【第6章・ご主人様のお仕置き百番勝負ツアー】『現象学的判断停止(股の間から日が昇る)』

 十九時を回った。

 喜瀬川のファンの「ブタ」どもを連れ、ホテルの地下のカラオケルームにいた。三十人くらい入れる大部屋で、ぐるりと部屋の枠を囲うように安いソファが並べられている。そこに思い思い、十人余りの人間が座っている。

 あるものは退屈そうにソファを広く使って寝転がり、あるものは小さな声で談笑をしていた。そのうちのカップルらしき一組の男女が、顔を寄せ合ってこそこそと話をしている。

 その女は、この会場で唯一の女性でもあった。

「つっかマジ、怪しいカルトシューキョーってかんじ?」

「だな、だはは」

 ははは、お分かりのようで大変よろしい。非常に馬鹿そうで、扱いやすそうだ。

 時計を見る。さて、そろそろか。

 ――きん、こん、かん、こん。

 部屋のスピーカーが、軽い鉄琴の音を伝える。

『あー、テス、テス。本日は性転換なり……。あら、久しぶりね、ブタども』

 喜瀬川の、低くて艶のある声。その声に、みな糸に引かれたかのように視線を右往左往させる。間抜けな人形ども。

『くっさいニオイが伝わってくるわ。ブタ箱にぶち込まれて、盛ってんじゃないわよ』

 ざわ、ざわ。

 みな、へらついた表情をして、わくわくと姿勢を正す。こんなざわついているようじゃ、チョーキョーがたりませんぜ、ご主人様。

『あたしの歌がききたいわけ? あたしの声がききたいの? 脳まで、ぐちゃぐちゃにされたいかこらぁ!』

 おぉぉぉぉぉぉぉ。喜瀬川に煽られて、客のボルテージが上がる。

 ダメだ、まだライブで盛り上がるお客さん気分。思考能力を奪うにはもう少しかかるな。

『……と、いきたいところだけど。ここでいきなり御褒美じゃ、しけたイチモツも涙一つ流さないでしょうに。焦らして、焦らして……。ぶっ壊れる寸前まで、お預けよ?』

 わぁぁぁぁ。歓声。ひどく、まとまりのない。

『今から、下僕一号にあたしが預けたありがたーい言葉を伝えるわ。それじゃアデュー、クソブタども。しばらく、「おあずけ」。後で、「躾」と「お仕置き」してあげるわ』

 ぶつん。音が途切れ、視線がおれに集中する。

 またショーの前座ですか、おれ。喜瀬川がここにくるまで、おれが話で繋ぐ。

「あー、みなさまお立会い。エリカ様のありがたい御神託、たしかにお預かりしました」

「ねぇー、その怪我、やっぱご主人様にやられたのぉ?」

 バカにしたように、「ブタ」の引率をしてきたボニ―が、茶々を入れる。間の抜けた声。

 おれの顔の擦り傷のことだろう。お化けが怖くてビビって転んだだけ。とは、言えず。

「ええ。朝飯前にカンチョー、昼寝てろうそく、ナイトミルクがわりの聖水でございます」

 ボニ―は表情一つ動かさず、「でもそれじゃ顔に怪我しないじゃん」と冷静に言った。

 うっせ、茶々入れんな。

「……皆様。世には、現象学的判断停止という言葉があります。それを若者風に言い換えますと、『昨日までのルールに縛られてんじゃねーよ』ということです」

 ちょっと説明として無理やりすぎるかな。

「まったくわかりませーん」

 ボニーは言った。ま、おれにもわからない。いいんだ、これは必要な余剰。

 聞き慣れない言葉を聞くと、人間はその中からわかるものだけを拾い、飲み込もうとする。ここから簡単な言葉を投げかけると、不思議とそちらに傾聴してしまうものだ。

「たとえば、太陽は東から昇って、西に沈むもんでしょう?」

「東って、右のこと?」

 ボニ―は首を傾げる。間違ってないけど、間違っている。

「……ですが、それは今日までの常識。明日には、あなたの股の下から太陽が昇るかもしれません。昨日までの常識は捨ててください。ご主人様は、ひどく常識を嫌います。常識とは、この世界のルールです。この世界に囚われていると言ってもよろしい」

