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はこのくらいにしときましょうか」


 あの方について私がろくに答えなかったせいでありましょうか、姫様は日本語に切り替えて仰いました。それから、私に時刻を確認なされ、「少し早いけど、広場でお弁当にしましょ」と仰いました。公園には広場がいくつか点在するのですございます。


「川と言えば知ってる? 埼玉は河川流域面積が全国一なのよ」歩きはじめてしばらくすると、姫様はふと思い出しになられたように仰いました。「海はないけど、川なら日本一ってことね。だからどうということもないけど、川は流れて海に行き着く。海は世界の川とつながってる。ロシアの川にも」


 姫様は杖で拍子を刻むようにして歩きながら、続けられます。


「学校でそういうことも、習う。理由がないことなんてないってことを。桜草もきっとよくわからない藻みたいなのが進化して最終的にこうなったんでしょう? 受粉の都合なのか何なのか、こういう花を咲かせた方が生存戦略として有利だったからこうなった。人間の目を楽しませるわけでは、決してない。歴史にしたってそう。革命に、地震。ロシアで革命が起こり、東京は地震で瓦礫の山になった。多くの人が東京から離れることを余儀なくされ、そして、その中に曾祖母様と曾祖父様もいた」


 姫様は人目を憚ったのかいったん声を落とし、それから今度は少し弾むような声音で続けられました。


「そうやって身の回りのことと教科書の内容がつながってくるのは、おもしろいわ。世の中のことが全部つながってるんだとしたら、わたしはそれをもっと知りたいし、この目で確かめたい。たとえば、近所に天然記念物の自生地があると知れば、実際に出かけて確かめてみる。それで見渡す限り一面に咲くわけじゃないんだってちょっとがっかりして、でも、それが自然のままってことなんだって知ったりする」


 姫様は手で右脚をいたわるような仕草をされました。椎間板ヘルニアの後遺症で痺れが残る脚を。


「この脚がどうなるのかいまはわからないけど――怪我のおかげでわかったこともあるわ。バレエから遠ざかって、考える時間が持てたから」


 姫様がヘルニアの手術をお受けになったのは、去年の秋のことにございました。リハビリを経て歩けるようにはなったものの、右脚に痺れが残り、杖がなくては脚がもつれてすぐ転んでしまわれるのでした。


 長年、バレエで酷使されてきた体があげた悲鳴。無理をして立った舞台で、立つことも叶わないほどの痛みと痺れが襲ったと聞きます。


 姫様にとってバレエはでかけがえのない人生の一部ございました。練習の過酷さに弱音を吐かれることもありましたが、それでも自らの意思で続けてこられたのです。旦那様や奥様にとどまらず、私や使用人一同、お屋敷を挙げて応援させていただいたものでした。


 それが突如、肉体の限界という形で頓挫させられてしまったのです。


 その悔しさはいかばかりのものだったでしょうか。


 もちろん、まだ快癒の可能性は残ってございます。しかし、姫様の中ではすでに、何かが終わってしまわれたようでございました。


 ――トゥシューズポワントって土に還るのかしら。


 冬にしては温暖だったその週末、私は菜園の土を耕しており、傍から見学されていた姫様はふと思いついたという様子でそのようなことを口にされたのでした。


 ――微生物に分解されるにしてもきっとすごく長い時間がかかるんでしょうね。もう必要がないものなのに、ずっと地中で留まり続けるんだわ。


 それから程なくして、御一家の飼い猫の墓標にリボンが巻かれているのが発見されたのでございます。姫様のポワントに縫い付けられていたリボンでございました。


 姫様が私を伴ってささやかな家出を敢行するようになったのは、それからのことでございます。


 ――あの子のそばにいてやってくれまいか。


 旦那様は私に申し付けられました。


 ――家出なのかなんなのかわからないが、あの子なりに自立しようとしているのだろう。そうなって当然の年頃だ。しかし、脚のこともある。いまは君がそばにいて支えてやってほしいのだ。もちろん、このことは内密にな。お目付け役が張り付いた家出など張り合いがなかろう。


 私の役目は、つまり、姫様の家出に同行し補助すること、無理をしそうなら止めること、想定外の危機からお守りすることでございました。


 尤も、姫様もそのことにはすでに察しがついておられるようで、


 ――今日のこともお父様たちに報告するの。


 二月に大宮公園にカピバラを見に行った折り、姫様は何気なく、といった趣でお尋ねになられました。


 ――いいのよ、別に。わたしはそれもわかったうえであなたを連れ出してるんだから。あなたがいないと段差があるとこは不安だし、お昼も困っちゃうわ。


 姫様のお弁当を用意させていただくのも、私の役割の一つでした。お屋敷には炊事担当の使用人もいてございますが、私は趣味として料理を嗜んでおり、姫様からは「庶民派だけど悪くない味」とそれなりの評価を得ていたのでございます。


 お弁当には菜園の恵みも用い、今日などは姫様が種を蒔かれたルッコラをプロシュットやトマトなどとともにバゲットに挟んでご提供させていただきました。


「お父様は何だかんだで過保護よね」姫様は食後、カフェボトルのコーヒーをお飲みになりながら仰いました。「大人になっても、あなたをお目付け役につけたままなんじゃないかと思うのよ。そこのところ、あなたはどう思うかしら」


 願ってもないことでございます。そんな言葉を飲み込み、思案いたしました。姫様は、私を鬱陶しくお思いになることがあるのでしょうか。お一人で、自由に出歩きたいとお思いになることが。


「姉様のことがあるでしょう。お父様はわたしが同じようにならないようにって心配してるように思えるの。同じを二度と繰り返さないようにって」


 姫様は「だから、本当は何があったのか教えてほしいんだけどね」と続けられました。


 その間、私は喉元まででかかった言葉を飲み込むのに必死でございました。


 いいえ、姫様。あれは失敗にございます。

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