異世界転生航海記録{一部を抜粋}

中邑わくぞ

船、嵐、人魚。


   異世界転生航海記録{抜粋}


 大陸から離れ遠洋に出ると、そこに広がっているのは一面海水におおわれた、だだっ広い群青ぐんじょうの平野であった。

 いや、平野というにはいささかばかり変化に欠ける。

 例えば、いかなる荒野・砂漠の類であっても、そこには地形の起伏があり、複雑に隆起りゅうきしつつ深襞ドレープのような滑らかさを示す砂丘をなぞっていけば幾何学の深奥しんおうに達するやもしれぬし、赤茶け、ひび割れた地面と屹然きつぜんたる岩山の対比によって、なんらか哲学的な思想にたどり着くやもしれぬ。


 なれど、この原初の生命が生まれた場所は波のうねりこそあれど、おおよそ一様いちようで、平坦がずっと広がっている。

 そこに存在しているのはどこまでいっても”海”なのだ。

 世界はこの”海”によって繋げている。大陸を、航路を、売買を、人間を、動物を、金銭を、概念を、学問を、そして憧憬しょうけいを。


 生物が共通して持つ願望が胎内回帰たいないかいきであるとするのならば、すべての生命は海から生じ、海を出て、海に帰ろうとしているのではないだろうか。

 そして、いまだに海にしがみついている兄弟たちを『母離れできぬ』と軽んじている一方で、母のふところで過ごしていられることに嫉妬しっとしているのやもしれぬ。


 そんな詩人のような感傷的散文を記録するだけの余裕があったのは三日目までのことであった。

 その夜、「明日の朝あたりにシケてきますから、センセイも壊れそうな代物はくくり付けておいたほうがいいですよ」と航海士の一人が夕食の席でのたまった。

 はて。昼間見た時には、世界の果てまで見通せそうなほどの快晴だったというのに、そこまで荒れるということがあるのだろうか。私はこの航海士はきっと、不安神経症ノイローゼを抱えておるに違いないと合点がてんした。


 長期の間ずっと船倉で暮らしていると人間、どこかおかしくなってくるらしく、この船にも船医ドクターが乗っており、外科的処置だけではなく、一種の精神治療サイコセラピーのようなことも行っていたりする。

 出発の寸前など、これからの長い航海に憂鬱症メランコリー気味になってしまった船員たちが列をなしていたほどなのだから、航海士が不安神経症でも何ら不思議はない。

 むしろ私は安心してしまった。

 この屈強な肉体を持つ海の男たちも、精神は参るし、疲労は蓄積ちくせきするし、恋人を思って涙することもあると思えば、出航当初には青い顔をしていた私もすこしは自信を取り戻せるというものだ。


 そんなわけで、適当に相槌を打ちながら自室へと戻り、その日は何一つ準備することなくぐっすりと眠ったわけなのだ。


 次の日、目覚ましとなったのは定刻通りに鳴らされる時間しょうではなく、瀬戸物が叩き割れる音だった。

 異様に思い、ベッドから飛び起きた私が見たのはおおよそこの世の光景ではなく、まるで地獄のかま付喪神つくもがみとなり、百鬼夜行を始めたかのような光景であった。


 棚に納めていた数々の参考資料であるはずの図鑑やら書籍は一つ残らずあるべき場所から逃げ出しており、友人からもらい受けた上等のグラスはデスクから落下し砕け、これまで記録してきた数々の海洋生物たちの素描スケッチはバラバラになり、壁にかけていたシャツはすべてがはがれ落ち、こまごまとした日用品は全てがあらぬ彼方へと放り出されていた。

 それが部屋の中にまで侵入してきた海水にぷかぷか浮かびつつ、轟音ごうおんとともに船がかたむくとその方向へとゆらゆら漂っていく。


 はじめは夢かと思い、かろうじて無事だったベッドに再び潜り込もうとしたところで、今度は大きく船が揺れ、転げ落ちた私は派手に海水をかぶり無様ぶざまさに拍車がかかった。これには筋金入りの現実逃避癖持ちも認めざるを得ない。


 とりあえず優先すべきは資料たちである。海水に浸かってしまってはいるが、それでも乾かせばまだ使えるだろう。そう考え、一時しのぎ的に柔軟性を増してしまった紙のたばどもをすくい上げ、片っ端から上の棚に押し込んでいった。