 皆、あるものは半ニヤケ、あるものは少しシリアスな顔で聞いている。既に、差が出てきている。被暗示性、この場合は、騙されやすさの差だ。

「貴方がたは選ばれた、奴隷の中の奴隷。ですが、努力なしには何事もなしえない。そこで、『おあずけ』中にも、ちょっとしたトレーニングをしていただきましょう」

 その「トレーニング」は、おれが過去に読んだ本を参考にして考えたマインドコントロールだ。(あいにく本格的な勉強をしたことがないので、本を参考にすることしかできないのだが)

 幾つかの文献には、マインドコントロールを行う第一歩は、その対象の現実世界での立場、及び価値観の否定であると書かれていた。

 まずは、自らの生きている世界の常識とポジションを捨て去ってもらわなくてはいけない。

 さて。おれは全員を指で数えていく。十五人と聞いたが、実際はやや少なかった。面白半分で予約をしただけの人間もいるのだろう。

「……十一人、いますね」

「なんでうち無視すんの?」

 ボニ―が、口を尖らせて訴える。

 おれは、ボニ―に妙な情を抱いていた。今から行われることに、巻きこみたくない気持ちだったのだ。ライブハウスのスタッフとして同行してもらったが、今から行われる『儀式』には参加させたくない。精々、二泊三日、気楽に観光でもしてきて欲しいところだ。

「ご退室を、ボニ―ちゃん」

 促すと彼女は不満たっぷりな顔をして、「なんで」とへそを曲げた。

「お願いします」

 おれは、理由など告げずに、にっこりと微笑んだ。声の底に、わずかに泥を混ぜて。

「なーんだ、おもろそうなことやりそうなのに、仲間はずれかよー」

 彼女は不平を垂れながらも、部屋を出ていった。よろしい。

「それではまず、皆さま携帯電話をお出しください」

 皆、顔を見合わせ、どうしたらいいのかわからないと言う顔をする。

 おれの言う通りにすればいいんだよ。

「携帯電話は、貴方の縮図だ。人間関係そのものだ。まずは、それを手放すことから始めましょう。不便に感じることもあるでしょうが、その感覚自体、間違っている。不便は、貴方がこの世界に縛られているからだ。まぁ、言うは易いですが……」

「わかったから集めろよ」

 おれの言葉を遮ったのは、先ほどのカップルの男だった。いらついたように、タバコに火をつける。それを摘まみあげ、笑顔で踏みにじってやる。

 男は呆気にとられて、小さく悪態をつくだけだった。

「はい、はい。ここは禁煙でございます」

「わーったよ」

「それでは皆さま、始めましょう」

 おれは微笑んだ。甘い甘い、地獄の始まりです。

 ――ががぁぁぁぴぃぃぃぃぃぃぃ。

 スピーカーを通して、耳をふさぎたくなるハウリング音。

『ご苦労ね。ブタ同士でビヒブヒブヒブヒ。盛ってるのは結構だけど、チンケな萎びたモノ振りまわして、うっすいタネ汁まき散らすの辞めて頂戴』

 喜瀬川の声は、空間にすうっと通る。誰もがそれを聞いていた。乾いた土に水が浸透するように、喜瀬川の声、いや、喜瀬川そのものが、激しく沁み渡る。

『……でも。ブタがビュクビュク、イク声は、ちょっとゾクゾクするわね。あーダメ、あたし、やっぱり生で聞きたくなっちゃったわ。そう。生で、ね』

 おい、ご登場はちょっと早いぜ。しばらくは、おれがどうにかするんだろう。

 おあずけどころか、ご主人様が辛抱たまらんようだ。

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