【最終章・野良犬の遺書】『犬にも実存主義は宿る(が)』

 あかりは、おれのことを心から愛おしそうに頭を撫でた。

「おにいちゃん、やっと会えたね。あのね、ずっと探してたの。オカムラさんに聞いてようやく見つけて……」

「……」

「アイドルの事務所で運転手? あんな胡散臭いところで、辛い目に合わなかったか、本当に、心配で心配で……」

「……」

 おれに喋ることは許されない。考えることは許されているかはわからない。

「あぁ、愛しのおにいちゃん。あかりはここにいます。あかりがここにいて、おにいちゃんがここにいて、世界がそこにあるのです」

 おれがあかりの元から逃亡したとき、彼女はどう思ったのだろう。

 がいなくなって、さ。

「なんで、いなくなったの?」

 彼女は、突如ひどく醒めた目でおれを見た。つやのない、ガラスみたいな目で。

「パピーが死んだときから、また携帯通じなくなっちゃったじゃん。あかりから逃げようったって、無理だよ。追いかけるもん、おにいちゃんが死ぬまで」

 死ねるもんなら、死んだ方が楽かもしれないな。

 考えるのは、もう疲れた。みじめに生きるのは、つらい。

「パピーのお葬式さ、にいちゃんが一応長男なんだから仕切って欲しかったのに、あかりが親戚中回って挨拶とかして。大変だったんだよ? もう、第一夫人から第四夫人の子どもが集まってきちゃって、うちら、なんたらダディ張りの大家族? みたいな。でさ、見たことない美少年とかいて多分第四夫人の息子なんだろうけど、あかりがやさしーく声かけたら、いきなりゲロ吐いて、嗚咽して泣き始めちゃって」

 おそらく、その息子とやらは本能的にあかりに恐怖を感じたんだろう。

「ま、小学生みたいだったから、いきなり父親死んでびっくりしたんじゃないかな? にいちゃんとかあかりみたいに、パピーがクソ野郎で種まき散らし野郎って知らないから」

 あかりは目を瞑る。コロコロと変わる少女らしいあどけなさと、悪意なく兄貴を監禁してしまう感覚は、相反しているようで、共存しうる。

 彼女の残酷さは、常に無邪気さが存在する。

 アリを好奇心で踏みつぶすのは、子どもだけだ。

「『パパぁ、なんで死んじゃったの、パパぁ』って涙流してるその子みてたら、あかりね、めっちゃゾクゾクして、あー、もうこの子、ぐちゃぐちゃにしてやりたいって、思って」

「……」

「その子『羅亥斗』ちゃんっていう、超頭悪い名前だったけど、顔はにいちゃんにそっくりで、ライトちゃん、はぁはぁ……」

 あかりはおれの布団をよだれでべっとりと汚す。非現実的なあかりのキャラクターと、その非現実しか享受できない自分が虚しくなる。

 あかりがおどけるほど、おれは虚しくなって、みじめになった。

「にいちゃんが泣いたとこみたことないから、ライトちゃん泣いてるの見てたら、あぁ、にいちゃんもこんな風に泣くのかしらって思ったらもう……」

 彼女はすぐにトリップして、どこかに「とんで」いってしまう。

 しばらくうっとりとしていたが、自らよだれを拭い、また笑顔を作った。その間、おれはただあかりを見つめることしかできなかった。

「あ、めんごめんご。で、何が大変だったかって言うと、ライトちゃんに手を出さずに、いいおねえちゃんとして振舞ってくるのがマジで大変なのでした。てへりん」

「……」

「あの子も将来、にいちゃんみたいに愛すべきクソ野郎になっちゃうのかなぁー」

 彼女は目を細め、愛おしそうにおれの頭を撫でた。彼女の小さな手は、薄いミルクのにおいがした。

「あかりね、嬉しかったんだ」

 彼女は言う。

「にいちゃんが教育実習で暴れたって聞いたとき、『あぱー、あかりの思った通りのお人だったわん』って思ったの。あかりよりクソ野郎に初めて出会えて、ちょーハッピーで脳味噌腐ってゲロ吐きそうなほど嬉しいって思って☆」

 彼女は嬉々として語り。

 おれの頭をそっと抱き寄せた。愛おしくてたまらない、という笑顔を向けて。

「ぐずぐずと崩れてって、死んでいく」

 おれがどう腐っていくのかに興味を抱き、それが愛おしくて仕方ないと笑うのだ。

「もう拘束の必要ないだろ」

 思わず言葉が漏れた。プライドか恐怖からか、わからないが。

「お、まだしゃべります? 無口な方がモテるぞ?」

 びり。びり。

「そうだろ。おれはもうアル中じゃないんだ」

「あぁ、それは簡単ですYO!」

 あかりは再びおれの頭を撫で、微笑む。

「もうめんどくさいし、おにいちゃんは一生あかりのペットちゃんでいいやって! それももちろん、おにいちゃんのためなんだよ?」

 彼女は再び、どこかへトリップした。それはきっと、未来の世界。

「毎日おにいちゃんの大好きなチョコレートあげるし、トイレだって変えてあげる。あかりが大好きなテレビも一緒に見るの。うっかりやさんのクマさんと、しっかりものの小鳥さんが森で遊んでるやつ、すっごくかわいくて面白んだよ?」

「……」

「そんな番組見てて、子どもみたいでちょっと恥ずかしいけどね。えへへ」

「……」

「夜は、絵本読んであげるね。うふふ」

 寒気が止まらなくなってきた。震える声で、あかりに訴える。

「馬鹿言うな。おれは、仕事が」

 あかりは遮った。スタンガンの出力を上げる。

 びり。びり。あ、それは、だめだ。

「する必要ないよ。あかりのママは、超お金持ちだもん」

「……そういう問題じゃ」

「どういう問題? お金があるのに、なんで働かなきゃいけないの?」

 おれは彼女のむきだしの苛立ちに、言葉に窮する。

「まさかにいちゃんまで、人間の労働の悦び、必要性なんてのを説き始めるんじゃないよね? ひとりの人間としての人生がどうとか言わないよね?」

 付け足すようにおどける言葉を吐き出すあかりが、おれにはグロテスクにさえ思えた。

 ひとりの人間としての人生。そりゃ実存主義ってやつだ。

「自分が人間だなんて思うから辛いんだよ」

 あかりは言った。

 もう言葉を失うしかなかった。

 おれは人間ですらない?

 獣?

 実存どころじゃない、おれには人間としてのアイデンティティもないわけだ。

 野良犬と自分をたとえたが、それはたとえですらなかった?

 いや、犬にだって実存はある。それは、宿

 心のどこかで、彼女に逆らうことさえ、諦めようとしていたのだ。

 おれは、支配されることでしか悦びを感じることができないのだろうか。

 あの、未来の人々のように?

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