 古い資料の中にはそれだけのことに耐えられずに崩壊してしまったものもあったのだが、これは万物に存在している寿命というやつなので逆らうだけ無駄だ。そういった類は一緒くたにまとめてしまったので、後日固まってしまって引きはがすのに苦労した。


 ひと段落つけば生来せいらい面倒くさがりの私はすでに飽きてしまっていた。

 第一、多少片づけてみても、船の揺れに合わせて落下してくるのだ。何度やってもそれは同じことで、しかもその大多数はすでに一度海水に浸かっており、何度も飛び込みをやらせるより、このまま放っておいたがほうがいいのではないかという結論に至ったためだ。

 そうと決めてしまえばあとは早い。


 ここまで荒れ狂っている船を見るのはこれが初めてである。なにも物見遊山ものみゆさんで乗り込んでいるわけではないが、それでも今後のために一度見ておきたい。魔物へと変貌へんぼうした海に人間たちがどのようにして抗っているのかをこの目で見たいと思ったのだ。


 船内は思ったよりもひどくはなかった。

 というのも、船員たちはもともとこのような事態を想定していたらしく、落ちそうな代物はしっかりと蓋を有した棚にしまい込んでおり、食器が滅茶苦茶になっているであろうと想像してウキウキしながら向かった食堂も、ほとんどが金属製か木製だったので被害は皆無だった。せいぜい、新入りのボーイがひっきりなしに襲ってくる揺れによって延々と吐き続けているぐらいであり、船員たちは忙しそうにこそしているものの、なんら動揺は見られず、あまり面白くはなかった。


 部屋に戻った私はやることもないので早々と就寝することにした。

 船の手伝いをしてもいいのだが、体力自慢の彼らに混じって貧弱な私が何をやれるというのだろうか。怪我をして船医のやっかいになり、次の日から不機嫌そうな顔をしているのがありありと浮かぶ。

 そのような情けない事態を回避するべく、洗濯桶のごとく引っ掻き回され続ける部屋で唯一無事の空間、ベッドで眠ることにした。


 とはいえ、この状況下で寝入れるほど豪胆ごうたんきもはしていない。なんなら今すぐにでも叫んで逃げ出したいぐらいなのだが、そんなことをしてもいく場所はない。海に飛び込むのならばできなくもないだろうが、それでは人生が終了してしまう。

 結局、こんな時は人類の英知に頼るのが一番だ。

 こうして、とっておきのはずのウイスキーを一瓶ひとびん丸々開けてしまい、私は深い眠りへと落ちていった。なお、見た夢は非常に愉快だったのだが、その内容を忘れてしまったので記すことができない。

 

 翌日、昨日の自棄やけのような狂乱が嘘のように雲一つない快晴となった。

 乗組員は昨日の災難の整理をほとんど終わっており、私はその数少ない例外となり、からかわれながらも、たわんでしまった書籍たちを日干しにかかったのだ。

 書物の貴重さを理解していない船員たちなぞは「センセイが本の干物を作り出した」等といってからかってきたのだが、意に介さずページを開いて日干しを続ける。


 大方終わったところで、にわかに船上が慌しくなってきた。

 船員たちはとも(これは船尾のことを指すらしい。一向に教えてくれぬので大分恥をかいた)に集まり、その手には巾着袋きんちゃくぶくろやら財布やらを持ちながら、バーゲンセールに殺到する主婦の如く他人を押しのけてでも先頭に立たんとしていた。

 

 すわ、これはきっと反乱クーデターに違いあるまいと野次馬根性をさらけ出し、気取られてはならぬとばかりに抜き足差し足にて近づいてみれば、彼らは一様に水面を覗いているのだ。

 レミングスの集団自決という単語が脳裏を過り、これは一喝いっかつして正気を取り戻してやらねばならぬと肺一杯空気を吸い込み、いざ獅子の咆哮ほうこうを炸裂させてみたが、同時に沸き起こった船員たちの歓声によって私の腰の抜けたか細い声など完全にかき消されてしまった。

 慣れない絶叫をしてしまったせいで、喉に焼けるような痛みを覚えた私だったが、目に入ってきた光景に、感嘆きょうたんの息を漏らすことになってしまった。


 人魚マーメイド。乗船前に聞いたことはあった。

 女性の魚人マーマンのことを特にそう呼称しているのだと。

 聞いた時には、なぜそんな面倒くさいことをするのだと思ったものだ。メスならばメスと分類してしまったほうが厄介な活用やら敬称やらを考えずとも済む。第一、同じ種族なのに分けるなどということは男のほうに大分失礼なのではあるまいか。そもそも、半分魚なのだから、気遣いによって何かしらの得があるとは思えぬ。


