萬事処あやし亭

霞花怜(Ray Kasuga)

序章

 ちゃんちゃららん、と軽快な太鼓の音と楽し気な三味線の出囃子が鳴り響く。

 柿渋色の着物に濃紺の帯を合わせた狐目の男が小さな歩幅でそそくさと高座に現れた。

 座布団に座ってとん、と扇子を手前に置くと頭を下げる。

 ゆっくりと上げた顔に微笑を乗せて、置いた扇子を手にすると、男はいつもの調子で噺を始めた。


「さてさて、二百六十年もの長きに渡り泰平の世が続いた江戸時代。世界からは、ろくに戦争もなく一つの政権がそこまで続いたのは奇跡だとして『ミラクル・ピース』などと称されたりもしております。 

 まぁ実際は、一揆や乱が起きたこともありましたもんで、只々平和ってこともなかったわけですが、国を揺るがすような戦がなかったことは事実、日本の外の人から見れば平和と言えるのでございましょう。

 そんな平和な江戸という時代、海外の人に驚かれる事実が、実は他にも幾つかございます。その内の一つが『住んでいた人の数』。百万人が住んでいたとかで、なんとこの時代の世界一なのだそうでございます。

 よく『お江戸八百八町』などと申しますが、お江戸の町は今の東京都と比べると本当に狭かった。繁華街である渋谷や都庁のある新宿は、江戸時代には郊外の村や宿場町。つまりは田舎、江戸の城下町じゃぁなかったわけです。

 東京二十三区の三分の二ほどもない江戸という狭~い町に犇くように百万人が住んでいた。そんな訳だから裏長屋の六畳一間に家族五人が鮨詰状態で暮らしている、なんてことは当たり前で、大して珍しくもなかったんですねぇ。

 長い江戸と言う時代の中でも一番人口が多かったのは中期と言われておりやすが、この頃は江戸の文化が大きく花咲いた時代でもありやした。

 大芝居なら市川團十郎、岩井半次郎、錦絵なら喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽、黄表紙なら山東京伝や曲亭馬琴などなど。今でも皆が知っている有名人が隆盛したのもこの時代。

 江戸の町ってのは今の人が思うより娯楽が多くあった。何より、なんでも楽しんじゃう江戸っ子が、沢山住んでいたのでございます。

 そんな『江戸の華』が満開に咲くちょっと前、田沼意次という老中がおりやした。よく賄賂政治なんていわれて悪役にされることが多いお人でございます。しかしこの田沼さん、あまり知られちゃおりませんが、江戸の文化繁栄の基礎造りに大きく寄与したお人でございます。

 田沼さんが幕政を仕切っていた時代。金融緩和政策で商人は金持ちになり武士の間では役職を求めて賄賂が横行する。

 何だか悪いことにしか聞こえませんが、江戸の町全体を眺めてみれば金回りもよく、直に恩恵を受けていない町人も、割とおおらかな暮らしができていたのでございます。田沼さん自身も江戸のみならず日ノ本という国が豊かになることを望んでいた幕閣でした。

 しかしまぁ、どんな時代でも悪いことを考える人間てぇのはいるもんで、田沼さんの政を巧いこと利用して甘い汁を吸おうとする輩がいるわけです。田沼さんは困りました。だから、こう考えた。そういうやつらはこっそり退治してしまおう」


 手にした扇子でぽん、と掌を叩くと、背中を丸めて狐目を更に細め、囁く。


「そう、ポイントはと」


 背筋を伸ばすとまた、先程のように通る声で軽快に話を続ける。


「この江戸って町、実は住んでいるのは人だけじゃぁございやせん。物怪や妖、精霊や神様、色んな生き物が人に紛れて生きている、そういう所でございます。

 気付いている人いない人様々ですが、知っている人たちは彼らを便宜上、妖鬼ようきと呼びます。そんな妖鬼たち、人とは少しだけ違う力を持っている。田沼さんは彼らに力を貸してもらうことにしました。

 田沼意次ってぇお人は『来る者拒まず去る者追わず』でありながら誰とでも仲良しな、いわゆる八方美人。

 妖鬼とも、あっという間に仲良くなっちゃう。瞬く間に悪者を懲らしめる妖鬼集団を作り上げちゃった。

 それが『萬事処よろずどころあやし亭』、この物語なのでございます。

 とはいえ妖鬼の方にも諸々事情がありますもんで、田沼さんの思惑通りに事が進むばかりではない。時折、頭を抱えることもあったようでございますが……」


 くすり、と一つ微笑を挟むと、男は声音を明るくして更に声を高めた。


「さて此度の一席は、火事で焼けた村をお金持ちの札差の旦那が再建するっていう、これだけ聞くと良い話。

 しかし、村の隣には小さな里山があった。その里山の奥はいわゆる。村人は長い間、そこを大事に守りながら神様と共存しておりました。

 ところが火事の折、里山も一緒に焼けちゃった。行き場を無くした人々と神様。

 人の方は札差の旦那が助けてくれましたが、どうやら神様にはあまり興味がないようだ。

 すると不安や不満を持つ村人が現れる。火事の原因は火付けだという者も現れる。おやおや、ちょっと風向きが変わって参りましたねぇ。

 神様の方にも色々と込み入った事情があるようで、これはすんなり話が進みそうにありやせん。さぁて、『あやし亭』はどうするのでございましょうか。

 歴史の表舞台には決して描かれない、ちょいと不思議なお江戸の物語。さぁ、ここに、始まり、はじまり」

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