【最終章・野良犬の遺書】『去勢』

 それから、あかりとの日々は続いた。

 あのときの、「治療」と同じ日々。

 毎日、同じような色。

 おれはベッドの上で飯を食い、たらいの上で排泄をして、当然眠る。

 性処理さえ、あかりは顔色を変えない。それさえ、排泄と同じ扱いだった。

 たらいの排泄物と同じように、便所の渦に流されていくだけ。

 これは去勢と同義だった。

 あかりはおれの好きな喰い物をいつも用意して、排泄物の処理も嬉々として行い、おれがくしゃみ一つしたら、風邪薬を用意したり、厚手の毛布をかけたりした。

 あのときはアルコール中毒の治療という名目があったが、今はそうではない。

 単純な、飼育でしかない。

 前と違うのは、あかりがおれに対する肉体的なダメージを与えてこなかったことだ。

 あかりのいう通りにさえしていれば、俺の身体には「快」しか与えられなかった。そのことが、おれをより従順なペットに変えていった。

 生きている目的などなかった。


 あかりは、いつも微笑んでいた。活き活きとしていた。彼女の笑顔が、愛おしくさえ感じられた。恐ろしいことに。

 ねじ曲がった愛情だと、誰もが思うだろう。

 状況に焦り、苛立っていたのは一瞬で、あとは全てがどうでもよくなっていた。

 この生活には、全てが足りてしまっている。

 衣食住のすべてが。

 ここには屋根があって、毛布があった。

 あかりは、おれの指の爪を嬉しそうに切る。深爪をして顔をしかめると、当たり前みたいに「ごめん」と言う。まともな、清潔な妹みたいに照れたように微笑む。

 ……何を以てして、まともなのかね?

 切り終わった爪を眺めて、「男の人の爪って堅いね」と嬉しそうに呟く。

「あかりは、こんなにへにゃへにゃ。缶ジュースを開けるだけで、欠けちゃうこともあるんだよ」と言う。

 自分は儚い、弱い存在だと吐き続けるのだ。

 完全にここを出る意思を失ったのは、昨日だった。夕方くらいに、おれを風呂に入れるために枷が外された。あかりを突き飛ばして、逃げることができたのだ。

 しかし、おれはしなかった。

 どうしてだろう。

 そう、おれは去勢された野良犬でしかないのだ。腰を振る行為さえ、形骸化している。

 何も考えられない。ここから放たれた先で、一体何ができると言うんだ?

 どう生きていけばいい?

 その考えが止まらなくなった。おれは、あかりを怖れているんじゃない。ただ、逃げ出すことは過程で、逃げ出した後に果たしたいことがあれば逃げ出そうとも思えるが、おれには目的がない。誰にも必要とされていないからだ。

 あかり以外の、誰にも。

 そんなことを考えていたら、いつのまにかおれはベッドに戻っていて、綺麗に身体を拭かれて、果実のたっぷり入ったゼリーを口に運ばれていた。

 おれは悟ったのだ。ここであかりから必要とされることに、悦びを感じている。 

 子に親が必要なら、親に子も必要だ。あかりは、おれを欲している。

 ……みるくのことを思い出したが、全てにもやがかかっていた。

 ある日の夕方、目覚めるとあかりが、あるものを抱えて立っていた。得意気に、微笑んだ。

「あのね、みてみて。今日、こんなの買ってきた」

 彼女は、レコードくらいの大きさの黒い円盤を取りだした。十センチくらいの厚みがある。

「?」

「ロボット掃除機! おにいちゃんのために用意したんだ!」

「……」

 おれのため?

「かわいいんでしょ? フレデリックって名前つけたんだ」

 あかりが「フレデリック」を床に置く。手を離すと、その機械は掠れた唸りを上げ、自信なさそうに、怯えた様子で床を走り始める。

 細かくちょこちょこと、小刻みに。

「あー、ちがうよ、そっちは壁なのに」

 フレデリックは壁に何度もぶつかって、方向転換しながら、また、壁にぶつかる。学習をしない。隅でじれったそうに呻いているように見えた。

「あはは」

 あかりはそれを見てしばらく笑い、それから無邪気にフレデリックを蹴飛ばした。

「……」

 フレデリックは、蹴られた衝撃でひっくり返り、恥ずかしそうに腹を晒した。憐憫の情と同時に、不思議な仲間意識を覚えるが、ぶんぶんと首を振る。

 バカか。おれは人間だ。おれは生きていて。ロボットとは違う。

「なに、その顔」

 あかりは、半分だけ振りかえる。表情はわからない。

「……なんでもない」

「可哀想だと思った?」

 あかりは、フレデリックを起こした。「彼」はまた、動き出した。

「これ、おにいちゃんの友達だよ。寂しいと思ったから」

 おれの唯一の友達。ロボット掃除機か。

 おう、よろしく。

「そ。フレデリック。壊れやすいみたいだがら、大切にね」

 あかりは、満足そうに笑った。

「何が違うんだろうね。人間を殺すのと、ロボットを壊すのとは」

 彼女は、静かに唸るフレデリックを見下ろした。

「何の違いもない。同じだよね。人間だから、人間らしい生活を送らなきゃいけないわけでもなければ、ロボットだから倉庫で眠ってていいってわけじゃない」

「……」

「おにいちゃん、今はすごくいい顔になってきてる。のへーって感じ。前まで、ずっと可哀そうだった。おにいちゃんは、『自分がどう見えているか』にとらわれていて。誰も見ていないのに、そのことにずうっと怯えてて」

