピンネーカーという追い風用の帆が装備される。そしてメインセールと舵を操作する役目のスキッパーが船の後方に座り、ジブセールという前方の帆と船体のバランスを担当するクルーが前方に位置する。この二名でヨットを操り、一着を競う。


「マリ、気を抜かないで」

「あたりまえ」

「ほら、ちょっと風上にのぼりすぎ」


 限界までスピードを出しているディンギーは、微妙な風の振れに船の方向と

セールの傾きを常にあわせて走る。しくじるとスピードが落ちる。


「表彰台のことを考えていたでしょ」

「なんで分かるのだよ」

 あたしは返した。

「何年あんたと組んでいると思っているの」

「小学校からだから、もう十年だな」

「まさかこんなにレースを続けるなんてね」

「こないだ、観光客に言われたよ」

「何って?」

「ヨットレーサーなんてお金持ちなのですねぇ、だってさ」

「そう見えるかもね」

「あんたは金持ちだろう、あたしは問題児童の矯正スクール上がりだからね」

 ここでは小学生からヨットスクールにいるなんて、金持ちか、なにか性格に問題があるかどちらかだ。というのは、問題児をヨットスクールで矯正するというメソッドが未だに海辺の街では受け継がれているからだ。

 そしてジュンは前者、あたしは後者だった。

「結局は同病相憐れむってやつだけどね」


 あたしたちは同じ匂いを嗅ぎ分けた。そしてヨットレースにハマった。なにしろ勝負事は単純だ。大人の都合で裏切られることも無い。勝てば手放しで称賛される。そして、あたしたちは、双子の姉妹よりお互いを知り尽くしてる。

 それだけではない、あたしたちは風を読む特別な才能を持っていた。最終レグでライバルを寄せ付けないスピードで一気にぶち抜くのだ。その姿は「コメット」と呼ばれ、他の選手たちから特別の目で見られていた。

「あいつら、ズルしているのじゃないか?」そんなことも言われたこともある。

 でも、私達はレースをしているのだ。一番速いものがすべてを取ることが出来る。これは道徳の授業でもない。だから、この世界はずっと、あたしたちのものだ。


「マリ、今日のレースで決まるね」

「ああ、まさかオリンピック代表になれるなんて想像もしなかったな」

「このメダルレースで三位以内に入ればいいんだよね」

「うん、ハル達が優勝しても決まりだよ」


 あたしたちのライバルはハルというベテランスキッパーだ。その実績は揺るぎない。数々の国際レースを転戦し、優勝もしているのだ。間違いなく、日本最高のヨット選手達だ。そして、今年のレースは来年のオリンピック代表選考会を兼ねている。通常ならばハルが文句なく代表の座を勝ち取るだろう。

 だが、そこにあたしたちは割って入った。貧乏なあたしたちは国際レースなんてめったに出られない。しかし、日本や近い地域でレースが行われるときは、必ず勝ってきた。ついに、ヨット協会の決めたガイドライン、国際レースで上位にランクされるという決まりもクリアした。そして、このレースで勝てば、たった一つのオリンピック代表の座を、モノにすることが出来るのだ。


「ヨットレースなんてマイナーな競技だよね。」

あたしはいつもジュンに話す。

「でもね、レースで勝てば、日本を代表することができるよね。みんなが認めてくれるよね、これってとてつもない栄誉じゃない」

ジュンが決まってそう応える。

「あんたのとこ、厳しいからね」

「マリだって」

「あたしンちは無関心さ。親戚の婆さんくらいじゃない?」


 そうなのだ。親たちからも、社会からも祝福されてきたと言えないような、あたしたちにとって「国」という権威ある団体から認められる、初めてのチャンスになる。興奮しないほうがおかしい。ジュンも同じ気持ちだろう。


 今、その美しい切れ長の目の奥が光っている。

 あたしは、風下に向かって緩やかに進路を変える。白く輝く船体は大きな手に引っ張られるように加速する。ゴールに向かう最短距離を目指してあたしはティラー(舵を操作する器具)を数センチ単位で調整してゆく。百キロに近い重量の船体はバウ(船首のこと)をぐいっと持ち上げ海面を滑走してゆく。

 ジュンはトラピーズというマストから伸びるワイヤーを命綱にして船体から大きく乗り出している。風の勢いに負けないように体重を使って重心を反対側にかけるのだ。そのアクロバティックな体勢でジブセールを操りながら、左右に激しくブレる船体を抑え込んでゆく。


 二十ノットを超えた。時速でいうと四十キロメートルに近い。海の上での体感スピードはすさまじい。そして、あたしとジュンはこの瞬間が小さいのころから大好きだった。

 自分たちの体や心は、いろいろなものを引きずっていると思う。それだけじゃない。世の中は立場ってやつを持っているやつらの都合でどうにでもルールが書き換えられる。あたしたちは無力だ。

 でも、この重苦しい絶望感を一挙に振り払って飛び出す瞬間がある。まさしく目がくらむような開放感だ。二人でならなんだってできるような気がする。空だって飛べそうだ。


「次のブローが来るぞ」

 あたしは予言した。その風の塊を受けてさらに船が加速する。

「いいね、まだいけるよ」

 ジュンが絶妙なバランス感覚で風の力を柔らかく受け止める。

「サーフィンさせるぞ」

 あたしは大きなうねりに合わせて船体をおりからのうねりに斜めに乗せる。波の力に押されて船体が前に急ぐ。船体に溜まっていた海水は排水口から掃除機のような音を立てながら最後の一滴まで吸いつくされる。船はますます軽くなる。本当に離陸しそうだ。


そう、後少し…

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