第30話 志念という人

 暖かい陽が、干した布団にさんさんと降り注ぐ。

 睦樹は無言で干した布団を竹でたんたん叩いていた。


「やる気のない叩き方やのぅ」


 普段、一番やる気のない志念に突っ込まれて、少しむっとする。

 しかし今日の志念は、口元を手拭で覆い、着物に襷掛けをして前掛けまでしている。

 初めて見るかもしれない志念のやる気のある姿に、かえって申し訳なくなった。


「志念さんは、普段から家事をしているのか?」


 ふと疑問に思い聞いてみると、志念は当然のように頷いた。


「あやし亭の皆は依頼があれば仕事にいくじゃろぉ。けど、わっちは行かないからねぇ。あとは寄席で落語を打つだけじゃからぁ。基本、ここの家事炊事洗濯掃除なんかは、わっちの担当なんよぉ。ま、皆も居る時は手伝ってくれたりするけどねぇ」


 志念が、くるりと睦樹を振り向く。


「だから、今日は暇そうにしている睦樹君がわっちの仕事の手伝い担当や」


 びしっと指さされて、睦樹はげんなりした顔をした。


「手伝わせているだけじゃないか」


 とはいえ、それだけの家事を一人でこなすのは大変なことだ。

 睦樹は先程よりも力を籠めて竹で布団の埃を落とし始めた。

 そんな睦樹の姿を見て、志念は少しだけ嬉しそうに小さく笑った。


「はぁ、はぁ」


 布団を干した後、風呂と厠の掃除をして部屋の掃き掃除と廊下の雑巾がけ。

 更に干してあった洗濯物を取り込んでたたみ、それからは店全部を掃除。

 最後に陽が落ちてきたということで布団を取り込んで整える。


「もう、疲れた」


 睦樹はぐったりした心と体で、畳にぐにゃりと転がった。


(家事って、大変なんだなぁ)


 里に居た頃は常に誰かが付いていて、総てやってくれていた。

 それが当たり前だと思っていた。


(自分がやらなくても整っているってことは、誰かがやってくれているってことなんだな)


 そんな当然のことに今更気が付いて、なんだか恥ずかしくなった。


「ほーい、睦樹君、お疲れ様」


 志念が茶と菓子を持って部屋に戻ってきた。


「今日は頑張ってくれたからねぇ。ほうじ茶と、わっち秘蔵の栗蒸し羊羹。特別じゃよ」


 小さな盆に持った茶と菓子を見て、睦樹は飛び起き目を輝かせる。


「いいの?」


 志念はうんうんと頷いて、自分も早速羊羹をぱくりと一口頬張った。


「ん~、やっぱり扇屋の菓子は絶品やねぇ」


 睦樹も栗蒸し羊羹を一口頬張る。

 口の中に広がる甘さと鼻に抜ける栗の香ばしい匂いが体に沁みて疲れを癒してくれるようだった。


「美味しい」


 幸せそうな顔で羊羹を頬張る睦樹を眺めていた志念の目が、夕暮れの空に移る。


「そろそろ誰かが、帰ってくるじゃろかねぇ」


 仕事に出ている皆は今、持ち回りで甚八たちの用心棒をしている。

 その面子の中に睦樹は入っていなかった。

 本当の名を思い出したからなのか、睦樹には荷が重いと判断されたからなのか、わからない。少し複雑な、寂しい気持ちになる。


(僕は妖鬼で、少しは役に立てるのに)


 志念は死なないだけで只の人だと、参太に聞いた。

 見目からして刀を持ったりはしそうにないし、いわゆる戦闘要員ではないのだろう。

 でも自分は、今まで出来ないなりに仕事を与えられていた。

 仲間外れにされたような疎外感を持ってしまう。


「芽吹村の里山があった場所なぁ、あすこに木を植えて森を作るんじゃと」


 しゅんとして俯いていた睦樹が、顔を上げる。

 突然突拍子もない話を振られて戸惑っていると、志念は更に話を続けた。


「睦樹君、里山の役割って知っちょる?」

「役割?」

「そう、役割。睦樹君たち鳥天狗にとっては一族の住む所じゃったろ? 隣村の人たちにとっては森の恵みをもらう場所、子の遊ぶ場所じゃ。けど、それだけじゃ無くてなぁ、里山はねぇ、いうてみれば水を貯える大きな桶じゃ」