「……」

「あとひといきで、おにいちゃんは人間やめられるね」

 あかりは一筋の涙を流した。本当に、おれを想っての涙なんだろう。

 おれはあかりをたまらなく愛おしく感じ、おれはもう駄目なんだと悟った。

「人間らしさなんて、もう忘れちゃおうね? いいんだよ。あかりと、しあわせになろうよ」

 おれは自分の意思では飯も食えなければ、風呂にも入れない。射精もできない。

 それは、最低限度の生活といえるのか。フレデリックの方が、まだ自由だ。

 かわそうなフレデリック。

 おれは電池を抜いて、フレデリックをそっと抱いた。

 自由だと、疲れるよな。

「にいちゃんは、クソ野郎だ。畜生以下の、生き物。あかりがいないと、何もできない」

 あかりは言った。

「そんなおにいちゃんが、あかりはだいすきなのです」

「……」

「だから、ずっといてね。ずっと。ずっと。ずっとずっとずっとずっと、ずうっと」

 彼女は、恐れているのかもしれない。また、おれが自分の意思をもって、どこかに行ってしまうことを。

 おれに電池があるなら、抜いてくれたらいいのに。

 だって。

 こんなにあかりはおれをしあわせにしてくれるのに、やっぱり辛くて涙が出るんだ。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ。何があっても、あかりがおにいちゃんを守るからね」

 彼女は笑顔を作り、テレビのリモコンを握った。

「ね、テレビ、見ようよ」

 あかりは電源をつけた。ニュースキャスターは右の頬を釣りあげて、パンダの誕生を喜んでいた。そういうように、振舞っていた。

「かわいいね、パンダ。ここでパンダ飼えないかな」

「……」

 パンダの名前を募集していた。何がいいだろう。

 同じ音の繰り返しじゃないとだめなのかな?

 ま、おれには関係のないことだけれど。

『次のニュースです……』

 そのニュースを聞いて、おれは笑いがこみあげてきた。

 鳩目ウロが、逮捕された。

 罪は霊感商法、詐欺等。年末、彼の熱心な信者が「世界の終末」を怖れ、殺人事件を起こしたところから、「鳩と愛の集い」に警察の捜査が入ったそうだ。

 そこからは芋づる式に、犯罪が明るみになった。世界は終わらなかった。ただ、終わってくれたらどんなに良かっただろうと思った。

 鳩目ウロは、おれの人生には全く関係ない。そのくせ、こうしてたまに顔を出す。

 あかりは、ニュースを見ながら、「えー、こわぁーい」と甘い声を出しておれを抱きしめた。

『速報です』

 女性キャスターが、原稿に目を落とし、落ちくぼんだ目を広げてた。どこか、得意気に。

『今日夕方、埼玉県のライブハウス・ヤマアラシで火事がありました。本日ライブが行われる予定だったアイドルのファンの犯行と見られ、容疑者は……』

「……!」

 血の気が引くとともに、頭に浮かんだのは喜瀬川だった。

 安否が気になって仕方がなかった。そして、後悔の気持ちでいっぱいになった。

 だから危ないって言ったろ? 

 おれは、言ったじゃないか。

「どしたの? 怖い顔して」

「……」

 あかりは恐ろしく乾いた声で、「ふぅん」と言った。

「もしかして、おにいちゃんがいたアイドル事務所と関係ある?」

「……」

「心配なの? 行ってきたら?」

「……?」

 彼女の言葉に耳を疑った。それを許可するとは、到底思えなかったからだ。

 ここで解放したら、帰ってこないとは考えないのだろうか。

「いいのか?」

 思わず言葉が出てしまう。

 びり。喋ると「こちょこちょ攻撃」は変わらない。

「いいよ、だって」

 あかりは、テレビに目をやった。

「おにいちゃんは、帰って来るもん。はい、お金」

 あかりはおれを開放することで、むしろおれが彼女への依存を強めると確信しているのだ。

 自分の意思で出て、自分の意思で帰ってきたとき――。

 永久に、おれはあかりの飼い犬となるのだ。

 あかりは、財布から紙幣を取り出した。それを折り、紙飛行機を作っておれに投げた。欲しくて仕方なかった紙幣は、あかりにとって紙でしかない。

 きっと、おれにとっても。

 おれは、強烈な吐き気を催した。頭の中が、泡立って冷たくなった。

「いってらっしゃい」

 あかりは、おれの足枷の鍵を外すと、妖しく笑った。それから、おれの服のポケットに何かをねじ込んだ。携帯電話だった。

 彼女が自らの携帯を操作すると、おれのポケットの中が震えた。

 ……今は何も考えられない。

 ただ、走り出した。

 じゃあな、フレデリック。

 かろうじて、おれにはまだ電池が入っているようだ。

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