 そんな考えは一気に吹き飛んでしまった。

 わずかに波立つ、濃紺のうこん水面みなもから顔を出した彼女の美しさはこの世のモノとはとても思えぬほどに整っていたからだ。

 上等の蜂蜜を丹念にして上澄うわずみだけを流したかのような黄金の髪はつややかに輝き、真珠を集めて職人が丹念たんねんに磨いたかのような肌は、内側から見えないエネルギーを発散しているようでもあり、瞳は海そのものを閉じ込め眼窩がんかにはめ込んだかのように深く、それでいながらも慈愛じあいを有した光とともに複雑な色合いを放っていた。

 そして、その顔に浮かんでいるのは南国の太陽を思わせるような極上の笑み。

 どんなに言葉を尽くしても、感動を言い表すことはできまい。

 まさに化外の美しさ。陸生生物のくせに海をゆかんとする人間程度には真似できそうにもないのだ。

 そんな美貌の持ち主に遭遇したのというのだから、鼻の下を伸ばして押し合いへし合いもむべなるかな。

 哀れ、私は船員たちと一緒に手を振り、精いっぱいの声をもって彼女への愛を叫んでいた。

 

 そのうち、船員の一人が「許可が下りた!」などと、これもまた水平線の向こう側まで届きそうなぐらいの大声でもって知らせにやってきた。そうしたら、一斉にロープが何本も垂らされて、可憐なる人魚達はそれにつかまったのだ。

 あとは屈強な男たちが力を合わせてロープを引き、乙女は悠々ゆうゆうと甲板への来訪を果たした。

 とはいえ、何もこれは女に飢えた船員たちの欲望というわけでもなんでもなく、国家公認の商売だったのだ。その証拠に、がってきたきた人魚たちは全員が大きな箱を背にしており、その中からいくつもの珍妙な代物を取り出して並べ始めたのだから。


 航海中の補給物資の積み込みには制限がある。食料やらは保存のきくものが最優先になってくるし、水や酒は好きに飲むというのはなかなかできない。娯楽に飢えているような者もいるし、中にはこれから寄る港の恋人に渡すプレゼントを見繕みつくろうような者さえもいた。

 彼女たちが並べているのは海上では貴重な果物だったり、人間が採取するには多大な苦労を払わねばならないような宝石だったりとか、何とも知れぬ意味不明の物体だったりもした。

 どうやら、売り物はそれぞれで勝手に決めているらしく、ひっきりなしに売買が行われている人魚もいれば、ぽつぽつといった様子の者、喋ってばかりの者までいた。

 女っ気のない航海では、こういったイベントが心のなぐさみになってくるのだろう。

 見目うるわしい人魚たちが、貴重な品々を売りに来るわけだ。金銭の使い道を持て余し気味の船員たちの財布のひもが緩む気持ちも理解できよう。


 私も、蛋白石オパールのような複雑な色合いの瞳の人魚から貝の化石を二つばかり購入した。

 全く客がついていない彼女の話によると、こういったニッチな品は人気がない代わりに、売ろうとする人魚もいないので独占できるとのことだ。しかしながら、儲けはいかほどばかりか。私のような知的好奇心にあふれた文化人がどの船にも乗っているとは思えぬ。

 そう言うと彼女は「そうでもないの。たいていの船には貴方みたいな偏屈へんくつが一人二人は乗ってるものよ」と微笑んだ。


 商売を終えた人魚たちは愛想を振りまきながら舳先へさきから海へと次々に飛び込み、やがてその姿は見えなくなっていった。

 名残なごり惜しそうに手を振り続ける船員たちを尻目に、私は買い付けた貝の化石を調べるために、日干しにした書籍どもから図鑑を見つける作業に取り掛かることになった。


*後日、判明したところによると、この貝は新種であった。貴重な資料をゆずってくれた彼女への敬意を表し、名前を”海底の秘宝パメワン・クラピエ”と古ムシュテ語にて名付けた。


 一週間ほどの航海の末、船はやがて小さな島に寄港することになる。

 現地の人間からは『太陽の島』、船乗りたちからは『楽園の島』を呼ばれるこの島で、私は更に珍妙な文化に触れることになる。

 財宝伝説とトレジャーハンターと、産業革命に沸くこの島は、古代と現代と、浪漫と現実とが、奇妙に融合して共生し、革命の真っ最中であったのだ。


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