「桶?」


 不思議そうに小首を傾げる睦樹に、志念は細い目を更に細めた。


「こんもりと盛り上がった大きな土の塊が山、そん中に沢山の種類の木々が根っこを縦横無尽に張っているじゃろ。だから里山は、そこに沢山の水を蓄えることができるんよ。木の根が無くなってしまったら水が山に留まっていられん、土と一緒に流れていってしまう。だから禿山じゃぁ意味がないんよ」


 睦樹は、はっとした。


「じゃあ、甚八たちが金色川の源流を守ろうとしているのは……」


 志念は静かに頷く。


「あすこは火事で木を失っただけじゃなく、山を削って平らにしてしもうたからねぇ。少しでも木が残っていて、脇芽が生きていれば違ったかもしれんけど。あの規模の火事じゃぁ、それも期待できんかったかもしれんけどねぇ」


 脇芽が出ていれば、木は再生できる。

 難事ではあってもそ、こからまた里山を再生することはできたかもしれない。

 しかし、志念の言う通り山を削り木の根まで掘り起こしてしまった今のあの場所に、里山のような役割は担えない。

 あそこはもう『村』なのだ。


「あれだけ大きな里山の代わりが出来る山は、あの周囲にはないからねぇ。金色川の源流が枯れるのは、そう遠くないやろねぇ。植林は良いことじゃが、川が戻ってくるのが何代先になるか、わからんねぇ」


 今、蓄えている分の水が湧き出れば、それで枯れる。

 水を蓄えられるだけの山も木々も、もうないのだから。

 どんなに木を植えても水を蓄えられるほど太く多くの根を張るには長い時が掛かる。

 それまでに枯れてしまった源流は、もう戻らないかもしれない。

 むしろその可能性の方が大きい。

 それでも必死に小川だけでも守ろうと命懸けで植樹しようとしている甚八たちを思うと、胸が苦しくなった。

 西に落ちる夕陽に照らされ、きらきらと輝く金色川は、睦樹も大好きだった。

 遊び場であり、命を繋ぐ水であり、六の命を守ってくれた沢でもある。


「だからねぇ、睦樹君は今回、お留守番なんよ」


 しゅんとして俯いていた顔をゆっくり上げる。

 志念の狐目は、いつもより優しく微笑んでいた。


「君は優しすぎるから、彼らやあの場所を見たら、もっと悲しくなってしまうじゃろ。零は、無理に仕事をさせるような鬼じゃぁないからねぇ。あ、鬼じゃけど」


 両手の人差し指で角を作り零の真似をする志念を見て、睦樹は笑う。

 目からは涙が止まらないのに、笑顔になってしまう。

 流れる涙を志念が手拭で拭いてくれた。


「あやし亭は元々ねぇ、零が一葉とわっちの為に作ってくれた場所なんよ」

「そう、なのか?」


 驚く睦樹に、志念は懐かしそうな顔をする。


「一番初めは只の寄席。それから飯屋が出来て、今は公儀隠密。居候が増えて仕事も増えたけど、全然変わらんねぇ、ここは。変わらずに、居心地がいいよ」


 そう語る志念の顔は夕陽の朱に照らされて、とても穏やかに幸せそうに見えた。

 志念がどれくらい長い時を生きていて、一体どんな苦労をして、ここに辿り着いたのか、睦樹は知らない。

 けれど、少なくとも今は、もしかしたら一番穏やかな生活を送っているのかもしれない。

 彼の表情を見たら、そう思った。


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