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 ――最近、つけられてる気がするの。ロシア連邦保安庁 F R B 、あるいはソ連国家保安委員会 K G B の残党とかじゃないかしら。王家がここで細々と生活してることを嗅ぎ付けたんだわ。


 あれは私とあの方が高校三年生に進級して間もなくのことにございます。あの方は眉を寄せ、いつになく深刻な面持ちで私に仰いました。


 尤も、あの方は演技派にございましたし、私も新手の冗談と受け止め真面目に取り合わなかったのでございます。


 ――本当なんだって。KGBかどうかはともかく――この前もハンチング帽で顔を隠した男につけられてた気がするのよ。あなた、気づかなかった?


 あの方とはいつも連れ立ってお屋敷に帰っておりました。しかし、そのような気配を感じたことはなく、私は首を捻らざるを得ませんでした。あの方が本気で尾行を心配し、何者かの影に怯えているという事実がうまく飲み込めなかったのでございます。


 私は不安なら父に学校まで車を回してもらってはどうかと提案しました。


 ――そうね、それも考えるけど、あなたも今度から気をつけて。つけられてるのはあなたかもしれないし。脅かしてるんじゃないわよ。これは本気の忠告。


 このとき、よくよく注意してみれば、あの方の変容に気づいていたのかもしれません。たとえば、頬のこけ方、顔色の変化といったものに。


 それがいつ頃はじまったのか、お屋敷のわれわれにも知る術はございません。


 ――あの子は学校でちゃんと食べているの?


 ある日、奥様にそう尋ねられました。


 ――ちょっと痩せてきてるんじゃないかと思うの。わたしが訊いても否定するのだけど、ダイエットしてるとか、そういう話を聞いてない?


 奥様が仰るように、あの方は目に見えて頬がこけはじめていました。


 昼食の時間、彼女はいつも私と同席されるわけではなく、他のご学友と一緒にすませることもあり、私の目が届かないところで食事を抜くことはできたはずでした。


 ――ちゃんと食べてるか見ててくれる?


 いま思えば、きっかけとなったのは当時の報道でございましょう。


 リトビネンコ氏の暗殺事件にございます。


 二〇〇六年、ロシア政権に批判的な活動を行っていたジャーナリストのアレクサンドル・リトビネンコ氏がロンドンで怪死を遂げた事件で、イギリス政府は警察のみならず秘密情報部M I 6も調査に動員し、放射性物質ポロニウム二一〇により被爆し死亡したと結論、ロシア政府の関与が疑われ、世界中の耳目を集めた事件でございました。


 現ロシアで長年、政権のトップを務める人物がKGBの局員であったことは有名な話でございましょう。陰謀論――と呼んでいいのかどうかは判じかねますが、ロシアを巡ってきな臭い噂が囁かれる時期だったのでございます。


 そうした報道に触れることで、あの方は不安になられたのでしょう。


 、と。


 あの方が学校で嘔吐しているのをお見かけしたのは、奥様からご相談を受けた数日後の昼休みのことでございました。


 ――毒よヤート


 あの方は私の姿を認めると、青ざめた顔で仰いました。


 ――さすがにポロニウム二一〇ではないと思うのよ。致死量を考えるとね。あれは毒物としては高価すぎるし、手間もかかりすぎる。放射性物質だから周りを巻き込む危険もある。


 あの方は嘔吐物が張り付いた口元をにっと歪めて、笑うようにされました。


 ――わたしはに狙われてる。帝政の復権を恐れる彼らに。


 私はその晩、旦那様と奥様にそのことをご報告しました。


 ――そんな馬鹿な。我々が政権転覆に利用されるとでも?


 尤もにございます。あの方もいつしかご自身で否定されたように、そのようなことは起こりようがないでしょう。


 しかし、それでも恐れる者がいないとは言い切れないのも事実でございます。それは偏執狂的な恐怖であるかもしれませんが、その狂気を共有する者たちがこの極東でロマノフ朝の末裔が逃げ延びていることを突き止め、大事に至る前に根絶やしにしようとしているのではないかと、あの方はお考えになっていたようです。


 ――あの子はどうしてしまったの?


 奥様は誰にともなく問いを投げかけられました。それからさっと青ざめて、


 ――まさか、を――


 ――あの子が? いくら好奇心旺盛とはいえ分別がある子だ。そうだろう?


 ――じゃあ、どうして?


 旦那様は髪を撫でつけ、天を仰ぐようになさいました。そのまま考え込むように腕を組み、目元に深い皺を刻みながら、わたくしに問いかけられるのでした。


 ――あり得ると思うか。たとえば、娘以外に似たようなを見せている生徒がいたりは……


 私には心当たりがございませんでした。


 このとき、旦那様や奥様には別の可能性も浮かんでおいでだったのでしょう。それはつまり、あの方が精神の病を患っているという可能性です。それも、かなり具体的な病名が浮かんでいたことを後に知らされました。わたしも後に、その病について知り、たしかにあの方の症状とぴたりと当てはまると納得したものです。


 もちろん、この段階では薬物の可能性も否定しきれませんでした。いずれにしても、できれば内内に済ませたい。そう考えるのが人情であり親心というものでしょう。


 ――とにかく、一度先生に診てもらおう。内密に、だ。


 旦那様はそう結論付けられました。


 しかし、その機会は訪れなかったのであります。


 ――ねえ、いまどこにいるの。


 六月最初の土曜日、私の携帯電話にあの方から着信が入りました。私が進学塾の模試を受けるところだとお答えすると、あの方はこうお続けになりました。


 ――ねえ、抜けて来れない? やっぱり彼らはいるのよ。わたしのすぐ後ろに、いつもぴったりとつけている。ほら、足音が聞こえるでしょ? 彼らがアニー――彼らが来るアニー イドゥート

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